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翌朝、公爵邸の庭園は薄い霧に包まれていた。昨夜の夜会の喧騒が嘘のように、鳥の鳴き声と風に揺れる葉擦れだけが静かに耳へ届く。
リリエルは東屋のベンチに腰掛け、両手を膝の上で重ねていた。銀の仮面はいつも通り顔を覆っている。外す理由はもうどこにもなかった。
「……失礼します」
ふいに背後から聞こえた声に、彼女は小さく肩を震わせた。振り向くと、そこに立っていたのは第二王子のフリンズ・アルセイフだった。
夜会と同じ、端正な顔立ち。
だが、今は王族としての華やかさよりも、穏やかな気配のほうが強かった。
「フリンズ殿下がお越しになるとは思っておりませんでした」
リリエルは立ち上がり、深く一礼する。
その所作は変わらず完璧で、昨日の出来事の劣情を微塵も感じさせない。
「突然で申し訳ないです」
フリンズは彼女に向き合い、視線を仮面へと向けた。そこには好奇も、探る色もない。ただ、相手を理解しようとする静かな眼差しだけがあった。
「昨夜の件について許してくれ、という話ではありません。ただ、一つ言いたいことがありまして」
「……恐れ入ります」
形式的な言葉を返しながら、リリエルは戸惑っていた。
彼はなぜ、ここへ来たのだろうか。
同情か、義務か、それとも——。
そう考えて止める。あまり人を無意識に信頼するのは良くないから。
「あのときのあなたの判断は何も間違っていなかった、と思います」
しかし、フリンズはそう言い切った。
「容姿を理由に切り捨てるなど、為政者の器ではないし、為政者以前に人としてどうかしている。だから、あなたが黙して場を去った判断はむしろ称賛されるべきものだと思うのです」
思わず、リリエルは息を呑む。
称賛。
その言葉を自分が向けられるとは思っていなかった。
「……私は何もしていません。ただ、争わなかっただけです」
「でも、逃げはしなかった。あなたはあの場で、品位を守った。自分の尊厳を最後まで捨てなかった。私にはそれが美しいと感じました」
仮面の奥でリリエルの瞳が揺れる。
胸の奥に熱でも冷えでもない、奇妙な感覚が広がっていった。
「私は……仮面を被ったままです。その答えはもう分かるでしょう」
問いは知らず知らずのうちに試すようなものになっていた。
フリンズは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せ、そして、再び彼女を見る。
「仮面の下がどうであるかは関係ないです。あなたは適当な判断ができて、忍耐がある。そして、民を思う心を持っている。その優しさを私は近くで見ていました。それは容姿なんかよりはるかに重要なものだと、心得ております」
——違う。
喉元まで出かかった否定の言葉をリリエルは飲み込んだ。
彼はまだ知らない。この仮面の下に何があるのかを。
感情が高ぶる。絆されまいと微かな眩暈が彼女を襲う。瞳の奥が熱を帯びる。
彼女は品位を欠かぬように徐に立ち上がった。
「……失礼します」
そして、咄嗟に俯いた瞬間。
「まだ、すぐに信じられなくても構いません」
フリンズの声がすぐそばで響いた。
驚いて顔を上げかけ、リリエルは慌てて動きを止める。だが、彼は一歩も引かなかった。
「ただ、覚えていてほしいのです。あなたは人として素晴らしい、と」
そう言い残すと、彼は一礼し、去っていく。
庭園に残されたリリエルはしばらく動けずにいた。しかし、胸の奥で、何かが確かに変わり始めていた。
仮面の下で、彼女はそっと息を吐く。
(……この方は)
まだ、答えは出せない。
だが、少なくとも——。
恐れず自分を見ようとする存在がいる。母のように。
その事実だけが今は救いだった。
リリエルは東屋のベンチに腰掛け、両手を膝の上で重ねていた。銀の仮面はいつも通り顔を覆っている。外す理由はもうどこにもなかった。
「……失礼します」
ふいに背後から聞こえた声に、彼女は小さく肩を震わせた。振り向くと、そこに立っていたのは第二王子のフリンズ・アルセイフだった。
夜会と同じ、端正な顔立ち。
だが、今は王族としての華やかさよりも、穏やかな気配のほうが強かった。
「フリンズ殿下がお越しになるとは思っておりませんでした」
リリエルは立ち上がり、深く一礼する。
その所作は変わらず完璧で、昨日の出来事の劣情を微塵も感じさせない。
「突然で申し訳ないです」
フリンズは彼女に向き合い、視線を仮面へと向けた。そこには好奇も、探る色もない。ただ、相手を理解しようとする静かな眼差しだけがあった。
「昨夜の件について許してくれ、という話ではありません。ただ、一つ言いたいことがありまして」
「……恐れ入ります」
形式的な言葉を返しながら、リリエルは戸惑っていた。
彼はなぜ、ここへ来たのだろうか。
同情か、義務か、それとも——。
そう考えて止める。あまり人を無意識に信頼するのは良くないから。
「あのときのあなたの判断は何も間違っていなかった、と思います」
しかし、フリンズはそう言い切った。
「容姿を理由に切り捨てるなど、為政者の器ではないし、為政者以前に人としてどうかしている。だから、あなたが黙して場を去った判断はむしろ称賛されるべきものだと思うのです」
思わず、リリエルは息を呑む。
称賛。
その言葉を自分が向けられるとは思っていなかった。
「……私は何もしていません。ただ、争わなかっただけです」
「でも、逃げはしなかった。あなたはあの場で、品位を守った。自分の尊厳を最後まで捨てなかった。私にはそれが美しいと感じました」
仮面の奥でリリエルの瞳が揺れる。
胸の奥に熱でも冷えでもない、奇妙な感覚が広がっていった。
「私は……仮面を被ったままです。その答えはもう分かるでしょう」
問いは知らず知らずのうちに試すようなものになっていた。
フリンズは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せ、そして、再び彼女を見る。
「仮面の下がどうであるかは関係ないです。あなたは適当な判断ができて、忍耐がある。そして、民を思う心を持っている。その優しさを私は近くで見ていました。それは容姿なんかよりはるかに重要なものだと、心得ております」
——違う。
喉元まで出かかった否定の言葉をリリエルは飲み込んだ。
彼はまだ知らない。この仮面の下に何があるのかを。
感情が高ぶる。絆されまいと微かな眩暈が彼女を襲う。瞳の奥が熱を帯びる。
彼女は品位を欠かぬように徐に立ち上がった。
「……失礼します」
そして、咄嗟に俯いた瞬間。
「まだ、すぐに信じられなくても構いません」
フリンズの声がすぐそばで響いた。
驚いて顔を上げかけ、リリエルは慌てて動きを止める。だが、彼は一歩も引かなかった。
「ただ、覚えていてほしいのです。あなたは人として素晴らしい、と」
そう言い残すと、彼は一礼し、去っていく。
庭園に残されたリリエルはしばらく動けずにいた。しかし、胸の奥で、何かが確かに変わり始めていた。
仮面の下で、彼女はそっと息を吐く。
(……この方は)
まだ、答えは出せない。
だが、少なくとも——。
恐れず自分を見ようとする存在がいる。母のように。
その事実だけが今は救いだった。
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