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第五章 浮遊霊たちの転機

60.教室

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 丸一日以上降り続いていた雨は今日の昼すぎにようやくやんだ。空には雲も少なく、所々陽も差しているのでこの後すぐ降ることは無さそうだ。

「えいにいちゃん、いまからくるみおねえちゃんのところいけそう?」

「多分大丈夫だと思うよ。危なそうなときはどこかで雨宿りするとして、まずは行ってみようか」

 僕と千代の横ではハクビシンがいつもより余計に体を寄せ合って寝ている。冬の長雨というほどではないが、昨日今日は相当冷え込んだに違いない。昔の流行歌のように雪へと変わらなくて良かった。

 床下から這い出た二人はこの間と同じ道で四つ葉女子へ向かって走り始めた。千代の走る速度に合わせ僕が並走する。小股でちょこちょこと走る千代の姿は、思わず笑みがこぼれてしまうほど愛らしい走り方だ。

 今になって考えてみると、もし千代がいなかったら僕は胡桃に話しかけることができただろうか。もし一人か大矢と二人なら難しかったかもしれないし、今日もこうやって会いに行くことすらできなかったかもしれない。まったく千代様々だ。

 四つ葉学園についた時、講堂の時計は十五時少し前を指していた。二度目なので迷いなく走ってきたが、それでもおよそ二時間程度はかかっているような気がする。

 二人で芝生に寝転んで授業が終わるのを待つ。まだ校庭には水たまりもあり芝生も濡れているが僕達にはなんの問題もない。何と言っても物に触れることができないのだから、濡れた地面で服が汚れてしまう心配すら不要なのだ。

 好きでもなかった学校の制服を永遠に着続けていくことは少し嫌な気もするけれど、着替えることもできないので仕方ない。それは千代の振袖も同じである。

 そういえば僕はなんで制服なのだろう。命を落とす直前に来ていたものというならわからなくもないが、大矢は病院に運ばれていたので普段着ではないだろうし、先生や重子さんが病院勤務時の姿だったことにも違和感がある。

 そして千代がなぜ振袖を着ているのか。僕は背筋に悪寒を感じ、このことについてこれ以上考えるのをやめた。

「ねえ千代ちゃん、教室見に行ってみようか」

「うん! いくー」

 僕は立ち上がり、それまで頭に浮かんでいたことを振り払うように走り出した。千代が後ろから走って追いかけてくる。それを見て千代の方へ駆け寄り今度は一緒に走った。

 校舎は平屋造りなので窓を順番に覗いて行けば胡桃を見つけられるだろう。ただし校庭側にあるのは教室ではなく廊下だった。二人で校舎の裏手に回り教室を順番に覗いていくと、端から二番目の教室に胡桃の姿があった。

 教室内には生徒が二十五人とずいぶん少ないが、おそらくは少人数制なのだろう。黒板には英文がいくつか書いてあるので英語の授業だろうか。英語が大の苦手な僕には、その文章が何を意味しているのか理解できなかった。

 教室の窓は僕の腰より高い位置なので千代は中を見ることができないが、教室の前後には足元までガラス張りの扉があるので、千代はそこから中を覗いている。

「えいにいちゃん、くるみおねえちゃんどこにいるの?」

「えっとね、手前から二列目の前から三番目だよ」

「あたまのさきっぽしかみえないよ、つまんないなぁ」

 そのとき胡桃の斜め前の生徒が教師の指示を受けて黒板の前へ出た。これなら千代のところからも良く見えるかもしれない。

「あ、くるみおねえちゃんみつけたー」

 千代が大きな声を出したので僕は一瞬ドキッとしたが、どうせ普通の人には聞こえないので気にする必要はなかった。だが胡桃にはその声が聞こえたのか、千代に目をやり小さく手を振り、僕へはウインクをよこしたような気がした。

 眼鏡越しだったからはっきりとはわからなかったが、僕を見たのは確かだ。そんなたわいもない仕草が僕には嬉しく、そしてなんだか照れくさい気持ちになった。

「ねえねええいにいちゃん、くるみおねえちゃんがてをふってくれたよ」

「うん、見えたよ、良かったね」

「もう、はやくおわればいいのになぁ」

 教室には先ほど前に出た生徒が読み上げる声が流れている。内容はわからないが流暢な英語だということはわかる。その生徒は日本人ではなく欧米系の顔立ちをしていた。良く見ると生徒の何人かは異国の顔立ちだった。

 同じ高校生同じ学年だというのに、江原高校の生徒とは質が大きく異なる。クラスメートは何人もが寝ていたりマンガを読んでいたりしてたし、女子の中には化粧をしながら時間をつぶしている生徒までいた。

 教師によっては監視の目が厳しいが、生徒の動向に興味の無い教師も大勢おり、その場合はやりたい放題だった。僕や大矢のようにおとなしい生徒には、他の生徒から輪ゴムが飛んで来ることもあった。

 まあそもそも勉強するために江原高校へ入る生徒は皆無なので、日々の惨状は予想通りとも言える。それに引き換え四つ葉の生徒はみな真面目に授業を受けており、これが同じだけ生きてきた人間とは思えないほどだ。

 ただ、いくら江原高校と言えど運動部で真面目にやっている生徒もいる。大会に向けて毎日厳しい練習に精を出し、今しかできない高校生の部活動に全力で取り組んでいることは、その生徒にとって勉強と同じくらい意味があるのだろう。

 生前無気力だった僕が言うのもなんだけど、充実した日々を送るために何かに取り組むということはとても大切な事なのではないだろうか。

 僕はそんなことを考えながらチャイムが鳴るのを待っていた。

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