黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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side:T 第52.5話

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「透くんだよねっ?」

 いきなり後ろから腕を掴まれて振り向くと小さな少年が立っていた。見覚えのない顔に強張ってしまいそうになるのを必死で押さえて首をかしげた。

「そう、ですけど…」
「僕、一年生のときに同じクラスだったんだけど…覚えてる、かな?」

 香水のような纏わりつく香りのする少年は大きな瞳が零れ落ちそうだった。潤んだ黒目は僕を必死に見上げて訴えている。染まった頬と鳥のように高い声。後方では、同じような小さな人が二人、目の前の彼の行く末を見守っているらしい。さらに周囲には、僕たちに視線を送る人たちもいる。

(困ったな…)

 人目の多い廊下で声をかけられてしまうと、注目の的になってしまう。できれば、避けたい。

「去年から、いいなって思ってたんだ…」

 最近、こういう人が増えた。
 僕は一切覚えがないクラスメイトが増えた。もとからいた人だったのかもしれないけれど、僕の認識の中に名前のあるクラスメイトはいない。依織先輩がはじめて、名前を覚えた学園生徒だった。

「これ、僕の連絡先…、よかったら、友達になりませんか?」
「え…、あ…」

 それだけ言って、それじゃあ待ってます、と頭をさげて走り去っていってしまった。友達二人と落ち合った彼は、きゃあ、と黄色い悲鳴をあげて三人で走って消えていった。手元に無理矢理渡された紙きれを見下ろす。開くと、中にはメッセージアプリのIDと電話番号、それから、小さく丸い字で、いつでも呼んでください、と意味深な一言が書かれていた。おまけに、ハートまで書いてある。
 最近、どっと増えたアピールをどうしていいのか、まったくわからない。ふう、と小さく溜め息をついて、頭を掻く。どうしたらいいものか。

「楠、邪魔だよ」
「わっ、ご、ごめんっ」

 急に後ろから声がして、掲示板に飛びつくように端へと寄る。そこには、背筋がすっと伸びた美しい少年がカバンの紐を背負い直していた。

「よ、芳野くん…、おはよう」
「おはよう」

 無表情の彼は、同じ学級委員長の芳野だった。
 前期も学級委員長を務めていた芳野は非常に頼もしい。表情こそ豊かでないけれど、常に冷静沈着で誰に対しても平等だった。成績も優秀で、いつも上位にいる。見た目も美しく、表情がないからこそ冷たく見えるが、釣り目の中の瞳が大きくて愛らしく見える。肌は陶器のように白く、黒髪が映える。手足も細く、立ち姿はまさに百合のようだった。

(きっと、アルファなんだろうな…)

 人のことをバース性で見るのは、失礼だと頭を振る。芳野が学級委員長を任命されているのは、彼の持つ優秀な頭脳と誰に対しても媚びないまっすぐさが信頼されているからだ。僕が依織先輩の次に名前を覚えたこの学園の生徒だった。

「今日は、君の番だろう?」

 カバンから一冊のノートを出した芳野は僕にそれを差し出す。

「あ、ありがとう」

 素直に受け取ると、それは学級日誌だ。おそらく朝、職員室から受け取ってきたのだろう。日替わりの当番制のこれを職員室に取りに行くのは僕の仕事だ。

「ごめんね、僕の番なのに」
「いや? 先生に用事があったから、ただのついでだ。気にする必要はない」

 じゃ、と言って先に教室へと向かってしまう。厚かましくなく、無駄のない心遣いができるところが、芳野の魅力だとつくづく感心する。僕も、こういうことが出来るようになりたい、と素直に微笑んでしまう。
 ぱらり、とページをめくると、彼らしい流れるようで、折れはらいのはっきりとした美しい字が並ぶ。
 この学園には、完璧な人が多くいる。その中の一人が、芳野だとつくづく感じる。
 そう思える生徒と同じ役職にいるのだと思うと、背筋が伸びる気持ちになる。それでいて、自分もそのステージに乗ったのだと思うと、深呼吸をして口角を上げた。



「楠」

 休み時間のチャイムが鳴ると、真っ先に声をかけてきたのは、朝と全く同じ表情の芳野だった。

「資材室の整理を頼まれた。お願いできるだろうか」

 やや眦が不安げに揺れた気がする。一人で何でもできてしまう芳野が頼ってきてくれたことが嬉しくて、にこりと笑って、うなずいた。

「僕、力仕事は得意だから任せて」

 ほんのりと頬が緩んだように見えたが、すぐに振り返ってずんずん歩き始めてしまったから、わからなかった。ついた先は、社会科の資材室で開けると埃がちらちらと光ってみえる。かなり使われていないように見えた。天井まである書棚にはびっしりと本やファイルがしまわれていて、使われた痕跡はない。

「整理…というか、使った感じはないから、掃除をすればいいのかな?」
「そうだな…」

 先に一歩踏み出した芳野は、書棚の間に手を差し込んで、窓の鍵を開けた。窓をがらり、と開けた時に、窓前に高く積まれた本がぐらりと傾いた。危ない、と声にするよりも先に身体が動いていた。芳野めがけて振り落ちた複数冊の本を、背中で受け止める。窓に手をつき、芳野に覆いかぶさる形をとったためだ。

「大丈夫?」

 落ちてくる本を想定して目を固くつむっていた芳野が、顔を上げた。すぐそこに長い睫毛で縁どられた目をめいっぱい大きく開いて、僕を見上げる芳野がいた。ふわ、と柑橘と花の香りの混ざった甘く華やかなものがくすぐる。僕と目があった芳野は、わ、と頬を赤らめて、急いで視線をそらした。

「だ、大丈夫…」
「本当に?」
「ほ、んとに…」

 僕の下で身体を小さくして、顔を隠すように俯いている芳野が心配で確認するが、かすれた声で返答される。心配は拭えないが、もし何かあったとしても、本人が望んでいないかもしれない。だから、僕も、よかった、と微笑んで、身体を起した。落ちてきた本を拾うと、思っていたよりも分厚い図鑑のようなものが七冊あった。あまり痛みは感じない。僕は昔から、痛みに鈍感なのか、身体が丈夫なのか、あまりケガをした記憶がない。今回も、背中がむずむずする
くらいで、痛くはない。
 図鑑を書棚の足元に置いてから、肩を軽く回すとぱきぱきと音がする。

「楠こそ…その…」

 声がして振り向くと芳野は視線を僕に寄越したり、足元にいったりさせながら、珍しく歯切れ悪い言葉尻だった。

「僕? 全然大丈夫だよ」

 気にしないで、と笑いかける。芳野は僕の様子を見て、強張っていた肩の力がようやく抜けたようだった。それから、く、と息を飲んで、僕に詰め寄るように間近にやってきた芳野は顔を紅潮させていた。

「楠、風紀委員にならないか?」

 突拍子もない言葉に、まばたきを繰り返すが、丸い瞳をきらきらと輝かせながら芳野は僕に抱き着くような距離で小さい口をやや上向きにさせて迫ってきた。



 話を聞くだけ聞いた。
 芳野は風紀委員を務めていた。学園に入学して間もない頃に事件に巻き込まれかけたところを風紀委員に救われてから所属し、活動を行っているらしい。風紀委員はもとから人材不足であり、優秀な人材がいればスカウトしてくるのが習わしだそうだ。

「自分の身を呈して、人を守ろうとする楠の心は、まさに風紀の鑑だ」

 珍しく表情を明るくさせて興奮気味に話す芳野は、可愛らしかった。それに、尊敬する芳野に認められることは純粋に嬉しい。

「そんな大げさなものじゃ…」

 大層なように言われるが、別にそんなことはない。当たり前のことをしただけだった。
 その解答にも芳野は手を握りしめて、そういうところだ、と前のめりに僕を説得しようとする。

「楠の誠実で謙虚な姿勢は、風紀が求める人材そのものだ」

 たくさん褒められて、つい顔が緩んでしまう。それでも、僕は意を決して、伝えるしかなかった。

「でも…、僕、放課後は忙しくて…」
「臨時でいい」

 毎日でなくていい。楠が都合よく来られる日だけでもいい。ぜひ、風紀委員に参加してみないか。

「これから生徒会も代が替わる。代が替わる際には、必ず荒れる。それが落ち着くまででもいいから」

 必要最低限しか話さない合理的で無駄のない芳野が次から次へと言葉をつなげる。それだけ、懇願してくれているのか、と思うと、ふわ、と心内から何かが湧き上がっていくようだった。

「どうだろうか…、楠となら、僕も心強いのだが…」

 眉を下げて、上目で見つめてくる瞳は潤みを増している気がする。それだけ求められることは、滅多にない。
 頭を掻いて、しばらく考えたあと、僕はうなずいた。

「期間限定ですが…、よろしくお願いします」

 そう伝えると、芳野の顔がみるみる明るく華やいでいく。とろりと眦を垂らして微笑んだ。初めて見る笑顔に瞠目していると、気づいた芳野はすぐに唇を引き結んで、いつもの顔に戻った。

「詳細は、ここを片付けながら伝える」

 さっさと片付けにかかれ、と言わんばかりに冷たく振り返って、足元の本を軽々と拾い始めた。

(人助けがでるなら…)

 心の中で唱えるが、もう一つ大きな理由が僕の中にはあった。
 生徒会と並ぶ、学園内での大きな組織が風紀委員である。生徒会は無理でも、風紀委員として自分が活動すれば、あのアルファに一歩近づけると思ったのだ。依織先輩の隣にふさわしいアルファに。




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