柳井堂言霊綴り

安芸咲良

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一 三人吉三巴芝居

七幕目

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 暮らしに慣れてはきたものの、物事うまくは進まない。

 梅乃が柳井やない堂で働き始めてからひと月は経とうというのに、歌舞伎作者の訪れがないのだ。

「梅乃さんが来る少し前に、紙を大量に買っていかれた先生がいましたからねぇ。他の方々も余所に行っているのかもしれません」

と、総兵衛ものんびり顔だ。商売人としてそれでいいのかと、梅乃の胸に不安が過ぎる。

 総兵衛がぽんと手を鳴らした。

「そうだ。待っているだけでなく、こちらから尋ねるのはどうでしょう」
「尋ねる、ですか?」
「えぇ。梅乃さんはまだ江戸の歌舞伎を見たことがないでしょう? どうです、この機会にご覧になっては?」

 確かにそれはいい考えだ。ずっとここで待っているよりも、見つかる確率も格段に上がるだろう。

「ということで、徳蔵君と行ってきてください」
「え?」

 梅乃が間抜けな声を上げる。店の片隅で筆を並べていた徳蔵は、何事かと顔を上げた。

「私一人でいいですよ! あ、店を空けてもいいなら、ですけど……」
「大丈夫ですよ。じゃあ徳蔵君、よろしくお願いしますね」

 ようやく何事か悟ったらしい。徳蔵が苦々しい顔を向けていた。

「なんで俺が……」
「河竹様に紙を届けてほしいんですよ。そろそろなくなる頃だってお弟子さんが言ってましたし」

 それでも徳蔵の眉間には皺が寄ったままだ。断りたいという気持ちがありありと浮かんでいる。
 梅乃にしても、先日の一件がある。徳蔵と二人きりで出かけるのはまだ気まずい。総兵衛は気を遣ったつもりだろうが、気の遣い方が空回りしていることは気付いているのだろうか。

 そこに弥吉やきちが顔を覗かせた。話は聞こえていたようだ。

「じゃあ僕が行こうか? というか行かせてー」
「弥吉君は駄目。今日は安東様がいらっしゃるでしょう?」

 お得意様の名前を出されて、ちぇっと弥吉は引き下がる。
 総兵衛の顔が梅乃と徳蔵を向いた。

「という訳でお二人、よろしく頼みましたよ」



 江戸町奉行所に認可されている芝居小屋は三つある。
 櫓を立てることを許されたこの三つの芝居小屋は、奉行所公認とだけあって大きいのだが、他に芝居小屋がなかった訳ではない。

「河原崎座も三座に次ぐ芝居小屋だ。河竹の旦那はそこで上演される芝居の台本を書いている。どういう繋がりかは知らんが、柳井さんと親しくてうちの店を贔屓にしてくれてるそうだ」

 道中、徳蔵がそう説明してくれた。

 あの一件以来、徳蔵とはあまり話していない。元々寡黙な徳蔵ではあるが、何となく気まずくて梅乃は彼を避けていた。
 しかし徳蔵はいつも通りに話している。ぶっきらぼうが常だから、心の中ではどう思っているかは分からない。だが梅乃はそのいつも通りがありがたかった。

 一言謝ってしまえばいいのかもしれない。勝手な行動をして悪かった、今後は気を付ける、と。
 だがそれは徳蔵の過去を聞いてしまった今では、難しく思えた。

 梅乃も言霊を見ることで嫌な思いをしたことはあるが、徳蔵の比ではない。家族が危険に曝されることなどなかった。ましてや隔離されて暮らしてきた訳でもない。
 何を言っても上っ面をなぞるだけのような気がした。

 通りは芝居小屋へと向かう人たちで賑わっている。
 芝居を待つ人々の楽しそうな声、茶屋や浮世絵屋の呼び込みの声、明るい空気が満ち溢れていた。ひらひらと舞い落ちる桜の花びらが、人々の心を余計に華やかにさせているようだった。

「すごい人だかりですねぇ。どこからこんなに集まってくるのやら……」

 江戸の人の多さに驚いていた梅乃だが、ここまで多いとは思っていなかった。梅乃の田舎とは雲泥の差だ。

「おい、はぐれるぞ」

 梅乃がきょろきょろしていると、ふいに腕を引かれた。先程までより歩きやすくなって、徳蔵が人の少ない方に導いてくれたのだと気付く。
 落ち着いて歩けるようになると、徳蔵は手を離してしまった。それが惜しく思って、はたと梅乃は考える。なぜそんなこと思うのだろうか。

「この前は……悪かった」

 手が離れた瞬間、ぽつりと小さな声が聞こえた。ざわめきの中で消え入りそうな声だったけれど、梅乃の耳に確かに届いた。
 徳蔵は梅乃を振り返らずに歩いている。梅乃は思わず立ち止まってしまったが、慌ててその背を追い掛けた。

「私も! すみませんでした!」

 ぴたりと徳蔵が足を止めた。背中にぶつかりそうになって、梅乃は慌てて立ち止まる。
 見上げると、肩越しに徳蔵が薄く微笑んでいるのが視界に映った。梅乃の息が止まる。
 すぐ前を向いてしまったので一瞬気のせいかと思ったが、気のせいではない。確かに微笑みが見えた。

 梅乃の心臓が早鐘を打つ。もう手は離れているのに、梅乃は触れられたところがまだ熱を持っているかのように感じていた。



 徳蔵に付いて辿り着いた河原崎座を見上げ、梅乃は感嘆の声を上げた。

「これで三座より小さいって、三座はどれだけなんですか……」

 ここまで来ると、芝居を待つ人々でごった返している。

「ここはいくつかの芝居小屋が集まってできたとこなんだ。まぁ三座も大きいがな」

 徳蔵は勝手知ったる様子で芝居小屋の裏手に回る。配達は初めてではないのだろう。
 勝手口から通された先に、件の人物はいた。
 鼠色の着流しに下駄を突っかけ、煙草を咥えている。明朗快活な老人だ。

「おう、柳井堂さんか」
「いつもご贔屓にありがとうございます、河竹様。ご注文の品を届けに参りました」

 すらすらと言って頭を下げる徳蔵を、梅乃は不思議なものでも見るかのような目で見ていた。こんなに流暢に話す徳蔵を初めて見た。

 ぽかんとしている梅乃に気づいたのだろう、河竹氏が梅乃に目を向けた。

「なんだぁ、新入りかい? こんなに喋る徳を初めて見たって顔だな。こいつはな、こう見えて芝居が好きなんだよ」
「先生の作品が好きなだけですよ」

 またぶすっとした表情に戻ってしまった徳蔵に、河竹氏は楽しそうだ。
 徳蔵にこんな一面があるとは知らなかった。新たな面に出会えたことに、梅乃は自然と顔が緩んでしまう。
 すると河竹氏もかっかと笑った。

「えらいべっぴんな嬢ちゃんだな。悪い虫がつかねぇように、お前さんがちゃーんと見張っとかんといけねぇぞ?」

 そう言って徳蔵の肩をばんばん叩く。

「河竹様!」
「そ、そんな関係では……!」

 徳蔵と梅乃が素っ頓狂な声を上げる。二人の声が重なったことに、河竹氏はより一層楽しそうに笑っていた。

「さ、そろそろ開幕だ。席を用意してるから見ていきな」

 誤解が解けたかは定かではないが、二人はその言葉に甘えることにした。



 河竹氏の筆名を、河竹黙阿弥という。
 というのは芝居が始まってから梅乃が知った事実だった。

 舞台の上では三人の役者が立ち回りを繰り広げていた。
 今日の演目は三人吉三巴白浪。兄弟の契りを交わした三人の盗賊の物語だ。
 それぞれ違った性格の三人の吉三と、後に黙阿弥調とも呼ばれるようになる歌うような科白が魅力の、江戸で今一番人気の演目である。

 舞台は節分の江戸。客が忘れた百両を届けに出た夜鷹のおとせは、お嬢吉三と出会う。おとせを騙くらかしてその金を手にしたお嬢吉三だが、そこをお坊吉三に見られてしまう。
 百両を巡って斬り合う二人。そこに名のある盗賊、和尚吉三が現れる。その身を呈して争いを納めようとする和尚吉三の男気に惚れた二人は、兄弟の契りを交わすのだった。

「まさか河竹様が、歌舞伎の作者だとは思いませんでした」

 幕間、梅乃は弁当を突きながら隣の徳蔵に話し掛けた。初めての芝居小屋にあたふたしている間に、徳蔵がさっと弁当の支払いを済ませてしまった。頑として徳蔵が御代を受け取らなかったのでありがたく頂戴したが、これが実にうまい。顔を綻ばせる梅乃に、徳蔵もようやく箸を付けたのだった。

「河竹様は二代目なんだが知らん奴は知らんかもな。どの作品も面白いぞ」

 梅乃はちらりと隣を盗み見た。

 黙々と箸を進めている徳蔵は、いつもと同じに見えるが少し違う。どことなく雰囲気が楽しげだ。河竹氏が言っていたように、やはり芝居が好きなのだろう。
 芝居を初めて見た梅乃だったが、その理由が分かる気がする。話の内容は勿論のこと、役者や小道具に至るまで視線を捉えて離さないのだ。

「河竹様、すごいですねぇ。満席じゃないですか」
「まぁ三人吉三も初演ではそこまで評判にならなかったらしいがな」
「そうなんですか? それにしてもお嬢吉三、素敵ですねぇ。あの方も男性なんですよね?」

 和尚吉三、お坊吉三、お嬢吉三の三人の吉三が登場する三人吉三であるが、お嬢吉三だけが女装の男である。女装といえども艶やかな着物を着こなし、軽やかに立ち振る舞う姿に目を奪われる観客は少なくなかった。

 うっとりとその姿を思い出していた梅乃は、隣の空気が不穏になったことに気付かない。

「……ああいう男が好みなのか?」
「へ?」

 小さく呟かれた言葉を聞き返そうとしたが、次幕の始まる声に遮られてしまった。

 どういう意味で言ったのだろう?

 お嬢吉三が出てきた舞台に目を向けてはいるが、梅乃は隣が気になってなかなか集中できなかった。



 芝居は進み、三人の吉三が刺し違えようかという場面まで来た。
 緊迫した場面だ。最初は気のせいかと思っていた梅乃だが、段々確信に変わってきた。なんだか寒気がするのだ。
 風邪だろうかと思ったが、額は熱くない。気温が下がってきたのかと思ったが、周りの人々は平然としている。
 そのうちに座ってもいられなくなってきた。

「梅乃」

 その声が誰のものであるかを解するのに、少々時間が掛かった。初めて名前を呼ばれたのではないだろうか。

「具合が悪いのか。出よう」

 徳蔵が梅乃の顔を覗き込んでいた。

「徳蔵さん……でも……」
「いいから」

 そうして梅乃は徳蔵に支えられながら、芝居小屋を後にした。
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