黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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side:T 第53.5話

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 自分で決めたことなのに、依織先輩と会う時間が減ってしまうと思うと、そわそわと落ち着かなくなる。
 習慣である農園の水まきをしていると、突然後ろから衝撃が訪れる。声が漏れて、急いで振り返ると、細い腕が腰に巻き付いていて、脇腹の横に小さな頭が見える。目が合うと、無邪気に頬を染めて、楽しそうに笑う愛しい人がいる。
 依織先輩が楽しそうに笑っていると、心臓が掴み上げられたように苦しくて、それなのに身体の奥底から熱が湧き上がってくる。今すぐにでも抱きしめ返したいと差し伸べようとした手に土まみれの古ぼけた軍手がついているのに気づく。
 汚い手で触って良い人ではない。急いで手袋を取ってから、未だにくすくすと楽しそうに笑う依織先輩の前髪を、さらり、と指先で撫でる。しっとりとしている。もう一度撫でると、汗の粒が指先に触れる。

「また、汗かいてる…」

 ぽそ、と心の声が漏れてしまった。
 以前、依織先輩はここで一人で倒れていた。熱中症だということだったが、依織先輩がこの世からいなくなってしまったらどうしようかと目の前が真っ暗になった。その時から、異様に依織先輩が華奢に見えるようになった。夏休みで痩せてしまったのもあるだろうけれど、依織先輩の身体は抱きしめたら簡単に折ってしまいそうになる。そう思ってしまう自分にすら、恐怖を抱くほど、依織先輩は愛おしくて、絶対に失いたくなくて、それでいて儚いように見える、他の人とは違う種類の存在だと思う。
 それなのに、依織先輩は自分のことを蔑ろにすることがたまにある。いつも、誰を優先させてしまう。

(僕が、ちゃんと大切にしないと…)

 僕にこの仕事を任せてくれた先生に相談したところ、昔、茶道室として使われていた部屋があると紹介してくれた。同好会と化している文化部が日替わりで部室として使っている薄暗い文化棟をさらに奥に進むと、小さなドアがあって、くぐると三畳ほどの畳と小さいシンクと冷蔵庫、それでいてエアコンもついている和室があった。けれど、窓枠は丸い形で、いつも見ている竹藪が一枚の風景画のように美しく収まっている。
 いつも植物園の面倒を見てもらっているお礼だと言って、卒業までは好きに使っていいとこっそり合鍵までくれた。長田先生には頭があがらない。
 僕は、その狭い部屋で依織先輩と二人っきりで過ごす時間が、大好きだった。
 小さなちゃぶ台に並んで勉強をする。
 隣には、まっすぐに背筋を伸ばして、さらさらとペンを走らせる依織先輩がいる。その姿は依織先輩の品性が現れていて、とても美しい。

(こんな人と出会えたなんて…)

 一生の幸福だと思う。そして、この人を好きになれたことが、きっと一生分の運を使ってしまったのだろうと強く感じる。
 僕も頑張らないと、と目の前の学級記録ノートを開いてペンを握る。今日の出来事、授業内容、先生からの連絡、出欠席。気づいたこと。今日一日を振り返って、それを書いていく。学園に入学してから、社会と遮断して生きていたが、一歩下がって、全体を見渡す仕事についてからは、クラスメイトの良さも少しずつ見えてきた。アルファ、オメガのバース性差別、さらに地位や権力にしか価値を持たない人たちだと思っていたけれど、新作のコンビニおかしをみんなでシェアして喜んだり、宿題に追われたり、恋愛事に頭を抱えたり…。それぞれが、自分の知っている学生という存在らしい人たちなのだとわかると、一気に親近感を覚えた。
 意外と、今のポジションを楽しんでいる。だから、風紀委員というものにも、下心はなくはないが、活動を心待ちにしている部分もあった。
 けれど、未だに、依織先輩に言えていない。

(きっと、依織先輩なら応援してくれる)

 そう思っている。思っているのに、言いづらさを抱えて、口をつぐんでしまっている。それは、依織先輩にもし、拒否されたら、僕はどうすればいいのかわからなくなってしまうからだ。

(風紀委員を逃してしまえば、僕は…)

 依織先輩の隣に立つアルファとして、未完全のままになってしまう。それは、違うアルファに劣っている、今のままの僕を認めざるを得ないことになる。

「何やってるの?」

 その時だった。ふわ、と華やかで甘い、依織先輩の香りが鼻腔をくすぐると、依織先輩が僕の手元を覗き込んでいた。

「ああ…、これは学級の報告書です。僕、後期から学級委員長になったんです」

 いきなりのことだったけれど、ようやく依織先輩にこのことを言えた気恥ずかしさに心音が早くなる。言いたかったけれど、言えずにいたこと。依織先輩はなんと、思っているのだろうか。

「クラスメイトが推薦してくれて…、僕なんかがって思ったのですが…せっかく、声をかけてもらったなら、頑張ってみようかなって…」

 依織先輩は、静かに口角をあげたまま僕の話を聞いてくれていた。

(今だ…)

 ようやく巡ってきた機会に、僕は拳を握りこんで、話を続けた。乾いた喉元に唾を飲み落として、一呼吸する。

「隣の席の子から、代交替で人員が足りないからと、風紀委員にも声がかかっていて…。臨時なので、落ち着くまでなのですが…」

 息もせずに一気に言葉をつくす。どうしても、首を縦に振ってほしかったから。
 早口で言い過ぎただろか。必死さが出過ぎて、かっこ悪かっただろうか。
 色々な感情が頭の中をよぎる。ちら、と視線をあげると、依織先輩は先ほどの顔のまま、固まって机の上のノートを見つめていた。

「依織先輩…?」

 返事がなくて、机上に置かれたままの小さな手に自分のそれを重ねる。ひんやりとした肌に胸の中がぎゅっと縮む。

「…どうしました?」

(やっぱり、嫌、だったかな…)

 かっこ悪かったのだろうか。必死な僕がおかしかっただろうか。
 冷たい汗が背中を静かに伝い落ちる。それでも、この機会を逃したくないという思いも強い。
 依織先輩の隣に立っていられるアルファになるために、譲りたくない気持ちがある。指先がかすかに震えている気がして、依織先輩に見つからないように、握り手の力を少し強めた。
 すると、目の前が影り、驚いていると、唇がふんわりと優しく触れた。ぱち、とまばたきを一度すると、ゆっくりと遠ざかる至近距離の美しい顔があって、顔に熱が集まり、唇がじんわりと痺れる。

(ど、どういう…)

 流れなくいきなり訪れた愛しい人からの口づけに高揚する気持ちと、今の話の行方が気になる気持ちがぐちゃまぜになって叫んで走り出しくなってしまう。
 何度かまばたきをしていると、次の瞬間には、依織先輩が優しく穏やかに微笑んだ。

「人のために頑張ろうって、透らしくていいと思う」

 一気に細胞が目覚めて、どくん、と心臓が大きく跳ねると血が全身に巡る。強く心臓が蠢き、指先までびりびりと力がみなぎっていくようだった。
 目の前の美しい微笑みがいつにも増して、きらびやかに見える。歓喜に包まれた全身は思わず、依織先輩に抱き着いていた。

「嬉しいです…、依織先輩にそう言ってもらえて…」

 腕の中の華奢で小さな身体は今にも手折れてしまいそうだ。けれど、それを大切にしたくて、愛おしくて、もっと一つになりたくて、抱き寄せる。細い指が背中に回って、控え目に抱きしめ返してくれる。ど、と心臓が飛び出そうに大きく跳ねて、嬉しくて、涙が出てしまいそうだった。

「僕、頑張ります」

(依織先輩のアルファとして、ふさわしくなれるように…)

 依織先輩と、ずっと一緒にいられるように。





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