【完結】硝子の海と天色の贈り物

那月 結音

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第11話(前編)

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「どう?」
 ガスコンロの前に並んで立ち、母が作った出汁だしの味見をする。
「うん。めっちゃ美味しい」
 いりこと昆布に醤油とみりん。幼い頃からずっと変わらない母の味だ。
 十二月三十一日。今年も、もうあと一時間ほどで終わりを迎える。
 これから、二人で年越しそばを食べるのだ。
 この日は、朝から家中の大掃除に追われ、気づけばとっぷりと日が暮れていた。
 築十二年の八階建てマンション。三階の角部屋。間取りは2LDK。
 母とここへ越してきて、早いもので、もう十年になる。
 二十七日の午後、東京駅から新幹線に乗り込み、夕方神戸に到着した。およそ一年ぶりの故郷。街の景色やその匂いを嗅ぐだけで、どことなく安心する。
 朔哉さんにも言われた通り、年末年始はこちらで母とゆっくり過ごし、向こうへは、四日の夜に戻る予定だ。
 食卓に二人分のそばを用意し、対面して椅子に座る。ふうふうと麺を冷ます音や、つるつるとすする音が、部屋の中に交互に響いた。
 リビングのテレビは、大みそか恒例の某歌合戦を映している。そろそろフィナーレのようだ。
「大学どうなん?」
 母と顔を突き合わせ、食事をするのも、会話をするのも、ちょうど一年ぶり。
 二十八日が仕事納めだったので、現在は母も冬休み期間中だ。
「んー……忙しいし、勉強大変やけど、でも楽しいかな」
「陽菜子ちゃんは? 京都帰ってんの?」
「うん。一昨日から帰ってるって言ってた」
「年末年始は忙しいんやろな」
「大変そうよ。お正月やし、成人式あるし」
 陽菜ちゃんの実家は、京都でも有名な老舗の呉服屋だ。店の手伝いを強いられるとのことで、とりわけこの時期は、毎年帰省するのを嫌がっている。
 それでもねばって帰らなければ、連日お母さんから怒涛の電話とメッセージ攻撃があるらしく、今年は被害を受ける前に帰省する日にちを連絡したそうだ。
 直接お目にかかったことはないけど、着物姿の陽菜ちゃんは格別綺麗なんだろうな。
 あのつややかな黒髪を一つに結い上げ、シックな色味の反物で着飾れば、見惚れてしまうこと不可避だ。店先に立っているだけで、集客率上がりそう。
 ……なんて頭に思い浮かべながら、年越しそばを完食した。急須を傾け、湯呑みにお茶を注ぐ。
 いつのまにやら歌合戦も終了し(今年は紅組が勝利を飾った模様)、あと十分ほどで年明けだ。どこからともなく除夜の鐘が聞こえてくる。
 今年は本当にいろいろなことがあった。とくに後半二ヶ月は、私の運命を大きく変えてしまう出来事に多数遭遇した。
 なによりも感慨深いのは、彼と出会い、彼とお付き合いするようになったこと。これに勝るものはない。
 ……朔哉さん、今頃何してるのかな?
 こちらに帰省してから、毎日連絡を取り合っているにもかかわらず、一緒にいないとなんだか落ち着かない。
 離れてみて、改めて彼の存在の大きさを思い知った。
「思てたよりも痩せてないな」
「……?」
 ぬっと首を伸ばし、意外だというように、母が私の顔をまじまじと見つめてきた。この言葉から察するに、私がきちんと食事を摂っていることに感心している、のだろう。もっとやつれていると思われていたらしい。
 まあ、朔哉さんがいてくれなければ、お母さんの危惧していた通りになってましたけどね。
 お茶を飲み、ホッと一息吐きながら、彼に拾われたあの日のことを回想する。すべては、あの瞬間から始まったのだ。
 ここで、私は母とのある『約束』を思い出した。
 それは、上京した当日。大学入学を直前に控えた日のこと。
 下宿先のマンションで母と一緒に過ごしていたとき、母からこんなことを言われた。
『もしも、お付き合いする人ができたら私に報告しなさいね。茉莉花が好きになった人なら、私は反対しないから』
 当時の私は、頷きながらも、この言葉を適当に聞き流していた。なぜなら、自分にはまったく関係のないことだとたかくくっていたから。
 好きな人ができるだなんて、お付き合いするだなんて、私の頭の辞書には掲載すらされていなかった。実際、朔哉さんに惹かれ、自分の気持ちを認識するまで、その手の感情に興味すら抱かなかったのだ。
 健全な女子とはほど遠い日々を二十二年間過ごしてきた。しかしこのたび、晴れてそんな日々ともおさらばすることができたのである。
 正直、母に話すのは恥ずかしい。非常に恥ずかしい。けれど、約束しているからしょうがない。
 後々バレるよりも、今このタイミングで言っといたほうがいいよね。
 私は、意を決して母に報告することにした。
「お、お母さん……」
「何?」
「あの、ご報告したいことが……」
「どうぞ」
「実は……」
「うん」
「私……お付き合いしている人がいます」
「ふーん」
 ……あら? 反応薄いな。それほどビッグニュースでもなかったのかな。私にとっては、一大事だったんだけどな。二十二歳にもなれば、当たり前ってことですか?
「…………えぇっ!?」
 あ、やっぱりニュースだったみたい。
 見つめ合うこと三秒。口をつけようとした湯呑みを食卓の上にダンッと戻し、母は盛大に言葉を発した。置いた勢いでお茶のしぶきが飛び散り、母のクリクリとした目がさらに大きくなる。
 まさかここまで驚くなんて。……なんかすみません。でも、あなたが言えとおっしゃったので。
 食卓の上を布巾で拭きながら、母の質問に答える。
「大学の子?」
「ううん」
「バイト先の人とか?」
「違う。……バイト先には近いけど」
「どちらさんよ?」
「私がお世話になってる薬局の向かい側に病院があって……そこの院長先生の息子さん」
「お医者さん?」
「お医者さん」
「おー……」
 相手の素性がここまで判明し、少し落ち着いた様子の母は、改めてお茶を含んでごくりと一回喉を鳴らした。
 この時点で反対はされていないようだった。聞きたいことは諸々あるのだろうが、母は黙ったまま、私の次のアクションを待ってくれている。
 ここからが、本番だ。
 私は少し間を置き、簡単にだが、彼との馴れ初めを告白した。
 道端で倒れたところを助けてくれたこと。自宅まで連れ帰って介抱してくれたこと。温かい食事を振る舞ってくれたこと。
 思いのほか、顔色を変えることもなく、ときに相槌を打ちながら聞いてくれていた母だったが、途中、その顔つきは険しいものになった。
 それは、鈴原先生が亡くなっていることと、先生と彼の関係を口にしたときのことだ。
 先生の夫である彼と付き合っているということに、少なからず母は衝撃を受けていたようだった。しかし、それ以上に、先生が亡くなっているという事実に、悲しみを隠し切れていなかった。
 八年前、私が先生に励まされたことを母は知っている。もちろん、私が薬剤師を目指すようになったきっかけも。
「あんた……その人のこと、本気で好きなん?」
 たゆみなく向けられた母の眼差し。
 私は、食卓に置いた湯呑みに両手を添え、加える力を強めた。
 さすがに反対されるかもしれないという懸念が生まれた。が、仮にもし反対されたとしても、それは……それだけは、受け入れられない。いくら母の言うことでも。
「彼、たくさん苦しんだから。……私に彼の傷を癒せるとか、そんなふうに自分を買いかぶるつもりなんか全然ないけど。……けど、私は、彼と一緒におりたい」
 初めてかもしれない。これほどまでに頑として、自分の意見を譲らなかったのは。
 上目遣いで母の様子をうかがう。彼がくれたペンダントにそっと右手を当てた。
 覚悟は、できている。
「ん。わかった」
 ところが、とりたてて何を口にするわけでなく、母はあっさりと納得してくれた。
「……反対、せぇへんの?」
 予想外の母のこのリアクションに面喰ってしまう。完璧でばなをくじかれた。いや、喜んで然るべきなのだろうけど。
 おずおずと尋ねる私に、母が言う。
「せぇへんよ。……あんたも、相当苦しんだでしょ? 茉莉花が本気で悩んで出した答えなんやったら、私はなんも言われへんわ」
「お母さん……」
 そうだった。
 いつだって、母は私の味方をしてくれた。父と結婚したときも……離婚したときだって。
 私のことを一番に考え、私の気持ちを最大限汲んでくれた。
 母のこの愛情に、私はどれほど救われたことか。
「何かあったら、いつでも言いなさい」
「……ありがとう」

 母が『母』でいてくれて、母の『娘』でいられて、私は本当に幸せ者だ。

 午前零時。ついに新年を迎えた。
 やけに外が騒がしい。おそらく、近所の神社へ初詣に行っている人たちの声だろう。毎年、元日のお昼頃に、私も母と参拝するようにしている。
「茉莉花」
 母と年始の挨拶を交わし、急須の茶葉を入れ替えようと立ち上がった、まさにそのときだった。
「?」
 キッチンへと向かう足を止め、母の呼びかけに振り向く。
「今月末、東京行くことになってるんやけど」
「うん。私のマンションで泊まるんやろ?」
 わざわざ電話をかけてきた例の件でしょ? 覚えてますとも。
 これは、私がちゃんとインプットしているのかどうかを確かめ、再度頭に叩き込むための、単なるプロセスだとばかり思っていた。
 にこりと微笑む母。……嫌な予感しかしない。
「会ってみたいな。速水さんに」

 予感的中。


  ◆ ◆ ◆


 私の通っている大学は二学期制で、四月から始まる春学期と、九月下旬から始まる秋学期に分かれている。期末試験なるものも、もちろん存在し、これで半期分の単位が決定する。
 大学生にとっては単位がすべて。順調に単位が取得できるか否かで、後の学生生活、ひいては人生プランまでもが、大きく左右されてしまう。
 言うなれば、死線デッド・ラインだ。
 一月下旬。私は現在、際どいその上に立たされている。
「あー、緊張する!」
「……絶対、嘘」
 どこから見ても楽しんでるようにしか見えないんですけど、翠さん。
 一月の第四金曜日。母が東京にやってきた。
 明日、税理士関連の大規模なシンポジウムが開催されるとのことで、勤務先の所長から参加命令が下りたらしい。
 この日、私が大学から帰ると、すでに母がいた。……くつろいでいた。
 夕方、羽田に到着した母は、その足で私のマンションに向かい、合鍵を使用して一足先に中へ入っていた模様だ。
 交通費はもとより、宿泊費も事務所から出される予定だったそうなのだが、経費を抑えるために、あえて所長に進言したのだという。『娘のところに泊まるので、ホテル代は不要です』と。
 上司思いの気の利く部下。はたから見ればそういう構図なのだろうが、私は母の真意を知っている。
『ホテルで泊まるよりも寝心地好いし、なにより好き勝手できる!』
 きっとこう思っているに違いない。
 そんな母と、私は今、ある場所に来ている。
 上京して、初めて母と夕飯を食べた、近所の洋食屋さん。
 赤煉瓦調の小ぢんまりとしたアットホームな空間。けれど、壁にランタンがかけられていたり、飾り窓がいくつもあったりと、そこかしこに可愛らしいこだわりが見られる。
 もちろん、料理の味も申し分ない。
 都会の隠れ家的なこのお店を、私と母は一目で気に入ってしまった。
 そろそろ、ここに彼が到着する。
「なあなあ、どんな人?」
「やから、直接会って確かめてってば」
 さっきからずっとこの調子。いや、今日彼と会うことが決まってからずっとだ。
 暇さえあれば、『どんな人?』だの『かっこいい?』だの聞いてくる。実家にいたときなんて、東京へ帰るまでの間、のべつまくなく聞かれまくった。帰ったら帰ったで、電話やらメールやらでも同じような質問攻めにあっている。
 いい加減、ちょっと勘弁してほしいかも……。
 元日、私は朔哉さんに新年の挨拶をするため電話をした。その中で、母が会いたいと駄々をこねていることを告げると、驚きながらも快諾してくれた。
『大事な一人娘がどんなヤツと付き合ってるのか、母親が心配するのは当然だ』
 彼には、本当に頭が上がらない。
 思考も所作も、何もかもが大人。非の打ちどころがない。
 今でも十分なのだと、あの日彼は言ってくれたけど、少しだけでもいいから、その背中に追いつきたいと思ってしまう。
「あー、緊張する!」
「……」
 隣で興奮している母に、呆れ顔で溜息を一つ。明らかに言葉と表情が噛み合っていない。
 鼻息が荒い、鼻息がっ!! 目をキラキラさせながらその台詞ってどうよ!?
 心の中でそんなふうに突っ込みながら、店の出入り口のほうへと目を向ける。すると、ちょうど来店した彼の姿が目に飛び込んできた。条件反射で名前を呼ぶ。
「朔哉さんっ」
 私と目が合うと、私達が座っているテーブル席へゆっくりと近づいてきた。
 …………あれ? なんか変だ。いつもと違う。
「!?」
 ちょっ……髭どこ行ったっ!?
 彼の顔に少々違和感をおぼえ、しげしげと見つめてみると、いつも無精をきめこんでいた髭が、きれいさっぱりなくなっていることに気づく。
 これなら二十代と詐称してもまったく問題ない。顔、整いすぎだ。
「はじめまして。速水朔哉です」
 彼は立ったまま、母に頭を下げて自己紹介した。つられて、母も立ち上がる。
「あっ、はじめまして! 茉莉花の母の羽柴翠です。いつも娘がお世話に……って、ちょっと茉莉花!!」
 挨拶を終えぬうちに、母がいきなり私の肩をバシンッと一発しばいた。上方から振り下ろされたせいで、加わる痛みは三割増しだ。
「いった! な、なに……?」
 しばかれた肩をさすりながら、眉を寄せて不機嫌に問う。
 これに対し母は、さきほどよりも一段と目をキラキラ輝かせながら、彼の容姿を褒め称えた。
「めちゃめちゃかっこいい人やないのっ!!」
 テンションMAX。これほどまでにエキサイトする母を見たのは、実に久しぶりだ。……私が大学に合格したときでさえ、こんなにあらぶったりなんかしなかったのに。
 呆気にとられ、その場に立ちつくす朔哉さんに、ひとまずソファに座るよう促す。
 彼は若干狼狽えながらも、私の真向かいに腰を下ろした。
 今なお興奮冷めやらぬ母をよそに、私と彼でメニューを開き、パパッと即決する。私と母はデミグラスソースハンバーグを、彼は赤ワインで煮込んだビーフシチューを注文した。
「……落ち着いた?」
「なんとかな。けど、想像以上やったわ。 ごめんなさいね、取り乱してしまって」
「あ、いえ」
 ほほほ、と笑いながら謝罪する母に、彼はまだ動揺している。
 私も、彼の髭が消えていることにじっくりと驚く暇もなく、その場の流れをすべて母にかっ攫われてしまった。
 ごめん、朔哉さん。ウチの翠さん、『ザ・関西のおばちゃん』なんです。
 カラン、カラン——
 ついさっきから、店のドアベルがひっきりなしに鳴っている。店を訪れたときは、私と母以外にはこの場に二組しかいなかったのだが、今では見える範囲で六、七組程度確認することができた。
 カップル、家族連れ、友人同士……このお店は、客の年齢層も組み合わせも、実に幅広い。
「この子から聞きました。いつも美味しいもの食べさせてもらってるって」
 なんの前触れもなく、母が口を開いた。直前のテンションはどこへやら。朔哉さんに話しかけるその表情は、非常に穏やかだった。
「いえ、そんなにたいしたものは……」
 首を横に振り、謙遜する彼。
 本心からなのだろうが、彼のあの料理を『たいした』ものと言わずして、なんと言おう。いまだに、あのチーズフォンデュの味は忘れられない。
 内緒ですけど、あなたの料理を食べるようになって、私三キロ太ったんですけど。……内緒ですけど。
「いいえ、この子の顔色見たらわかります」
 彼と同様に、母も首を横に振った。そして、視線を私の顔へと移す。
 なんとなくこそばゆくなった私は、体を小さくして自身の足元を見つめた。
「良うしてもろてるんやな、茉莉花」
「……うん」
 そして、照れ隠しをするように下を向いたまま、首を一回だけ縦に振った。
「本当にありがとうございます、速水さん」
「とんでもありません。俺のほうこそ、支えてもらってばかりで……感謝しています。とても」
 和やかなムードの中、私たち三人は、運んでくれた料理を口にした。相変わらず、温かくて優しい味。でも、なんだか今日は格別だ。
 きっと、大切な人たちと一緒だから。
 一時はどうなることかと思ったけど、この日、朔哉さんが母と会ってくれて、本当によかった。
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