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第23話
あまりにも急な出来事に、頭の中がまったくついていかずに、固まった身体のまま必死に瞬きだけを繰り返す。
もう一度、大切に囁かれた自分の名前が鼓膜を撫でると、肌が粟立ち、次には暴力的なまでに濃密な甘い花蜜の香りが彼の身体から侵略してきた。
(だめ…)
首筋が、じりじりと焼けてしまいそうに熱くなっていく。必死に瞬きさせていた目は、だんだんと重くなっていく。硬くなっていた身体は、甘い香りに魅了されて、ほどけていく。
広い背中に手が伸びていく。彼の大きな手のひらが僕の背中を抱き寄せて、腰を撫でる。僕の身体がすっぽりと収まってしまうほど大きな身体と長い腕は、アルファらしい。そして、身体から惜しみなく出される甘美な香りも、彼がどれだけ優秀なアルファかを思わせる強いものだった。
(だめ…)
伸びた手を、ぐ、と握りしめて、行き所なく宙を彷徨わせる。
縋ってしまったら、何もかもを打ち明けたくなってしまう。
「セリ…」
彼の囁きには、何か色めいたものが含まれている気がする。けれど、それは、性に飢えた、自分の浅ましいオメガ性のためだと言い聞かせる。浅ましさに恐ろしさと情けなさを思い出させて、必死に自分を卑下する。
(僕は、彼のような人と、同等にあれるわけない…)
そもそもこの婚約だって、僕の家の経済を立て直すためのものだ。だから、僕は資産家である彼の家に嫁ぐことになった。
現に、彼からの融資があって、僕の家は、またオリーブを豊かに育て、しあわせに暮らしていると聞いている。彼だって、子を成すために、たまたま都合よく見つかった者を迎えただけなのだ。
(それ以上でも、なんでもない…)
契約のもと、交わされている関係。
僕たちの関係は、ただの夫婦なのだ。それだけ。
(そこに、求めない)
求めてはいけないのだ。
僕の気持ちは、隠し通さねばならないものだ。いけないことなのだ。
(彼の、足枷になりたくない)
どこまでも、凛然とした美しい彼でいてほしい。
そこには、僕のような重荷はいらないのだ。
こんな素敵な、特別な場所に連れてきてくれて、熱い抱擁を与えてくれたとしても、それは、たまたまなのだ。
(偶然結婚した相手が、僕だったから)
本当は、こうやって彼に抱きしめられるべきは、彼と同等の力を持つ美しいアルファのセオドールか、彼にふさわしい可憐さを持つあのオメガか。どちらかがふさわしいはずだった。
(たまたま、都合よく、そこにいただけ…)
彼の真意はわからない。けれど、それは、僕が期待していいようなことではない。
なぜなら、僕は、彼を欺き続けているからだ。
子を成すためにここに来たのに、避妊薬をずっと飲み続けている。
発情期に苦しむ僕に、仕方なく施しをしてくれているというのに、ひどい裏切り行為だ。
(本当は…)
僕が頑なに、それを続けるのには、彼の元を去る準備、というだけではない気がした。
けれど、それに気づいてしまったら、今度こそ、本当に今すぐにでも彼のもとを去らなければならないだろう。
浅ましく、卑しい僕を、僕自身だって、見たくない。彼にはもっと、絶対に、見せてはならない。
(最後まで…嫌いだったら、嫌だな…)
その心配は、強い抱擁の中で溶け落ちていくようだった。
今日、彼を思って買った菓子を潰してしまったことを、あの瞬間を、気づかないふりをして。
はじめて、二人きりで散歩をしたあの夜。
見せてもらった星空は、僕と彼しか知らない場所だと、彼は笑った。
二人で寄り添って、近くの石の上に座って、随分と眺めていた。目線の先で、ちか、と一瞬、星が現れて消えた。
流れる星に願いごとを唱えると叶う、という案外ロマンチックなことを教えてもらった。次に見えたときに、僕は、彼の幸せを願った。
(彼の幸せが見つかって、永遠に続きますように…)
また、ちか、と流れる。顔をあげると、彼は長い睫毛を伏せて、何かを念じているようだった。
しばらく、そうしている端正な美しい顔立ちを見つめていると、星の光を吸い込んだ青が僕を見つけて、瞳が蕩けるように細められて潤んでいた。
それは、まるで、めいっぱいの幸せを詰め込んだようなものだった。
あの夜以降、また僕たちはいつも通りのルーティーンに戻った。夜、食事をとって、部屋に行き、本を読む。ただ、その間、ずっと手をつないでいて、指先を撫でられたり、肩を抱き寄せられて、甘い香りを身体いっぱいに吸い込む距離をとることになる。
心臓がずっとうるさくて、恥ずかしさに身をよじると、余計に重い身体が寄せられて、身動き取れなくなるほど密着される時もあった。
彼の真意を探りたくて、顔を見上げると、僕を一心に見つめていて、穴が開いてしまいそうだと感じた。
熱烈に与えらえる彼からの何かに、答えがわからずに、僕は身を固くして、じ、と耐えることしかできない。
期待してはならない。思いを告げてもならない。
僕のカウントダウンは止まらないのだから。
一週間くらい経った頃だった。部屋で静かに読書をしていると、下から物音がした。何事かと気になって、廊下に顔を出すと、話し声が聞こえる。それは、強い感情を孕んだものだった。階段をゆっくりと下がっていくと、手すりの隙間から、玄関が見える。そこには、銀色を美しくはためかした旦那様がいた。
は、と息を飲んで声をあげようとしたが、すぐにやめる。
「ローレン! 待ちなさい!」
甲高い声は、義母のものだった。玄関でジャケットを執事からもらい、羽織る彼の腕に母親がしがみついた。
「勝手にあの娘を破談した、ですって? 許されるわけないでしょう!」
僕は身をかがめて、彼らの視界に映らないように階段の隅に隠れた。
(破談…って、どういうこと…?)
あの娘、という単語と義母の形相から、それは、あのオメガと彼との縁談の件だと推測される。けれど、破談、という言葉に脳内が追いつかない。
彼は、ここまで聞こえるほどの大きな溜め息をついた。
「母上、もう私のことを勝手に決めるのを止めていただきたい」
「何を言っているの!」
きん、と義母の嫌な声が耳をつんざく。
「一刻も早く、この家の跡継ぎをつくらないといけないの! あの役立たずをさっさと追い出さないで、どうするの?!」
跡継ぎ、僕が彼女にずっと言われ続けた単語だった。立てた膝を抱き寄せていた手に力が入り、シャツに深い皺をつくる。ローレンは、先ほどよりも長い溜め息をついた。
「…あなたが望むように領主も務めています。それ以上、私に望むのですか?」
母親の強い感情とは真逆に、ローレンの声は冷徹だった。実の親に向けるには、あまりにも温度のない声だった。
母親は、だん、と一度足を踏み鳴らしてから、頭を抱えて肩で息を整える。顔を軽く叩いてから、腕組みをして彼に向き直った。背の高い彼と数センチしか目線の変わらない母親は、背筋がぴんと伸びていて、年齢不詳だった。強く、美しく、エネルギーあふれる、アルファらしい女性だ。
「ええ。早く、一族の安泰とかわいい孫の顔が見たいのです。それが一番の親孝行でしょう?」
「やめてください。それなら、今の妻で充分です」
冷静を取り戻した母親は口角を片側だけ上げて彼に伝えるが、被せるようにすばやく、あっさりと拒絶の言葉を愛息子が出してくる。
その速さと淀みない言葉に、僕の身体は、大きく跳ねる。きゅ、と唇を引き結んで、声がもれないようにする。耳の奥でどくどく、と強く早い鼓動が響く。
しかし、僕が感慨にふける暇もなく、またヒステリックな声が屋敷に鳴り渡る。
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