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第10話
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温かなものが胸に満ちて、つい表情が崩れたのだ。
は、と息を飲むと、ぱっちりとセオドールと目が合ってしまう。はしたない、と急いで顔を引き締めるが、セオドールは細い眉を垂らして、女神のような優しい笑みを浮かべた。
「ようやく姫様の笑顔を見られました」
ローレンに自慢してしまおう、といたずらっ子のようにくすくす笑うセオドールに首を傾げる。
(どうして、ローレンに自慢できるのだろうか…)
僕がはしたなく笑ってしまったことを報告することは、自慢、にはならない。
それに、目の前の青年は、僕がはしたないことをした、というよりも、砕けた表情を見せたことを心から喜んでくれているように思えた。
「どう、して…」
ぽそ、とこぼれたつぶやきを、彼はちゃんと気づいてくれて、振り返って唇で弧を描いて小首を倒した。
こんなこと、セオドールに言ったところで、どうしようもない。むしろ、これこそ大変失礼な行為だ。
「いえ、なんでもございません…」
急いで頭を下げる。行儀の悪いことをした。
かた、と椅子から立ち上がる音がして、セオドールが非常に不快な思いをしたかもしれないと気づくと、急に爪先が冷えてくる。
ふるさとの話を楽しそうにしてくれていたから、親近感が湧いていたけれど、それは僕の一方的なものであって、セオドールには関係のないことだ。
しばらく恐ろしさに頭を上げられずにいると、どこからか、ピィ、と高い音がした。不可思議な音に、そろそろと顔をあげると、セオドールが花園の前に立ち尽くしていた。
マゼンダや赤、白に黄色。色とりどりのダリアがセオドールを飾り立てるように咲き誇っている。
さらり、と美しい金の絹糸を翻して振り返ったセオドールは細い草を口元に当てていた。ふ、と息を吹きかけると、ピ、と音が響く。
こちらに戻ってくると、もう一枚の細長い葉を僕に差し出してきた。目線が柔らかく、僕にうながしているので、恐れ多いがそれを受け取る。ひらりとジャケットの裾を翻して、元の席につく。それから、もう一度、息を吹き込んで音を鳴らした。
「やっぱりうまくいかない。姫様のふるさとの子供たちに草笛で一曲教えてもらったんだ。それなのに、ちっとも私では出来そうにない」
ほら、あれ。羊たちを呼ぶときに吹く…、と何も気にしていないようにセオドールは笑顔で話を続けた。
「ね、姫様は吹ける?」
問いかけてくる瞳は、太陽の光を吸い込んで、きらきらとエメラルドグリーンにつやめく。底なしに澄んだ瞳に、僕はうなずいてしまった。それから、僕が吹くのを心待ちに笑顔で見ている様子に背中を押されて、久々に、草笛をする。
(ここに来てはじめてする…)
二年ぶりのものだった。けれど、幼い頃から父と一緒にずっと練習してきたことは、身体に沁みついていて、最初の二音さえ吹けてしまえば、簡単だった。
大した曲ではない。音の高低が三種類くらいしかなくて、伸ばしたり短く吹いたり、適当なリズムのついたものなのだ。こちらで聞くクラシックや楽器を使った美しいものではない。ただの、草笛なのだ。
けれど、セオドールは心地よさそうに瞼を降ろして、足を組んでゆったりと背もたれに身体を預ける。時節、頭を揺らしてリズムを刻んでいるようにも見えた。
ひとしきり吹き終えると、セオドールは細長い美しい指先をまとめて、拍手をしてくれた。
「素晴らしいね」
「そんなものでは…」
ただの草笛だ。北方の人々の文化に比べたら、貧相で情けない。
それなのに、セオドールは瞳をより輝かせて、頬を染めて、満面の笑みで僕を讃えてくれた。
「本当に南方は素晴らしい文化ばかりだった。人々はみんな優しくて温かい。まるであの地方の日差しのような人ばかりだった」
もう、戻ることのない捨てたものだと思っていた。
それを、今、急に胸の中に溢れかえってくる。心地よい羊たちとの草原での休憩、オリーブ並木の豊かな香り。無垢で朗らかな子どもたち。親切で世話焼きな大人たち。そのすべてが、ざ、と春風のように流れ込んできて、僕の心をほぐしていく。
「…私の、大切なふるさとを、そう言っていただけて…嬉しいです」
ほろり、と零れた言葉に、身体が弛緩していることに気づいた。けれど、目の前の青年は、その様子をより笑みを深めて、嬉しそうにうなずいてくれた。
「故郷とは特別なものだ。けれど、あそこは抜群に素晴らしい土地だったよ。特に…」
名産でもある大麦を使ったパンについて話をしてくれた。それとオリーブをつけて食べた味を忘れられない、と言ってもらえて、僕の口の中は久しぶりにその味を思い出す。
今度、僕の実家のオリーブを送ると提案すると、手放しにセオドールは喜んでくれた。いつにする? 明日? 明後日? とすぐにでも食べたいと目を輝かせるセオドールは、僕が思っていた彼よりも、何倍も愛らしくて、何倍も好きになってしまった。
空の色が変わり始める頃まで、巧みな話術に乗せられてすっかり僕はセオドールに心を許していた。素直で、表情豊かで温かく、優しい気遣いのあふれる誠実なセオドールに魅了されない人なんていない。そう強く実感すればするほど、こうやってローレンも、彼に恋をしたのだろうか、と陰った気持ちが湧き出てくる。
その思いを流し込むように、執事が入れ直してくれた温かな紅茶を飲み落とす。
「やっぱり姫様は素敵な方だ」
空になったカップをソーサーに戻して、セオドールはつぶやいた。視線をあげると、立ち上がったセオドールの長い毛先が風に揺れていた。
振り返った彼は、穏やかに目を細めて、僕を見下ろしていた。それから、僕の目の前にやってくると、す、と膝を地面につけて、片手を胸元に置いて頭を下げた。騎士らしい美しい所作に、身を正す。
「ここが嫌になったら、いつでも私を呼んでください」
金の長い睫毛が持ち上がって、僕を宝石の瞳が捕らえる。一瞬、とき、と心臓が跳ねる。それから、左手をもちあげられて、指先に温かく柔らかいものが触れた。紳士らしいご挨拶で、こちらの文化なのだろうか。北方の人と関わりをほとんど持っていないからわからず、されるがままで、王子様そのままの動作に見惚れていると、ガーデンの門ががしゃり、と強い音を立てた。
その音が風によるものなのかどうなのか振り返って確認する前には、目の前が黒くなる。
「何をしている」
地を這う低い声に肩がひるむ。ぱちぱち、とまばたきをしながら、声のする方へ視線をあげる。
「君に用があってきたのに不在だったもので、姫様とちょっとお茶会をしてただけだよ」
セオドールが変わらない明るい声で答えている。
それに対して、目の前の黒い影は、チ、と鋭く舌打ちをする。さら、と銀色の毛先が目の前で揺れて、こちらを青い瞳が振り返ってにらみつけた。ぞ、と背中が冷える。
目の前にいた優しい王子様はいつの間にか、ローレンの背中に入れ替わっていた。
「部屋に帰れ」
低い温度のない声と瞳は、完全に僕を拒絶しているものだった。
セオドールと話をして、ふるさとに思いを馳せて、はしゃぎすぎてしまった。血の気が、ざ、と引いて、耳の奥がぐわんぐわんと鳴っている。
「やれやれ、嫉妬とは、見苦しいやつだね、ローレンは」
溜め息混じりにセオドールがつぶやくと、またも舌打ちが聞こえる。セオドールはそれを楽しむように、にやにやと笑いながら続ける。
「セリと君の子どもを、早く見たいなあ」
さぞ美しいことだろう、そう続ける。ぐ、と心臓に一太刀貫かれたような痛みが走る。銀色の後頭部は、ちら、と僕を見下ろした。その仕草には、どのような意味があるのかとごちゃつく頭は余計なことを考え始めてしまう。
「黙れ」
冷たい瞳はすぐに前に移り、一層低くセオドールに不機嫌をぶつける。びり、と肌がざわめく。これは、アルファの威圧だった。そのくらい、ローレンは子どもというキーワードに反応していた。
は、と息を吸って背中を膨らませたローレンは、大きく溜め息をついて項垂れ、前髪をかき上げた。
「用件を聞こう。書斎の方へ」
いつもの冷静な声を取り戻したローレンは僕に背を向けたまま、セオドールの肩を押して入口へと促す。セオドールは一度、僕に振り返って微笑み、またね姫様、と手を振って去っていった。それにさえもローレンは、眉を寄せて大きな舌打ちをした。
僕には、一切、あの美しい碧眼を向けずに。
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