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第93話.食物ノ恨ミ
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夕刻。
奥歯の奥の方で、かりと小気味好い音がした。金平糖(コンペイトウ)をかじった音だ。
じわりと甘さを感じる。「美味いな」なんて口に出したら惚気(のろけ)と思われるだろうか。
戦場。そう戦場だ最前線だ、と一口で言っても色々ある。ここもそうだ、毒ガスに包まれた前線塹壕地帯を睨む施設。
まさに最前線ではある、だが只今ここでは銃声も罵声もない。本当に銃弾飛び交う戦場などと言うのはほんの一部、さらにひとときの事であり我々兵隊の大部分の時間は移動と、そして待機だ。
楽なものか、といえばそれはそうでもない。いつ敵が来るともしらぬ緊張感を維持したまま、ただ待機するというのは想像以上に疲労する。精神をやられる者が出てくるのも良くある事である。
そんな中での娯楽が食事だ。飯が食えるから兵隊になったやつなど石を投げれば当たるほどいる。とにかく、口に入れるモノというのはこんな場所では唯一の救いなのだ。
そんなわけで頰をゆるめながら、明子の気持ちを味わっていた。その時。木製の薄い扉がノックされた。誰かと誰何すると、名前の聞いたことのある兵卒であった。
先日、扉を叩かずに入室した小隊長を縛り倒してから何か噂が流布されたのか、兵らはやけに丁重に確認してくるようになっていた。
「失礼します。穂高中尉殿、実は協力員(ウナ)の事で……」
「またあいつが何かやったのか?」
「はぁ。少し揉めておりまして、仲裁をお願いしたいのですが」
「わかった、案内してくれ」
そうして案内された先は、普段食堂として使っている部屋であった。部屋に入る前から声が聞こえている。
「てめえ!コラ!盗(と)りやがっただろう!」
「しらねえよ!俺じゃねえ!」
掴みかからん剣幕で、ウナと一人の兵卒が言い争いをしていた。何をしているんだお前たちは。まぁ待て、と両者を引き剥がして話を聞く事にした。
言い争いをしていた一等卒、守門(すもん)と言うそうだ。その守門一等卒の飴玉をウナが盗んで食ったというのが彼の主張であった。机の上に巾着袋を置いてあったのが、いつのまにか消えていたというのだ。しかし一方のウナは全く知らぬ、飴玉があった事も見ていないというのである。
「食堂(ここ)には今、俺のほかにはコイツしか居なかったんだ!それでちょっと目を離した隙に無くなったっていうのは、そういう事でしょうよ」
「かってに決めるんじゃねえよ。自分で食ったんじゃないのか」
「この野郎、俺にボケてるって言いたいのか!」
守門が手のひらを机に打ち付けて、大きな音を出して威嚇する。乾いた木の音が響いた。
「我慢ならねえ、憲兵隊でも何でも呼んで下さいよ!」
「まぁ落ち着け、守門一等卒」
声を荒げる彼を手で制する。
軍隊というのは、あらゆる機能を内包している。それはそうだ、戦場で我が国のインフラが使えるとは限らないのだ。
普段意識せず我々が使っているモノを全て、独立して持っている。水食料は言うに及ばず、道路、鉄道、通信、医療全てだ。警察権もその一つである。
軍内に置いて犯罪を犯した者は、その組織内で捜査、逮捕される。いわゆる警務隊。明而陸軍でいうならば憲兵隊によって。
しかし今回のような小さなイザコザ程度では、当然憲兵など呼びはしない。小隊内で適当に落とし所を見つけるのだ。谷川少尉(しょうたいちょう)がこちらを見た。私はそれに黙って頷いた。
「守門一等卒、貴様の巾着袋の特徴を言え。今から皆の持ち物検査をする、それで良いだろう。ウナと穂高中尉殿にもご協力頂きたいがいかがでしょうか」
谷川の決断はそういう事であった。構わんよ、と返答する。ウナも力強く頷いた。この様子なら、本当に盗み食いはしていないようだが。
小隊長が音頭を取り、一斉に捜索が始まった。証拠隠滅の恐れがないように、その場で全員の所持品が検査された。
しかし、ウナはその巾着を所持していなかった。その上、その場にいる全員からも探し物は出てこなかった。
こうなれば意地である。小隊内の全員の部屋まで捜索の手を広げて、一斉に荷物検査が始まった。しかし、それでも例の巾着袋は出てこなかったのだ。
まぁ似たような巾着は一つ見つかったのだが陰毛が入っているだけだった。持ち主はなんとも言えぬ顔をしていたが仕方無い。
「おいおい、本当に持っていたのか?」
「疑っているのか!少しばかり目を離した隙に無くなったんだ!」
「しかしな。これだけ俺らまで巻き込んで探しておいて、ありませんでしたってなぁ?」
兵らに守門一等卒が槍玉に上げられている。やいのやいのと暇な連中だ。彼は見えないなにかを振りほどくような手振りをしたあと、ウナに向かって言った。
「確かに、ここに置いてあった!間違いない。あの時にここにいたのはこの野郎しかいねえ。やっぱりお前だろう!」
「だから違うって、食ってねえって!身ぐるみも見せただろ!」
「いいや、熊の脳みそまで食う野郎だ。信用できない、絶対に……」
「おい」
言い終わる前に、その肩を掴んで止めた。私に対して正面を向かせて言い聞かせる。
「食い物を否定するな」
「なにがですか!」
「いいか。口にするもの、食事というのは文化だ。それを否定してはいかん。そうすると争いが起こる。特に色んな人間が集められているこんな場所ではな。思った以上にそういう言葉は恨みを買うぞ、気をつけろ」
「……はい」
納得したのかしていないのか、よく分からない表情だが、ひとまず矛を収めたようだ。
その時、ギッと木戸が開く音がした。今ここへ入ってくるようなものは居ないはず。
どきりと心臓が一つ鳴って、皆がその扉をにらんだ。
あっという声も出さずに驚いた。現れたのは探していた巾着だ。それが半開きの扉の向こう側から姿を見せた。
「誰か!?」
谷川少尉(しょうたいちょう)が大きな声で誰何する。巾着は地面に落ちて、なにかが逃げる気配がした。我々は弾き出されたように一斉に動き出して、追いかけた。
異様に小さな泥の足跡。それを認めた我々は外に飛び出した。
それを辿った先には、一匹の狐がいた。
ポツンと真っ白な雪の上に立って、こちらを見て、踵を返してぱっと藪の中へ消えた。
「あいつが奪(と)ったんだ!」
「狐だな」
何のことはない、狐に巾着を取られた守門が一人で騒いでいたという事だ。視線が彼に集まった。あまり嬉しくない感じの視線だ。
「……あー、お騒がせしました」
本当だよ馬鹿野郎、なんて同僚が口々に笑いながら彼をつついた。彼は私と谷川少尉に深々と頭を下げて謝罪した後、ウナに向き直って言った。
「その、すまなかった。本当に」
「いいよ」
「もう。それよりあの狐を追いかけよう。あいつは俺たちの誇りを傷つけた悪い狐だ」
「いや、良いんだ」
守門一等卒は続けて言った。
「俺の地元じゃあれは神様なんだ。神様が持って行ったという事は、それが必要だったのだろうから」
「ふぅん」
ウナは狐が消えた後をジッと見ていたが、その言葉を聞くと興味を失ったように目線を外した。
全く、お騒がせ男の小さな騒動だった。
奥歯の奥の方で、かりと小気味好い音がした。金平糖(コンペイトウ)をかじった音だ。
じわりと甘さを感じる。「美味いな」なんて口に出したら惚気(のろけ)と思われるだろうか。
戦場。そう戦場だ最前線だ、と一口で言っても色々ある。ここもそうだ、毒ガスに包まれた前線塹壕地帯を睨む施設。
まさに最前線ではある、だが只今ここでは銃声も罵声もない。本当に銃弾飛び交う戦場などと言うのはほんの一部、さらにひとときの事であり我々兵隊の大部分の時間は移動と、そして待機だ。
楽なものか、といえばそれはそうでもない。いつ敵が来るともしらぬ緊張感を維持したまま、ただ待機するというのは想像以上に疲労する。精神をやられる者が出てくるのも良くある事である。
そんな中での娯楽が食事だ。飯が食えるから兵隊になったやつなど石を投げれば当たるほどいる。とにかく、口に入れるモノというのはこんな場所では唯一の救いなのだ。
そんなわけで頰をゆるめながら、明子の気持ちを味わっていた。その時。木製の薄い扉がノックされた。誰かと誰何すると、名前の聞いたことのある兵卒であった。
先日、扉を叩かずに入室した小隊長を縛り倒してから何か噂が流布されたのか、兵らはやけに丁重に確認してくるようになっていた。
「失礼します。穂高中尉殿、実は協力員(ウナ)の事で……」
「またあいつが何かやったのか?」
「はぁ。少し揉めておりまして、仲裁をお願いしたいのですが」
「わかった、案内してくれ」
そうして案内された先は、普段食堂として使っている部屋であった。部屋に入る前から声が聞こえている。
「てめえ!コラ!盗(と)りやがっただろう!」
「しらねえよ!俺じゃねえ!」
掴みかからん剣幕で、ウナと一人の兵卒が言い争いをしていた。何をしているんだお前たちは。まぁ待て、と両者を引き剥がして話を聞く事にした。
言い争いをしていた一等卒、守門(すもん)と言うそうだ。その守門一等卒の飴玉をウナが盗んで食ったというのが彼の主張であった。机の上に巾着袋を置いてあったのが、いつのまにか消えていたというのだ。しかし一方のウナは全く知らぬ、飴玉があった事も見ていないというのである。
「食堂(ここ)には今、俺のほかにはコイツしか居なかったんだ!それでちょっと目を離した隙に無くなったっていうのは、そういう事でしょうよ」
「かってに決めるんじゃねえよ。自分で食ったんじゃないのか」
「この野郎、俺にボケてるって言いたいのか!」
守門が手のひらを机に打ち付けて、大きな音を出して威嚇する。乾いた木の音が響いた。
「我慢ならねえ、憲兵隊でも何でも呼んで下さいよ!」
「まぁ落ち着け、守門一等卒」
声を荒げる彼を手で制する。
軍隊というのは、あらゆる機能を内包している。それはそうだ、戦場で我が国のインフラが使えるとは限らないのだ。
普段意識せず我々が使っているモノを全て、独立して持っている。水食料は言うに及ばず、道路、鉄道、通信、医療全てだ。警察権もその一つである。
軍内に置いて犯罪を犯した者は、その組織内で捜査、逮捕される。いわゆる警務隊。明而陸軍でいうならば憲兵隊によって。
しかし今回のような小さなイザコザ程度では、当然憲兵など呼びはしない。小隊内で適当に落とし所を見つけるのだ。谷川少尉(しょうたいちょう)がこちらを見た。私はそれに黙って頷いた。
「守門一等卒、貴様の巾着袋の特徴を言え。今から皆の持ち物検査をする、それで良いだろう。ウナと穂高中尉殿にもご協力頂きたいがいかがでしょうか」
谷川の決断はそういう事であった。構わんよ、と返答する。ウナも力強く頷いた。この様子なら、本当に盗み食いはしていないようだが。
小隊長が音頭を取り、一斉に捜索が始まった。証拠隠滅の恐れがないように、その場で全員の所持品が検査された。
しかし、ウナはその巾着を所持していなかった。その上、その場にいる全員からも探し物は出てこなかった。
こうなれば意地である。小隊内の全員の部屋まで捜索の手を広げて、一斉に荷物検査が始まった。しかし、それでも例の巾着袋は出てこなかったのだ。
まぁ似たような巾着は一つ見つかったのだが陰毛が入っているだけだった。持ち主はなんとも言えぬ顔をしていたが仕方無い。
「おいおい、本当に持っていたのか?」
「疑っているのか!少しばかり目を離した隙に無くなったんだ!」
「しかしな。これだけ俺らまで巻き込んで探しておいて、ありませんでしたってなぁ?」
兵らに守門一等卒が槍玉に上げられている。やいのやいのと暇な連中だ。彼は見えないなにかを振りほどくような手振りをしたあと、ウナに向かって言った。
「確かに、ここに置いてあった!間違いない。あの時にここにいたのはこの野郎しかいねえ。やっぱりお前だろう!」
「だから違うって、食ってねえって!身ぐるみも見せただろ!」
「いいや、熊の脳みそまで食う野郎だ。信用できない、絶対に……」
「おい」
言い終わる前に、その肩を掴んで止めた。私に対して正面を向かせて言い聞かせる。
「食い物を否定するな」
「なにがですか!」
「いいか。口にするもの、食事というのは文化だ。それを否定してはいかん。そうすると争いが起こる。特に色んな人間が集められているこんな場所ではな。思った以上にそういう言葉は恨みを買うぞ、気をつけろ」
「……はい」
納得したのかしていないのか、よく分からない表情だが、ひとまず矛を収めたようだ。
その時、ギッと木戸が開く音がした。今ここへ入ってくるようなものは居ないはず。
どきりと心臓が一つ鳴って、皆がその扉をにらんだ。
あっという声も出さずに驚いた。現れたのは探していた巾着だ。それが半開きの扉の向こう側から姿を見せた。
「誰か!?」
谷川少尉(しょうたいちょう)が大きな声で誰何する。巾着は地面に落ちて、なにかが逃げる気配がした。我々は弾き出されたように一斉に動き出して、追いかけた。
異様に小さな泥の足跡。それを認めた我々は外に飛び出した。
それを辿った先には、一匹の狐がいた。
ポツンと真っ白な雪の上に立って、こちらを見て、踵を返してぱっと藪の中へ消えた。
「あいつが奪(と)ったんだ!」
「狐だな」
何のことはない、狐に巾着を取られた守門が一人で騒いでいたという事だ。視線が彼に集まった。あまり嬉しくない感じの視線だ。
「……あー、お騒がせしました」
本当だよ馬鹿野郎、なんて同僚が口々に笑いながら彼をつついた。彼は私と谷川少尉に深々と頭を下げて謝罪した後、ウナに向き直って言った。
「その、すまなかった。本当に」
「いいよ」
「もう。それよりあの狐を追いかけよう。あいつは俺たちの誇りを傷つけた悪い狐だ」
「いや、良いんだ」
守門一等卒は続けて言った。
「俺の地元じゃあれは神様なんだ。神様が持って行ったという事は、それが必要だったのだろうから」
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