陰日向から愛を馳せるだけで

麻田

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第22話








 高まる心音を抑え込んで、笑顔でうなずくと、彼は眉をあげて、急いで上着を持ってくるように執事に言いつける。

「もう夜はすっかり寒い」

 そう言って彼は、執事から受け取った、僕のサイズのコートをふんわりと肩にかけてくれた。温かく軽いそれは、室内では暑く感じられたが、外気のもとに出ると、必要だということがよくわかった。は、と小さく息をついた僕を見て、彼は僕の前に立って、コートのボタンをひとつ、ひとつ、長くて美しい指で丁寧に止めてくれた。

「も、申し訳、ありません…」

 旦那様にそんなことをさせてしまった、と急いで自分でやろうとすると、指先が触れ合って、目線がぶつかる。彼は、まなじりを下げて、潤んだ瞳に僕を映した。

「やらせてくれ」

 柔らかく囁いた言葉は、耳の奥にじわりと広がると、どくんどくん、と大きくマグマが沸き立つような音を身体の中からさせてくる。
 五つめのボタンまで留め終えると、彼は背筋を伸ばして、僕よりも頭一つ以上、上にある顔を綻ばせて歩み出す。急いで、僕も隣に並ぶ。

「どちらまで…?」

 りり、と虫が鳴いている。その隙間を縫って声をかける。ローレンは、裏庭まで、と答えた。昼間、あのオメガと微笑み合う彼を見たガーデンチェアとは反対の方向へと歩く。
 彼の一歩は僕の二歩くらいだった。けれど、僕が普通のペースで歩ける、むしろゆっくりとできるのは、明らかに彼が歩幅を合わせてくれているからだった。彼は、それを煩わしさを一分にも出さず、むしろ機嫌良さそうに歩いている。
 理由はわからないけれど、腹が苦しかったのが歩く度に軽くなっていく気がする。肌寒さも緊張で火照った頬にはちょうどいい。何より、彼が準備してくれたコートがある。
 高い木がかさかさ、と梢を鳴らし、四季折々に花を添える草木の間に石畳の道がある。そこに二人の足音と虫の音だけが響く。

(こんな風に、並んで歩けるだなんて…)

 式の時の僕は、想像もしなかっただろうな。
 冷徹に振る舞われて、誓いの口づけすらしてもらえなかった。笑顔も、美しい瞳ですらも、僕に向けられることはなかったのだ。
 思いを馳せていると、不思議でたまらなくなってくる。

(どうして、僕がこんな素敵な人と、結婚できたのだろう…)

 運命、というものなのだろうか。
 それが本当にあるのだとしたら、僕は、感謝でいっぱいだ。

(好きな人の妻になれて、どうしてか、こんな風に静かな夜に、二人っきりで肩を寄せて歩けるだなんて…)

 奇跡でしかない。
 心の中でつぶやいた瞬間に、左手がふわり、と包まれる。視線を落として確認すると、骨ばったかさついた指先が僕の手を包みこんで、握りしめた。彼の親指が確かめるように、誓いの指輪に触れる。それから、確かにそこにあるのだ、と納得するように何度も撫でた。
 歩をゆるやかに、僕に合わせる彼を見上げると、凛と先を見つめている。道端に点々と置かれた小さいライトは、ろうそくに擦れたガラスを被せたもので、ぽやぽやと幻想的な風景だった。そこを、彼と手をつなぎ、まっすぐに歩いていく。
 涙が出てしまいそうだった。

(やっぱり…)

 小さく、彼の指先を握り返すと、ちゃんと気づいてくれたようで、さらに力を加えて握り直された。指先同士が撫で合って、絡み合う。より深く、体温を分け合っているようだった。
 思いを自覚してしまえばするほど、身が引きちぎれてしまいそうなほど、強く痛む。

(言ってしまったら、どうなるのだろう)

 彼がどういう反応を示すか、ということよりも、自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖の方が強い。

(止まらなくなってしまいそうだ…)

 自分の意思ではどうすることもできない。
 彼に迷惑をかけたくない。だから、子も成さないように心がけてきた。
 彼が本当に愛する人と結ばれる、その日のために。
 だから、後腐れなく、すぐに離れられるように準備をしていた。
 けれど、この思いを伝えてしまったら、すべてを投げ捨てて、僕だけを見て、とわがままを言いたくなってしまう気がした。
 すべてをめちゃくちゃに壊してしまいそうだった。
 彼の母親も、今日いたオメガも、彼の気持ちも。
 それは、僕が一番望まない形だ。

(僕は、僕を、一生許せなくなる…)

 彼を傷つけることだけは、絶対にしたくなかった。
 彼の地位も、名誉も、心も、何もかも、傷つけることはできない。僕は、陰日向に誰に見つかることもなく、咲き、散っていく花でありたかった。

(だから、自分から求めてはならない…)

 彼がいらない、と決断したその日に、静かに立ち去れるように、自分の思いは、絶対に秘めたままでなくてはならない。

(一度溢れたら、止めようがなくなってしまう…)

 唇を噛んで、言葉を、思いを、必死に飲み落とす。
 ただ、静かに歩き続ける。
 彼の気まぐれだろう。きっと今日は、本を読む気分ではなかったのだ。
 だから、こうして歩いている。思いつきであって、なんてことはない。
 必死に心の中にうずまく感情に蓋をする言い訳を募る。

「ついた」

 彼の声に意識を取り戻すと、砂利道は終わっていて、柔らかな芝の上を歩く。木々の隙間から抜けると、ぽっかりと空を見上げる場所へと上り出た。
 夜空には、無数のきらめきがあって、夜空も流れる川のような模様に淡く色取られたものに見える。こんな夜空は、知らなかった。
 感嘆の声が漏れてしまう。
 夜空は、いつだって真っ黒で、そこに小さい輝きがぽちぽちとあった。瞬くそれらは、儚くも力強さのあるものだった。見つけて、と静かに訴えかけてくるような星に心打たれる日もあった。
 この地方で見える夜空は、少し違うようだった。僕のいる地域よりも、空気が冷たいからかもしれない。
 星もよく見ると、無垢な白のようなものもあれば、黄が混じった温かなものもあった。

(まだまだ、知らないことばかりだ…)

 晴れやかな夜空が、色とりどりなことも、星の瞬きはそれぞれであることも、見えないだけで本当は何千何万もの星がみなぎっていることも。
 見た事の無い美しい光景に心躍っていると、指先がきゅ、と力強く締め付けられる。振り返ると、じ、と僕を熱のこもった瞳で見つめるローレンがいた。
 息を飲んで固まってしまう。反射的に後退ってしまうが、すぐに握りしめられた手を引き寄せられてしまう。もたついた足を何とか踏み出すと、鼻腔を甘く華やかな香りがいっぱいになり、視線をあげると、すぐそこは、つややかに光り、幾重にも青を重ねて澄んだ瞳がきらめていた。

「セリ…」

 薄い桃色の唇は、潤んでいてかすれた声を漏らす。それが自分の名前だと気づくのに時間がかかるくらい、しっとりと、何か大切なものに思えたからだ。
 いけない、と思って距離をとりたいのに、気づいたら、力強く彼の熱い身体に抱きしめられていた。





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