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第135話.幽鬼

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ついに本格的な攻撃がおこり、全ての前線陣地では明而陸軍の兵らが戦々恐々としていた。
いつ始まるとも、終わるともわからぬ敵の砲弾の音。それを聞くたびに皆一様に塹壕の奥に潜み、頭を抱えて祈った。
先だって行われた高地への攻撃は、日本側が防衛を完遂したという噂が流れている。しかし、それでもなお「見たことか!」などと威勢の良いことを言える胆力のあるものは居なかった。
次に攻めてくるのは、自分のいるこの場所かも知れない、その恐怖が末端の兵隊へ蔓延していたのだ。

そして六月一日。
ついに彼らが恐れていた事が起こった。

「おい、見ろ!敵が来たぞ!」

誰ともなく、日本側の塹壕から声が上がった。様子を伺うために遠眼鏡で見ていた者だろう。ぬるりと黒い影が這い寄る姿を捉えたのだ。

「配置に戻れ!射撃準備!」

身体の殆どを土の下に隠した立射の態勢で、表にはずらりと小銃の筒先が並んだ。

「はなてっ!」

号令と同時に、一斉に火と煙を吹き出した。
姿勢を低く這うような形で接近していたルシヤの兵隊達が、それを合図に立ち上がった。
地平を埋めるような大軍だ。
その大勢が、いくらかの塊に分かれて駆け出した!

ドン!と一つ火を吹けば、彼方で一つの影が揺れる。しかしルシヤ側からの発砲は無く、ただがむしゃらに走り寄るだけだ。

「なんだこいつらは!」
「方向が散っている、錯乱しているのか。どちらにせよ近寄らせるな!」

ルシヤの兵隊は駆け出してくるが、勢いは続かない。張り巡らされた鉄条網で阻まれた彼らを、機関銃部隊が薙ぎ払った。
「おお」と日本側から歓声が上がったが、一瞬の事だった。血の匂いだけを残して吹き飛んだところへ、次の兵隊が次々と取り付いてくる。
何度となく機関銃が吠えて、群がる人間が薙ぎ倒されても、物ともせず。ただひたすらに前進を続けてきたのだ。

幾度となく掃射を繰り返し、それでもなお敵の兵隊は限りなく群がってきた。ついには鉄条網に絡まった人間を、後ろから他の者が踏み台にして乗り越え始めた。
機関銃とて、無限に撃てる魔法の兵器ではない。弾薬には限りがあるし、連続して発射して焼けた銃身は交換しなければならない。
また、集中的に運用するような経験が圧倒的に不足しているために、鉄壁の中にも隙間があったのだ。
そのために大量の死者を出しながらも、火線をくぐって接近できた者が出始めた。

そして、いよいよ互いの顔がはっきり見える距離にまで接近を許した。その時には多くの日本兵が目を疑った。
幽鬼のような青い顔で、肋骨がはっきり見えるようなルシヤの男たちが小銃も持たずに群がってきていたのだ。
それは満足に飯も食えていないのだろう痩せこけた顔で、それでいて目だけを血走らせた兵隊が、死を恐れずに真っ直ぐに突っ込んでくる姿だった。

「突っ込んで来るぞーっ!」
「着剣!白兵準備!」

銃弾の雨をかいくぐり、満身創痍のルシヤ兵が日本側に接触した。そこかしこで雄叫びと金属のぶつかる音が鳴り響く。

「「うおおおおおっ!!」」

塹壕に飛び込もうと身を乗り出したルシヤ兵が、壕内から刺突された。胸を貫かれた男はそのまま排水用の溝に転げ落ちる。一難去ったかと思われたその瞬間、死体が爆ぜた。
文字通り爆発したのだ。
近くにいた日本兵に、炸裂した破片が突き刺さる。

同時期にほうぼうで破裂音が起こった。
この時のルシヤの兵隊の装備はたった二つ。銃剣と小型の手投げ爆弾。はじめからそのつもりだったのだ、捨て駒どころではない。
人の肉を盾ににじり寄って、塹壕内に手投げ弾を投げ込むか、壕内に飛び込んで白兵ののちに自爆する。
命そのものを武器とした突撃だったのだ。


……


「効果は出ているようだな」
「……は、はい。それは」

戦況の報告を聞きながら、ソコロフ将軍は唇を歪ませた。青い顔をした部下らを尻目に、一人満足な様子で佇んでいる。
日本軍の執拗な兵站攻撃により、満足な補給を受けられなくなったルシヤ軍は、工夫を強いられた。そこでソコロフ将軍は一つのアイデアを実行したのだった。

「しかし、このような攻撃はいつまでも続けられません」
「いつまでも続ける必要は無い、今勝てればそれで良い」

今突撃させている兵の大部分が、輸卒である。つまりは補給を担い、えっちらおっちら物資を運んで来た男たちだ。
彼らは兵隊としてやっているわけでなく、人夫として金で雇われた男達も沢山いた。それをそのまま前線に送り込んだ。
後方から荷を運んでくれば、当然元の場所へ帰る事になるのだが、人夫も人間だから飯を食う。
そこで、片道切符のアイデアを思いついた。人夫に荷を運ばせて、そのまま前線で兵として使い潰す。そうすると帰りの分の食料が浮くから片道の食料だけで済む。
補給が幾分改善されて、さらに戦力が増えると言うのだから、一石二鳥の名案だ。

「俺の判断は当たったようだな」
「……は、そのようです」
「薬は上手く使えば、兵らは飯の配給が少なくとも耐えうるし、疲労を防ぎ、戦闘力を向上させる事ができる」

突撃させる兵には、飯の代わりに薬物が与えられた。死にいくのに腹のなかに飯が入っている必要は無いと言うことだ。
薬物というのは現在でいうところの覚醒剤のようなモノだが、それもどの程度まともなモノかはわからない。そういうのを錠剤で飲ませたり、注射で回し打ったりして身体に入れさせるのだ。
そして将軍は補給物資の中でも重くかさばる食料品の量を絞り、戦闘に必須な武器弾薬と、軽くスペースを取らない薬剤の配給を増やす決断をしていた。

「俺のやることは人道にもとるか?」

将軍の問いかけに、誰も答えられない。しばらく経って、古株の男が口を開いた。

「戦争です。大英雄となるか、大悪人となるか。どちらかに一つでしょう」
「ははははっ!どちらにせよ死んで名を残す事になるな。結構な事だ!彼奴等は作戦通りだと慢心しているはずだ、そうはいかん!横たわった柔らかなはらわたを食い破ってくれる!」

口の端に泡を溜めながら、将軍は大きな声でそう叫んだ。彼はもう行くところまで行くしかないのだ、こうなってしまっては。大きな渦となった流れは誰にも止めることはできない。
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