ランドセル

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 公園の砂場でお友達と夢中で何かを作っている娘の後ろ姿に、私は何度も目をやっていました。行き場のない目線を落ち着かせるかのように。屋外にいるというのに、先程から会話が途切れる度に、まるで出口のない空間に押し込められたかのような息苦しさを感じています。
「そうだ、ランドセルって、もう注文した?」
 千絵ちゃんママが首をくるりとこちらに向け、思いついたようにきいてきました。幼稚園の年長の娘を持つ私達にとって、それは今まさにうってつけの共通話題です。
 沈黙が解消されたことが嬉しかったのか、それともこの話題について話したくてうずうずしていたからなのか、おそらくその両方なのだろうと思うのですが、春菜ちゃんママの元々華やかな顔が、さらにぱあっと華やぎました。
「ううん。まだ注文してないのー。色々なお店を見に行ってはいるんだけど。今週末も展示会に行く予定なんだ」
 千絵ちゃんママは春菜ちゃんママの調子に合わせて相槌をうちます。
「そうなんだー。うちはじじばばが買ってくれるっていうから任せててさ。こないだカタログを見せてもらったんだけど、色々ありすぎて結局決められなかった」
 困ったような顔をしながら言う千絵ちゃんママも、春菜ちゃんママも、全然困っているようには見えません。むしろ楽しくて仕方がないといった感じです。
 私は正直驚いていました。今はまだ梅雨も明けない六月です。来年の春までにランドセルを用意しなければならないということは頭にありましたが、今目の前の砂場で遊んでいるこの子達が小学校に入学するのは、まだ十ヶ月も先のことなのです。
「ランドセルって、そんなに早く買うものなの?」
 私はおずおずと口を開きました。二人のママに自分から話しかけたのは、おそらくこれが初めてです。
「そーだよ!」
 千絵ちゃんママが若干シミの目立った顔をこちらに向け、もともと小さな目をめいっぱいに広げながら、少し怒ったような顔をして言いました。もちろん怒っているわけではないと思います。ただ、そんなことも知らない私に、喝を入れたい気持ちはあったかもしれません。
「美優ちゃんは一人目だもん。分からないよね」
 春菜ちゃんママが、ふわりとした笑みを私に向けました。同時に花のような香りが流れて来ます。香水をつけているのか、それとも柔軟剤の香り成分なのかは分かりません。その甘い匂いと春菜ちゃんママの美貌との相乗効果に、私は一瞬打ちのめされそうになりました。同性の立場でさえこうなのですから、異性の、例えば他の園児の父親などは、春菜ちゃんママの姿を園内でちらりと見ただけでときめいてしまうのではないでしょうか。中には妻子の存在も忘れて一瞬で恋におちてしまう父親もいるかもしれません。そんな不穏な考えを胸に抱きながら、私はふと誠一さんのことを思いました。誠一さんが私のことを裏切るはずはないと信じていても、やはり誠一さんと春菜ちゃんママが会うことはありませんようにと心の中で願っていました。
 春菜ちゃんママとも千絵ちゃんママとも、話をするのは今日が初めてです。普段は降園時間後も、娘の美優をホームクラスと呼ばれる預かり保育に預けているため、私が他のママと話をする機会はほとんどありません。
 ホームクラスに毎日預けられることに対して、美優が今まで不満を言ったことは一度もありませんでした。おそらく入園式の翌日からそうだったため、そういうものだと刷り込まれたのでしょう。本当は保育園に入れたかったのですが、近くの保育園にはいずれも空きがありませんでした。いつもお迎えで帰る子達を見送らなくてはならない美優を可哀想だとは思うのですが、我が家の都合上仕方のないことです。
 そんな美優が昨日、珍しくホームクラスは嫌だ、と言ったのです。
 年長になってから、千絵ちゃん、春菜ちゃんと特に仲良くなった、という話は聞いていました。幼稚園が終わった後二人と公園で遊ぶ約束をしたから、明日は迎えに来て欲しいと言うのです。
 ホームクラスは月単位の契約で、毎日おやつを出してもらえます。一日だけキャンセルしても、おやつ代を含む預かり代は戻ってこないので、ホームクラスの契約をしているのに降園時間に迎えに行くことは、一日分の預かり代を捨てる行為でもあります。
「無理言わないで。お母さん、お仕事があるの。美優はもう年長さんだから分かるでしょう」
 すでに翌日も五時までパートを入れていた私は、なんとか美優を説得しようと試みましたが、この日に限って美優は決して折れませんでした。しまいには、
「どうしていつも美優だけ、幼稚園が終わっても帰れないの?みんなはお母さんが迎えに来てくれるのに。いっつも美優だけ幼稚園で待つの、やだ!」
と、これまで胸にためていた思いを一気に吐き出すように、泣き出したのです。これには私もまいってしまいました。今までずっと我慢させてきた負い目もあり、さらなる我慢を強いることは出来ませんでした。迷った挙句、私は意を決してパート先であるスーパーの店長に電話を入れました。
「本当にすみません。明日どうしても幼稚園に行かなければならない用事が出来てしまいまして・・・」
 焦点をぼやかしたあいまいな理由に店長がいぶかる気配はありましたが、その日はたまたま人員に余裕があったおかげで、なんとか早退を了承してもらうことが出来ました。
「今日はホームクラスじゃなくて、ママがお迎えに行くからね」
 今朝そう告げると、美優は満面を笑みにして胸に飛び込んできました。
「ママ、ありがとう」
 体温を通して、喜ぶ美優の思いが伝わって来ました。
 美優の思いをくみ取ることが出来て良かった、とその時私は思いました。私が子育てにおいて最も大切にしたいことは、子供の思いを踏みにじらないことです。
 幼稚園の「お迎え」時には、園庭にクラス毎に並んだ園児達の横に、お迎えのママ達が並びます。普段「お迎え」に来ない私は、どこにどう並んでいいのか分からず、後ろの方でうろうろしていました。すると、ふいに後ろから声をかけられました。
「あの、美優ちゃんママ、ですか?」
 声の主の方へ顔を向けた私は、思わず息を飲んでしまいました。なぜならそこに立っていた女性が、あまりにも自分とかけ離れた存在だったからです。色白の肌に、シミどころかほくろ一つない顔。くりっとして愛嬌のある目。整った輪郭。決して派手過ぎず、でもさりげなく流行を抑えた品のある服装。どこをどう見ても彼女は完璧、かつ少なくともこの狭い園内においては、無敵に見えました。それなのにいかにもボスママといったような威圧感は微塵もなく、どこまでもフェミニンなオーラが彼女を取り巻いています。
「あ、はい」
 年甲斐もなくドキマキしてしまった私は、返事をするのが精一杯でした。
「良かった」
 彼女は安心したようににっこりと笑うと、自己紹介を始めました。
「同じクラスの赤木春菜の母です。今日はうちの子が無理やり美優ちゃんのことを誘ってしまったみたいで」
 恐縮しながら伺うような目で私を見る彼女を見た時、私は初めてこの美しい女性が、美優の親友の一人である春菜ちゃんのママであることを知りました。
「ああ、いえ、こちらこそ、いつも仲良くしてもらって・・・」
 完全に緊張しながら頭を下げる私が言い終わらないうちに、もう一人ママが近づいてきました。春菜ちゃんママは軽くそちらに手を振ると、後から来たママを紹介してくれました。
「こちらが千絵ちゃんママ」
 がっしりとした体格の千絵ちゃんママは、春菜ちゃんママとは違って、どこか肝っ玉おかあさんのような風情がありました。私よりも大分年上に見えましたが、逆に春菜ちゃんママの方は明らかに私より年下です。
「はじめまして」
 私は千絵ちゃんママにも頭を下げました。初対面の人と話をするのは、昔からどうも苦手です。千絵ちゃんママは、一瞬見定めするような目で私を見た後で、愛想笑いに見えなくもない笑みを浮かべました。
 三人とも子供が同じクラスなので、私達は同じ列に並びました。美優は初めてこの列に並べたことが嬉しいらしく、私の横ではしゃぎまくっています。
「美優ちゃん、良かったね。今日お迎えで」
 母親譲りの美少女である春菜ちゃんが、美優に向かって天使のような笑顔を向けます。
「うん!」
 満面の笑みで答える美優は、これまた母親譲りの残念ながらお世辞にも美人とは言えない顔立ちですが、当人達はまだそんなことちっとも気にせずにいられる幸せな年頃です。
 一人一人の先生との挨拶を終えると、解放された子供達は保護者よりも先に幼稚園を飛び出し、すぐ近くにある公園に向かって走っていきました。私は知りませんでしたが、お迎えの子達にとって、降園後この公園で遊ぶのがお決まりのコースらしいのです。春菜ちゃんママと千絵ちゃんママの足も当たり前のようにそちらに向かうので、私も二人に続いて歩きました。春菜ちゃんママの容姿にばかり気を取られ、さっきは気づきませんでしたが、よく見ると春菜ちゃんママは、まだ一歳くらいのよちよち歩きの子の手を引いています。
 公園に着くとすぐに、千絵ちゃんと春菜ちゃんと美優は、砂場で何かを作り始めました。しっかりものの千絵ちゃんがあれこれと作るものを提案し、春菜ちゃんが笑顔で賛成します。それに対し、美優は時々千絵ちゃんに意見したりするので、ケンカにならないかこっちがはらはらしてしまいました。だけど特に険悪な空気にもなることもなく、三人はずっと遊びに集中しています。家では見せたことのないような表情で生き生きと遊ぶ美優はどこか大人びて見え、いつの間にか美優がこんなにも成長していたことに驚きました。
「そうそう、そういえばさっきのランドセルの話の続きだけどさ」
 千絵ちゃんママが思い出したように言いました。
「新しく出来たリサイクルショップで、こないだ五千円で売ってたよ」
「ええ!」
「五千円?!」
 私と一緒に、春菜ちゃんママも驚きの声を上げました。でもその表情は、私とは全然違います。言葉とは裏腹に、春菜ちゃんママは全然驚いてなんかいないようでした。自分とは関係がないその店の存在を、ただ単に面白がっているだけ。
 しかし私にとってそれは、生活に直結する貴重な情報でした。ランドセルは大体四万円から五万円はすると聞いています。そしてそれを遅くても三月までには用意しなければならないのが、我が家の目下の悩みでした。もしランドセル代が覚悟していた額の十分の一で済むのなら、我が家の家計はどれだけ助かるでしょう。私は目の前に一筋の明るい光が差したような気持ちになって、千絵ちゃんママに尋ねていました。身を少し乗り出してしまったかもしれません。
「そのお店って、どこに出来たの?」
 場所を尋ねただけだと言うのに、私に向けられた二人の一瞬の視線にたじろぎました。我が家の経済状態を自分から露呈してしまったようで、とたんに恥ずかしさに身を貫ぬかれました。千絵ちゃんママは、そんな私の動揺に気づいてかそれとも気づかずにかは分かりませんが、丁寧にお店の場所を教えてくれました。売れてしまう前に、今週末にでも早速見にいってみよう、そう思ったその時でした。
「さすがにランドセル中古は可哀想だよね」
 春菜ちゃんママが控えめな笑みを浮かべながら、さらりと言いました。おそらくそこには何の悪意もありません。そして悪意がないからこそ、罪は深いのです。
 少し間を置いた後、そうだよね、と千絵ちゃんママも同意しました。
「ま、とりあえずうちはじじばばが買ってくれるっていうから良かったわ。自分で買うのは結構痛いからね」
 私へのフォローととれなくもない千絵ちゃんママの言葉には、うんうんと春菜ちゃんママも肯いています。
「うちも春菜ちゃんちみたいに、お金でもらう方が良かったなー。その方が気を遣わなくていいし」
 それには答えずあいまいな笑みを浮かべたままの春菜ちゃんママの顔を見ながら、ようやく私は悟りました。ランドセルというものは、一般的におじいちゃんやおばあちゃんが孫にプレゼントしてくれるものなのだ、ということを。
 曇天の下湿気を含んだ重い空気が肌にまとわりつきました。背中に張り付いた自分のシャツから、わずかに汗の不快臭がしています。それきりランドセルの話は終わり、話題は千絵ちゃんと春菜ちゃんの小学生のお兄ちゃん達の話に移っていきました。二人は家も近く、同じ小学校に上の子が通っているようです。美優しか子供がいない私には、ところどころ話の内容がよく分かりませんでしたが、それでも薄い笑顔を貼り付け二人の話を黙って聞いていました。
 千絵ちゃんママは想像できましたが、春菜ちゃんママにも小学生の男の子がいるとは思いませんでした。三人の子を産みながら、若さと美しさを保ち続けている春菜ちゃんママ。先の方が黒く汚れたスニーカーを履いた私とは、大違いです。

 五時になったのを機に私達は別れました。
「ああ、今日は楽しかった」
 美優は仲良しのお友達と幼稚園の外で、こんな時間になるまで遊べたことが余程嬉しかったようです。満ち足りた笑顔で何度も同じセリフを連発していました。
 美優が楽しめて良かった、と私も思います。美優が満足で幸せで、私も嬉しいはずです。けれど、慣れない相手と話した気疲れと二時間以上も立ち続けた疲労が、私を不機嫌にさせていました。
 夕飯の材料が冷蔵庫にほとんどなかったことを思い出し、帰りにスーパーに寄ることにしました。美優を連れて買い物に出ると時間がかかる上、あれこれとねだられるので、なるべく買い物はホームクラスに迎えに行く前と決めています。今日は当然そういうわけにもいかず美優と一緒に店に入りました。遊びの興奮が冷めやらぬ上、久々に私と一緒に買い物に来られたことが嬉しいのか、美優のテンションはマックスでした。
 嫌な予感はしていました。美優は案の定、店の商品にかたっぱしから目をつけ声をあげていきます。
「これ欲しい!」
「これ、おいしそう!」
「これ、かわいい!」
 だけど決して、しつこくねだったりはしません。どうせ買ってもらえないと分かっているからです。だったら黙っていればいいのにと思うのですが、それでも美優はひとつひとつの商品に目を輝かせ、反応するのです。その度に私は制します。だめ、買えない、いらない、と。そんなやりとりを繰り返すうちに、だんだんといらいらしてきて、自分の顔から能面のように表情が消えていくのが分かりました。
 店を出る頃には、私は疲れ果てていました。子供と一緒にいると、正直仕事をしている時以上に疲れる時があります。単なる肉体的な疲労感だけではなく、精神的に追い込まれるような疲労感。ホームクラスに美優を預けることによって、私は普段それから逃れているのです。けれども春菜ちゃんママのような専業主婦のママはこの疲れと毎日向き合っているのだ思うと、もう何もかもかなわないような気持になって、私はいつの間にか夕焼けに染まった空を見つめました。
 人は人、自分は自分。
 よく母が、事ある毎に口癖のように私に言って聞かせた言葉です。
 どうして、うちにはお父さんがいないの。
 どうして私だけいつもこんな服なの。
 どうしてうちだけ、いつもお金がないの。
 母と同じ言葉を、私も美優に言い聞かせなければならないのでしょう。

 アパートのドアの前で鍵を開けた瞬間、私は気配を感じました。まただ。ため息をつきたくなる気持ちを心に飲み込みます。
「あ、おばあちゃん」
 美優の声が先に耳に入りました。私は振り向きません。
「美優ちゃーん、元気だった?」
 つい先日会ったばかりだというのに、まるで久しく会っていなかったかのような猫なで声で、美優に呼びかけます。ようやく振り返った私に、母は満面の笑みを向けました。
「ちょうど近くを通ったついでに、寄ってみたの」
「そう」
 母の嘘に、自分の顔が強張っているのが分かります。
 母がこうして夕方現れるのは、決まって生活が苦しくなる年金の支給日前です。二か月に一度支払われる年金を、母はいつも支給日前に使い果たしてしまうのです。
「何買ってきたの?ねぎに白菜?今晩はもしかしてお鍋かな?」
 母が住むアパートは、私の家から電車で一駅分離れています。徒歩では三十分ほどかかるその距離を、母は歩いてやって来ます。
「鍋は誠一さんがいる時しかやらない。だから今夜はただの湯豆腐」
 そっけなく言う私に対しても、母は嬉しそうな笑顔を向けます。材料費の安い献立であろうと、私と美優と食事を共にすることが、母にとっては何よりの喜びなのです。だったらもっと家に呼んであげればいいのですが、生憎そうもいきません。なぜなら我が家の家計も母の家計と同様、ギリギリだからです。例え湯豆腐であろうと、ひとり分増やすためには何か別のおかずを用意しなければなりません。冷蔵庫に卵があったはずだから卵焼きでも作ろうか。来るなら来るでもっと早く言ってくれれば、豆腐をもう一丁買ってきたのに。そんなことで頭を一杯にしながら、私は食事の支度にかかりました。
 夫である誠一さんは、今日も夜勤で帰って来ません。知ってか知らずか、母はいつもそういう日にやって来ます。誠一さんのシフト表をわざわざ知らせているわけではないのですが、母はさりげなく私との会話の中で彼のスケジュールを聞き出し、記憶しているのです。
 自分の不在時に母が時々訪ねてくることに対して、誠一さんが不満を漏らしたことは一度もありません。そればかりか、我が家の粗食を恥じるように、お義母さんが来たときくらいもっといいもの出してあげたら、なんて言います。それは私への嫌味でも決してなく、彼はそういう人なのです。
「美優ちゃんももうすぐ一年生だ」
 台所で野菜を切る私の耳に、母の声が聞こえます。美優が年長になってからというもの、母は美優との会話が途切れる度に、このセリフを口にするようになりました。何度同じことを言われても、美優はその都度笑顔を見せ、うん、と肯きます。
「一年生になったらね、美優、ランドセルを買ってもらうの」
 美優の声に、一瞬だけ私の手が止まりました。
 娘が一年生になる。ランドセルを買う。親としてそれは祝福すべき幸せなことであるはずなのに。その単語を聞いた途端、私の心は鉛を背負わされたように重くなるのです。
「ランドセル?そっか。そうだよねえ」
 母の声が幾分かか細く聞こえました。それ以上母は何も言いません。もちろん私も、母に何も言うことは出来ません。

 月曜日から金曜日の朝九時から夕方五時まで。それが私の基本的な勤務時間ですが、シフト制なため勤務は時に流動的で、従業員の配置上四時であがる時もあれば、六時まで伸びることもあります。駅からほど近い場所にあるこのスーパーマーケットは、比較的いつも繁盛しています。その分同じチェーン店でも他店より時給が高いのが魅力で、パート先に選んだのでした。
 シフトに入ったとたん、私はレジ打ちのマシンと化します。その感覚が、私は決して嫌いではありません。余計なことは考えず、ひたすら商品のバーコードを読み取り、値段を読み上げる。すべて読み終わると現金もしくはカードを受け取り、客の手にレシートとお釣りを手渡す。手渡す瞬間、思わず客の手の体温に触れたじろぐことはありますが、それ以外は極めて機械的な作業です。そしてその作業は一見単純なようでいて、熟練の技が必要とされる作業でもあるのです。
 バーコードで読み取った商品をいかにうまく清算済みのカゴに移し替え、積み重ねていくかが重要で、客が無造作にカゴに入れた商品の大きさや形、やわらかさを考え、最後にスペースの無駄がないようコンパクトに収めなければなりません。入社時の研修で簡単に教わりはしましたが、実際にうまく出来るようになるまではかなり時間がかかりました。徐々にコツをつかみ、うまく収められるようになった時、私は密かな喜びを覚えたものです。機械の一部のように手際よく作業出来る自分が、誇らしくさえありました。
 だけど最近気になることを耳にするようになりました。一部の店舗では自動精算システムを導入し、レジ打ちのパートがいらなくなったそうです。近い将来、私のような人間は社会から必要とされなくなるのでしょう。合理的で便利な未来もいいですが、そんな未来がやってくるのは、せめて美優が一人前に成長してからであって欲しいと願うばかりです。
 未来のことはさておき、私は今日もレジを打ちます。商品、お金、カゴのことだけに頭と体を集中させ、そうすることに私の日中の時間の大半は費やされていきます。
「あ、美優ちゃんママ」
 今日の広告にも出ていた霜降りカルビ肉のバーコードを読ませたとき、ふいに声をかけられました。びっくりして顔を上げた私の前に、春菜ちゃんママが立っていました。
「あ・・・」
 驚いてすぐに声を発することが出来ない私に対し、春菜ちゃんママはあの、ふわっとした笑顔を向けました。
「ここで働いてたんだ」
「うん。そうなの」
 ぎこちない笑顔で答えるのが精一杯でした。後ろに別のお客さんが並んだので、それを理由に私は春菜ちゃんママとの会話を中断し、レジ打ちに集中しました。しかしいつものようにうまく指が動きません。春菜ちゃんママがじっと私の指を見ています。私はなぜだか逃げ出したい気持ちでした。春菜ちゃんママは別に私のことを見下したりしているわけではないのに。春菜ちゃんママのカートには、小さな春菜ちゃんの妹が乗っています。春菜ちゃんよりも春菜ちゃんママによく似た可愛い子です。最後に私が合計金額を告げると、春菜ちゃんママはやっと話せるタイミングが来たとばかりに、にっこりと笑いました。
「美優ちゃんママがここで働いてるなら、今度からこっちに買いに来ようかな」
「え?あ、ありがとう」
 春菜ちゃんママが買いに来てくれたところで私の手取り収入が増えるわけではないのですが、春菜ちゃんママが私に対して好意を持ってくれていることが伝わってきて、胸の奥がじんと温かくなりました。中学生の頃、とっても可愛い女の子と友達になれた時に感じたような、胸がきゅんと震えるような感じを久しぶりに味わい、自分の中にそんな少女のような感覚がまだ残っていたことに驚きました。
 レジを終え、台の上で商品を袋に移し替える春菜ちゃんママの後ろ姿を、私は作業をしながらちらちらと見てしまいました。決して高級ブランドで塗り固めているわけではないのに、すごくおしゃれな雰囲気に心が引かれます。若いころ、いやきっと子供のころからずっと、春菜ちゃんママは人気者だったに違いありません。そして旦那さんは長身でイケメンで、家は素敵な戸建てで・・・と想像はどんどん膨らみ、気がつくと私はすっかりもやもやした気持ちになっていました。でもそれを嫉妬だとは認めたくありません。認めてしまえば、私の手の中にある大切なもの達は急速に価値を失い、私自身も消えてなくなってしまいそうだからです。

 五時で退勤し、買い物をして家に帰って来るともう六時前です。ドアを開けた瞬間、室内のむっとした熱気に襲われました。ホームクラスには七時までに迎えに行けばいいので、少しだけ時間に余裕があります。といってもぼーっと休んでいる時間があるわけではありません。洗濯物を取り込み、風呂を掃除し、夕飯の準備を出来るところまですませておかなければならないのですが、どういうわけか今日は動きたくありません。暑さにやられたのか、体が重く何もする気が起こらないのです。こんな日は無理に動かないようにしています。体調不良にさらなる疲れが加われば、体が悲鳴をあげてしまうからです。財産を持たない私達家族は、健康という資産をまず何よりも大切にしなくてはなりません。
 窓を開け部屋に外の冷気を入れてから、腰を下ろしそのまま横になりました。仰向けに寝転がると、壁紙の汚れが目につきます。築20年のアパートには、私達が住む以前に住んでいた人達の手垢も含まれているはずです。いつか新築の家に引っ越すことが密かな私の夢ではありますが、おそらく実現することはないでしょう。とりあえず今を生きることで精一杯、というのが私達の現状です。
 どうして、という叫びがふいに心に浮かび上がってくることがあります。
 どうして私は、こんな思いをしなければならないのでしょう。
 
 私が大学を中退したのは、金銭的な理由によるものでした。大学三年の時、母が職場のストレスからうつ病にかかり、働けなくなったのです。
 父との離婚後、母は朝早くから夜遅くまで働き、私を大学に入学させてくれました。そんな母に私は感謝していましたし、母に報いるためにも私は真面目に大学に通い、熱心に授業を受けていました。ゼミでは仲の良い友達も出来たし、興味ある講義に出会い、卒論の研究テーマも決まりかけた、その矢先のことでした。
「どうしても辞めなければならないの?」
 そう尋ねた自分の声が震えていたのを覚えています。そんな私に、母はこう答えました。
「・・・今までだって、とても無理して払ってきたんだよ」
 その時の母の声を今でも忘れることが出来ません。まるで別人のように低く響いたその声には、それまで私が気づかずにいた母の本音が覗いていました。
「・・・お父さんは?お父さんは、お金を出してくれないの?」
 思わずそう口走っていました。あとで後悔しましたが、それくらいあの時は私も動揺していたのです。大学を辞めたくないという強い気持ちもありました。すると、一瞬にして母の顔がさっと青ざめるのが分かりました。何か恐ろしいものを見るような目で私を見つめたまま、母は言葉を失いました。それ以上何も言うことが出来なくなった私は、ひとり部屋で母に気づかれぬよう泣きました。
 翌月、私は退学届けを大学に提出しました。理由を記入する欄に、経済的な理由という箇所に〇をつけると、窓口の職員は気の毒そうな顔をしました。それから奨学金制度のパンフレットを取り出し説明してくれましたが、私は断りました。母が退学を望んでいる以上、退学以外道はないように思えたのです。窓口の職員は、夜間アルバイトをしながら何とか通っている学生の例も挙げ、引き止めようとしてくれましたが、そんなエネルギーも湧いてはきませんでした。
 今思えば、あの時もしもう少し頑張っていたなら、今とは違った未来があったのかもしれません。ちゃんと大学を卒業して、別の会社に就職していれば、私は誠一さんとは出会わず、別の人生を歩んでいたことでしょう。
 そこまで考えて私ははっとし、胸が痛みました。私はなんていうことを考えるのでしょう。誠一さんは私の人生で唯一、私を心から愛してくれた人だというのに。

 気がつくと時計の針は六時五十分を指していました。幼稚園までは自転車で五分で着きますが、もうそろそろ出かけなくてはいけません。急いで洗濯物だけ取り込むと、夕飯の準備もお風呂の準備も出来ていないまま、私は幼稚園に向かいました。
 ホームクラスに美優を迎え帰る途中で、カーテンを閉めた私達の部屋の窓から明かりが漏れているのに気がつきました。
「あ、パパ、帰ってる!」
 美優がうれしそうな声を上げます。私が家を出てすぐに帰宅したのでしょう。今日は誠一さんは日勤で、夕食を三人でそろって食べることが出来る、私達にとっては貴重な日です。それなのにまだ何の用意も出来ていないことを申し訳なく思いつつ帰宅すると、風呂場から掃除をしている音が聞こえます。誠一さんが帰ってすぐにお風呂掃除をしてくれているのだろうか思ったところで、そうではないことに気づきました。玄関に見覚えのある、というよりはとてもよく見慣れたスニーカーが置かれていたからです。底は減り側面の布地は擦り切れています。
「お帰り」
 誠一さんが玄関まで来て迎えてくれました。
「パパー!」
「駄目よ。パパはお仕事で疲れてるんだから」
 誠一さんの胸に飛び込み抱っこをせがむ美優を制しつつ、私は誠一さんの目を覗き込むようにして尋ねました。
「お母さん、来てるの?」
「ああ、俺が帰って来る時ちょうど外で会ってね」
 そう言った後、少し困ったように瞳を陰らせた誠一さんを見て、私は嫌な予感がしました。
「おかえりー、美優ちゃん」
 風呂場から出て来た母が満面の笑みを美優に向けます。
「おばあちゃん、来てたんだ!」
「そうよー、来てたのよ~」
 母の声がいつもに増して明るいのが気になります。
「お風呂、掃除しといてあげたわよ」
「・・・ありがとう」
 私は答えました。本当はそんなことして欲しくないのに。私のいない時に勝手に入っていて欲しくないのに。
「夕飯の準備、これからなの?」
 台所を覗き込む母にうんざりした気持ちで答えました。
「今日はちょっと体調があまり良くなくて。でも大丈夫。すぐに出来るものだから」
 この時間に来るということは母も食べていくつもりなのでしょうが、あえて確認する気も起りませんでした。
「準備、手伝うよ」
 誠一さんが私の横に立ち、片手で器用に野菜を洗います。
「へえ、誠一さんも料理出来るのね。両手があったって出来ない男の人たくさんいるのに感心だわ」
 誠一さんは母の言葉を特に気にする様子も見せず、逆に褒められて嬉しいというような笑顔を母に向けます。
「どうしたの?今日は。いつもは誠一さんがいない日を見計らって来るくせに」
 言葉に棘を含ませましたが、その棘が母にどの程度刺さったかは分かりません。
「ごめんね、突然。実は今日はあんただけでなく、誠一さんにも話があってね」
 柄にもなくかしこまった態度を見せる母の様子から私は、予期した通り話とは金銭面のことだと悟りました。
「お金なら、もうこれ以上は無理だから」
 先手を打とうとした私をなだめるように、誠一さんが言います。
「まあ、帰ってきてすぐもなんだから、まずは落ち着こう。夕飯でも食いながらゆっくり話をしようよ」
 思わずため息が出ました。どうやら話は既に二人の間である程度済んでいるようです。母は卑怯です。誠一さんなら決して断れないことが分かっていて、私という邪魔者がいないうちに話をつけたのです。沸点に達しそうな私の理性をなんとか維持させたのが、屈託のない美優の言葉でした。
「おばあちゃん、今日の夕ご飯はねー、ぱぱっと出来るやつだよ」
 帰り道私が言った言葉を美優はそのまま母に伝えます。ぱぱっと出来るやつとは、私がたまに使う〇〇の素を使った料理です。若干割高にはなりますが、材料と合わせるだけですぐにできるので、今日みたいな日には重宝します。
「そう。おばあちゃんの分もあるかな?」
「大丈夫。美優の分けてあげるー」
 私のやり場のない怒りは宙をさまようしかありませんでした。美優の優しい一言により、母は今晩も我が家で夕食を食べていくことになりました。出来上がった三人分の回鍋肉を四つのお皿に分けます。美優も誠一さんも何も不満は言いません。不満なのは、私だけ。
「それで話って?」
 決していい話ではないと分かっていても、聞かないわけにはいきません。食卓に着くや否や私は母に尋ねました。するとややうつむきがちになった母は、声のトーンを落として言いました。
「まあ、あんたの教育ローンのことなんだけどね」
 わざわざあんた、とつけるところがいかにも母らしく、私はまたもや耐えがたい気持ちになります。
「大分返せたんだよ。あともう少しなんだ。ただ先月腰を痛めてからは、そっちの医療費もかかるようになっちゃってさ。それでもう少しあんたんとこに協力してもらえないかなって思って」
 最後の所だけ語尾を弱め、小首をかしげたところが癇に触りました。
「でも今だって、毎月三万円も渡しているじゃない」
 そんな言い方をしても無駄、とばかりに私は声を荒げました。
 ローンの返済額は確か月三万円弱だったはずです。それ以上渡せばそれは教育ローンの分ではなく明らかに母の生活費です。
「それは、そうなんだけど・・・」
 今度は本当に弱気になり口ごもりながらも、母は続けました。
「こんなことになるなら、やっぱり奨学金にしておけば良かったよ。でもあの時は、社会に出たあんたにいきなり借金背負わせるのは可哀そうだと思ったから・・・」
 自らの慈悲深さを強調することにより、焦点をぼやかす。それが母の常套手段であることを私はよく知っています。
「じゃあ逆に、奨学金をもらっていたら、私は大学を辞めずにすんだの?」
 負けてはいけない、と思いました。これ以上母に、流されてはいけない。意志に反し、声が勝手に震えます。大学を辞めずに奨学金を申請するという選択肢もありました。しかし母の口ぶりから、母がそれすら望んでいないことが分かったのです。
 女の子が大学出たって、大して役には立たないんだから。それより早くどこかに勤めて、お母さんを助けてよ。
 母がふとそう漏らしたのを、私ははっきりと覚えています。結局私のために借りた教育ローンは、働けなくなった母と私の生活費に消えてしまいました。その返済が未だ終わっていないのです。
「だってお母さん、体悪くしちゃったんだから、しょうがないじゃない」
 母の回答はこんな風にいつもかみ合いません。病気を理由にすれば何もかも許されると思っている母が、憎くて疎ましくていっそ消えて欲しいと思いました。そんな私の気持ちを制するように、誠一さんが言いました。
「そうだよ、優子。今さらお母さんを責めたって仕方がない」
 私は誠一さんの何よりこういう思いやりのある優しい所に惹かれたのですが、その対象が母に向けられた途端、彼のそんな性質さえ私をいらだたせるのでした。
 誠一さんが味方についてくれたのが嬉しかったのか、母は調子にのり、誠一さんにさらりとたずねました。
「誠一さん、ところで今年収はどれくらいなの?」
 これにはさすがの誠一さんも閉口したようです。口ごもる誠一さんが答えるより先に私は叫んでいました。
「いい加減にして!」
 余程恐ろしい顔をしていたのでしょうか。母は私の顔を見るとさすがにはっとしたような顔になり、口をつぐみました。美優も怯えたような驚いた顔で私を見ています。これ以上感情的になるわけにはいかないと思いました。
 その後は冷静に話し合い、結局母への仕送りは今までより一万円増やし、月四万円にすることにしました。たかが一万円って思われるかもしれませんが、それが私達に出来る限界です。母は満足したらしく、嬉しそうに礼を言うと頭を下げました。もちろんそれらはすべて私のパート代から賄われるのですが、それでも誠一さんに対して申し訳ないという気持ちは消えません。本来ならばそれは、食費や教育費に充てることが出来るお金です。月に四万円もあれば、毎週末外食をすることも出来るし、旅行にだって行くことが出来ます。美優にも、格安衣料品店や中古の服ばかりでなく、もう少ししゃれた服を着せてあげることだって出来ます。それだけのお金が、母のために我が家の家計から消えていくことに対して、誠一さんは一度も不満を漏らしたことがありません。
 母の帰り際、私は見送ると言って一緒に外に出ました。憤る気持ちは消えていませんでしたが、母が何にお金を使っているのか、普段はどんなものを食べているのか、本当にうちに頼らなければならないくらい生活を切り詰めているのか等々を、確かめたいと思ったからです。
 梅雨が明けたばかりの夏の夜空は澄んでいて、雲一つありません。ただそこにやせ細った月だけがうっすらと浮かんでいます。母と並んで歩いていると、母に確かめようと思っていたことは私の頭の中をぐるぐると回るだけで、なかなか口をついて出てきませんでした。
「・・・ねえ、どうしてお父さんと離婚したの」
 その時ふいに、そんな言葉がこぼれました。それは用意していた質問とは全く別の質問であり、私自身予期していなかったものでした。そしてそれは、長い間封印されながらも、ずっと私の胸の奥でわだかまっていたものでもありました。不意を突かれた母は、じっと私の顔を見つめました。私も目を逸らさず母の顔を見つめ返しました。もう逃がさない。そう思っていました。
 気迫ともとれる思いが、母に伝わったのでしょうか。母は先に私から目を逸らすと、観念したように口を開きました。
「浮気、したのよ」
 鈍い刃物で切り付けられたように胸が痛みました。私の中にまだ小さな娘である私がいて、その胸から血が流れます。
「浮気って、お父さんが?」
 震える声でそう尋ねると、母は半笑いの顔をこわばらせ、言いました。
「ううん、違う。お母さんが」
 さらに金棒で後ろから頭をたたかれたように、私は絶句しました。次に言葉を発することができるまでに、しばらく時間がかかりました。
「どうして?・・・あんなに、お父さん優しかったのに」
 そう尋ねた私は、もう半分泣いていたかもしれません。
「・・・あんたには、分からないのよ」
 ため息交じりに、母が答えました。まるで仕方がなかったのだ、と言わんばかりに。
 その瞬間、私は激しい怒りに包まれました。母がなぜ浮気したのかなんてどうでも良かったし、そんなこと知りたくもありませんでした。
「・・・それで、お父さんに離婚されたのね」
 込めうる限りの軽蔑を込め、私は母に尋ねました。
「離婚されたなんて、そんな言い方・・・」
 顔を歪めた母は言葉を濁しごまかしましたが、それが何より真実であることを表していました。
 父のことは正直よく覚えていません。ただ私の記憶の中の父は、いつも笑っていて怒った顔を見せたことなど一度もありませんでした。
 気が付くと、私と母は引っ越しをすることになっていました。訳の分からぬまま引越しの準備に巻き込まれ、それまで住んでいた庭付きで友達からもうらやましがられていた大きな一軒屋から、狭い2DKのアパートに私と母だけ 移動したのです。
 どうして引っ越さなきゃいけないの?
 どうしてもうお父さんと暮らせないの?
 私は何度も尋ねましたが、母は決して答えてはくれませんでした。次第に私の中で、父のことは触れてはならないタブーとして、意識の底に沈んでいったのでした。
 どれほど激しい思いも強い願いも、時と共に日常の中に薄れていきます。けれどもそれらが、完全に消えてなくなるということはありません。そしてある時突然に、何の脈絡もなく、ふと心に浮かび上がるのです。
「どうしてお父さんは、私のことまで捨てたの?」
 言葉のひとつひとつがナイフとなって、逆襲のように母の心を切りつけるのを、どうすることも出来ませんでした。
「そりゃあ、だって、お前はお母さんといる方がいいと思ったから・・・」
 母の声は弱弱しく、ほとんど涙声になっていました。しかし私は、今母が言ったことを、聞き捨てるわけにはいきませんでした。
「ちょっと待って。それじゃあ、もしかしてお父さんは、私のことを引き取ろうとしたの?」
 感情を押し殺しながら、私は尋ねました。そうしなければ、出来ない質問でした。
 母は答えません。答えないのが、母の答えです。
「どうして!?どうしてよ!どうして私をお父さんの所に行かせてくれなかったの!?」
 私は思いの丈をすべて母にぶつけました。抑えていた感情が一気に爆発します。その言葉がどれだけ母を傷つけるか、私は知っていました。知った上で、私は武器のようにそれを使ったのです。
 うつむいた母はついに泣き出してしまいました。
「だって、お前までなくしたら、母さん何もなくなってしまうから。だから、お父さんにお願いして、養育費も何もいらないからお前を育てさせてくれって・・・」
 泣き崩れる母に、私はもはやかけるべき言葉を持っていませんでした。
 母とその場で別れた私は、家に帰ると携帯電話の連絡先から母の番号を消去し、さらに着信拒否に設定しました。
 貧しい暮らしを強いられ、大学を中退せざるを得なかったのも、すべて母の身勝手な行動から始まったことだったのだと思うと、悔しくて情けなくて涙も出てきませんでした。
 結局母は、いつもそうなのです。昔も今も、自分の事しか考えていないのです。
 母に裏切られ、突然に家族を失った父は、私と同じように母を恨んだのでしょうか。父と母が私のことでその後連絡を取っている様子はありませんでした。母の子である私も結局、父から捨てられたのです。
 それならば、今度は私が母を捨てる番です。

 幼稚園から勤め先のスーパーに電話がかかってきたのは、まだ冬に入る前のことでした。夕方の最も忙しい時間帯にかかってきたパート宛ての電話に店長があからさまに嫌な顔をしたのが分かりましたが、恐縮しながらレジを代わってもらい、事務室で電話を取ると、聞き覚えのある担任の先生の声が聞こえてきました。
「美優ちゃんのお母さんですか?」
「はい、そうですけど」
「美優ちゃん、熱があるんです」
「えっ」
「美優ちゃんいつもなら誰よりもおやつの時間を楽しみにしているのに、今日は手もつけずぼーっとしているので、額に手を当ててみたら、燃えるように熱くて。慌てて熱を測ったら、39度でした」
「えっ、そんなに?!」
「すぐに迎えに来られますか?」
 普段めったに熱を出さない美優が高熱を出しているということにすっかり動揺してしまった私は、長蛇の列が出来たレジを去ることに頭を下げ、なんとか早退させてもらいました。顔をしかめながらも店長は、口先だけはお大事にと言ってくれました。
 幼稚園に着くと、美優は職員室のベッドに横たわっていました。頬は赤くほてり、白目の部分が充血しています。一見しただけでかなり重症であることが明らかでした。
 美優、と呼びかけながら私は側へ駆け寄りました。朝出る時は普通に元気だと思っていたのに。幼稚園で何か悪い菌でももらったのだろうか。園での衛生管理は行き届いているのだろうか。園の対応に問題がないこと、きちんと娘の異常に気づき、こうして寝かせてくれていることに感謝すべきだと頭では分かっていても、ついそんな気持ちがもたげてしまいます。
 美優のこんな姿を見るのは生まれて初めてのことであり、担任の先生から美優の様子について説明を受けている間も、恥ずかしながら私は、まず何をどうしていいか分からないくらい動転していました。そんな私の状態を見てとった若い女の先生は、あえて強い口調で言いました。
「お母さんがしっかりしなきゃ。落ち着いて、まずは病院に行ってください」
 私は財布から何度かかかったことのある小児科の診察券を慌てて取り出し、電話をかけようとしましたが、裏を見て今日は午後から休診日であることに気がつきました。ますます動揺しそうになる私の目を見据えながら、先生は言いました。
「第一病院の小児科だったら、急げばまだ間に合うはずです」
 肯いた私は美優を両手で抱え、停めておいた車へ美優を乗せると、市内にあるその総合病院へと向かいました。
 後部座席に横になった美優は、目を閉じていました。まさか意識がないのだろうかと不安に襲われた私は、大声で叫んでいました。
「美優!美優!大丈夫?」
 美優は苦しそうに、それでも少しでも私を安心させようとの健気さで、瞼を少し動かしながら肯きました。そのほんのわずかのしぐさに救われた私は、車を走らせ診療終了時間の十分前に病院に到着しました。
 小児科の前に移動すると、終了時間間際とは思えないほど、病気の子を連れた親子連れでごった返していました。この調子だと名前を呼ばれるまでに何十分待たされるか分かりません。ため息をつきながら、なんとか空いていた座席のスペースに美優を抱いたまま腰をかけました。美優の額に手を当てると火のように熱いので、驚いてすぐに手を離してしまいました。不安が一気に胸に込み上げてきます。こんなに重症だというのに、先に診てもらうことは出来ないのだろうか。周りを見渡すと、明らかに美優よりも軽症の子がほとんどでした。症状の重さではなく、あくまで受付をした早さの順が順守されるという一般的な診察のシステムに対してさえ、私は苛立ちを覚えました。自分達より先に来ている人達をつい憎々しく思ってしまう自分勝手な自分を、反省する余裕すらありません。一向に美優の名前が呼ばれない中、私は寒がる美優の体を温めようと必死に背中に回した手を動かし続けました。
「インフルエンザのA型ですね」
 待合で四十分待たされ、さらに検査後十分待たされて告げられた病名が、思っていたよりもずっと平凡なものであったことに対し、私はわずかに安堵しました。しかし今のところ美優の状態は、決して安心できるレベルではありません。インフルエンザ薬を処方され、水分補給をしっかりするようにとの指示を受けて、私達は病院を後にしました。
 外に出ると、辺りはすっかり暗い闇に包まれていました。私は美優を後部座席のチャイルドシートに座らせようとしましたが、美優が嫌がったので、行きと同じように横長のシートに横たわらせました。こんな時に、チャイルドシートだのシートベルトだのと言ってはいられません。念のため周りに警察がいないか注意しながら、私は家までの道のりを慎重に運転しました。
 アパートに着き、リビングに布団を持って来て美優を寝かせ、解熱剤と抗ウイルス剤を飲ませると、私の気持ちもようやく落ち着いてきました。薬さえ飲ませてしまえば、多少の波はあっても、症状は良い方向に向かっていくに違いありません。
 ほっと一息ついたところで、今度は別の心配が私の頭をかすめました。今日は水曜日。週に五日フルタイムで働く私は、当然のことながら明日も明後日もシフトに入っています。園の行事などで事前に休みを申請したことはありましたが、子供の病気で突然休みの連絡を入れるのは初めてのことです。ただでさえ人手不足の職場に追い打ちをかけるように欠勤の連絡を入れるのは、気が重いことでした。要件を告げたとたん顔を歪めるだろう店長の顔が頭に浮かびます。初めてだからこそ言いやすいはずなのですが、私はどうもこういうのが苦手なのです。同じく子供がまだ小さいという同僚は、店への迷惑など気にせずにしょちゅう休んでいるというのに。私にだって当然休む権利はある、何より今は美優のことを第一に優先しなければ、と自分を鼓舞しましたが、やはり電話をかけるには勇気が要りました。
「えっ、鈴木さんも休み?困ったな。さっき広田さんからも明日急に休みたいって連絡があったんだ」
 店長が電話先で嘆くように言います。
 広田さん、というのが、例のしょっちゅう休んでいるという主婦です。広田さんと比べ、私は休みをほとんど取っておらず、しかもおそらくは美優の方が広田さんの子供よりも重症だろうと思われるのに、後から電話をしただけでこんな言い方をされるとは。
「申し訳ありません」
 広田さんの分まで謝らされているような理不尽な気持ちを抱きつつも、私は受話器越しに頭を下げました。
「分かった。お子さんインフルエンザじゃ仕方ないよね。鈴木さんもうつらないように気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
 私にうつれば欠勤日が増え、ますます店に負担がかかるからだとは分かっていても、気遣いの言葉にはやはり心が和みました。けれども店長が発した次の言葉に、またもや私の体は固まりました。
「あ、で、明後日は来れるかなあ?」
「え?」
 インフルエンザにかかれば、発熱中はもちろん、解熱後も二日間は登園禁止です。つまり明後日パートに出るためには、美優をひとり家に置いて行かなければなりません。明後日もちょっと・・・。そう言いかけた時でした。ふと別のことが私の頭に浮かんだのです。一日のパート代は5600円。二日休めば、合計11200円が今月の家計から引かれることになります。毎月赤字ギリギリの家計にとって、これは予想外の痛手です。せめてマイナス額がその半分なら・・・。そう思った時、私はこう答えていました。
「明日の子供の体調をみて、いけない場合はまた連絡します」
 すると受話器の向こうから、店長の切実な声が聞こえてきました。
「頼むよ、鈴木さん。広田さんが、急に今週旦那さんが休みがとれたから、海外旅行に行くとかで。全くこれだから、有閑マダムは困っちゃうよ」
 広田さんのご主人は都内にある大手製薬会社に勤めていると聞いたことがありました。だったらこんなところでパートしなくても、と言ったら、笑ってエステ代くらいは自分で稼ごうと思って、と答えていたのを思い出しました。
 広田さんの子供もてっきり体調を崩しているのだと思っていた自分が、馬鹿みたいです。
 美優の熱は、翌朝には37度台前半にまで下がっていました。ほっとすると同時に、どっと疲れが出ました。リビングで美優と一緒に横になっていると、夜勤明けの誠一さんが帰って来ました。
「どうしたんだ、一体。あれ、パートは?」
 誠一さんには美優のことを伝えていませんでした。夜勤中にそんな電話をしたって心配をかけるだけだし、誠一さんのことだから、急遽早退し帰って来てしまうかもしれないと思ったからです。有給を取るならまだしも、遅刻、早退はその分しっかり給料から引かれてしまうので、それはそれで困ります。
 美優がインフルエンザにかかったことを告げると、誠一さんは美優の側に駆け寄りました。
「あ、あんまり近づいちゃだめ、移るから」
 私が言っても、誠一さんは美優の側から離れようとしません。
「大丈夫か、美優。つらかっただろう」
 美優の額をそっと撫でる誠一さんを見ながら、こういうところなのだと、私は感じます。彼が与えてくれるこの無償の愛情こそが、貧困に限りなく近い場所にいる私達を、照らし温めているのです。
「やったー、今日パパと一緒にいられる。お熱出て良かったー」
 喜ぶ美優をこらっ、とたしなめつつも、私にも美優の気持ちは分かります。
 食品工場の作業員として働く誠一さんは、週に半分は夜勤で、昼間は寝ていることが多いため、美優と一緒に過ごせる時間は決して長くはありません。
「じゃあ、今日は久しぶりに三人でごろごろして過ごすか」
 誠一さんがそう言ったので、なんだか私も嬉しくなりました。あくせくと毎日を生きている私達にとって、平日の昼間にこんな風に三人でゆっくり過ごすことは、滅多にできない贅沢なことなのです。
 誠一さんが寝室から毛布を持ってくると、私達は川の字になって横になりました。私のすぐ隣には、誠一さんの肘から下がない腕があります。もう見慣れたはずのその腕を私はじっと見つめました。そっと手を伸ばすと、誠一さんがこっちを向きました。
「どうした?」
「ううん。別に」
 微笑む私の頭を、誠一さんが腕を伸ばし抱えました。
 誠一さんの腕から、温かな体温が伝わってきます。
 どんなに苦しくても、この温かささえあれば、私達は生きていける。そう素直に信じることが出来る温度でした。目を閉じた私の瞼の裏には、誠一さんと初めて出会った日の光景が浮かんでいました。
 
 それは今日みたいに、もうまもなく冬が始まる頃のことでした。
 大学を中退した私は、母との生活を支えるためにも、早く就職先を見つけなくてはなりませんでした。といっても当時は就職氷河期であり、新卒生でさえ就職難という時代です。大学中退という中途半端な学歴の私を採用してくれる企業など簡単には見つかりませんでした。あれこれ選り好みできる身分でもなければ、そんな時間もありません。私は新聞の折り込み広告の求人欄に乗っている会社にかたっぱしから応募し、面接を受けました。そうしてようやく私が得た仕事は、今彼が勤務している食品加工会社の事務員としての仕事でした。
 プレハブのような建物の狭い事務室の中で、私は毎日伝票整理をしていました。仕事の内容は単純なもので、大学はおろか高校で学んだ知識さえほとんど必要としないものでした。事務員は私一人しかいません。自動販売機に飲み物を買いに行くと、彼と会うことが多いのに気づきました。初めは挨拶程度しか言葉を交わしませんでしたが、徐々に彼の方から色々と話しかけてくれるようになりました。おそらくいつも一人で暗い表情でいる私を気遣ってくれていたのでしょう。だけど当時、彼に対する恐怖心がゼロだったと言えば嘘になります。片手がない彼に対して差別的な感情を抱くことはありませんでした。当時の私にとって、大学を中退した自分よりもみっともなくて恥ずかしい人間などいなかったのです。それでも私の中に、彼とは一定の距離を保ちたいという気持ちがどこかにありました。しかしそんな私の気持ちを吹き飛ばしてしまうくらい、彼は腕のことをまるで気にしていなかったのです。彼と話していると、あれほど呪った自分の境遇でさえ、どうでも良いことのように思えてきました。気がつけば、私は彼のことばかり考えていたし、彼と過ごす時間が何よりも楽しくなっていました。
 こうして私達は出会い結婚したのです。
 彼との結婚を決めた私は、結婚後も事務の仕事を続けたいと申し出ましたが、あっさり却下されました。古い社風の下にある職場では、社内結婚は元より社内恋愛すら認められていなかったのです。
 それから私が就いた仕事と言えば、ずっとスーパーのレジ打ちです。美優が生まれてしばらくは子育てに専念しましたが、幼稚園入園と共に再開しました。

「美優の熱、上がってないか」
 誠一さんの声で目を覚ましました。昔のことを回想したりしているうちに眠ってしまったようです。慌てて美優の額に手をやると、昨日幼稚園に迎えに行った時と変らないくらい熱くなっていました。急いで解熱剤を飲ませましたがあまり下がらず、夕方には再び美優の体温は跳ね上がりました。夕飯は口さえつけません。
 明日の朝になり美優の状態が急激に良くなるとは思えませんでした。まず私の頭に浮かんだのは、明日のパートをどうするか、ということでした。もし私が明日も休めば、店は間違いなくてんてこまいするでしょう。早く連絡すればするほど、店の方でも代わりの人を探すなど早めの対応が出来るのでいいに決まっているのですが、いつまでも私は連絡出来ずにいました。もしかしたら明日の朝には美優の熱はすっかり下がっているのではないかという希望も消えません。
 既に夕方の六時を回っていました。今さら電話をするのは気まずいというのもあります。だけど私が電話をしなかった理由は、それだけではありませんでした。恥ずかしながら私の中に、一日分のパート代、5600円がひっかかっていたのです。子供の体とお金とどっちが大切かなんて議論には意味がありません。お金が必要なのは、子供のためでもあるのです。
 誠一さんに相談すれば、何を犠牲にしてもどちらかが美優の側にいるべきだと主張するでしょう。実際そうすることが正しいのは私だって百も承知です。そして休みを取るなら契約社員として働く誠一さんではなく、パートの私であるということも。だから、私は仕事の話は口にしませんでした。誠一さんの方からも何も聞いてきません。言うまでもなく当然私が明日仕事を休んで美優の側についていると思っているのでしょう。つまり私は信頼されているのです。
 その信頼を私は裏切ろうとしていました。結局その日私はパート先に電話をしませんでした。電話をしなかったということは、シフト通りに入れると受け取られたでしょう。
 美優の熱が気になりほとんど眠れませんでしたが、翌朝になると、私の希望通り美優の熱は36度台まで下がっていました。昨日と比べると顔色も良く、ついに峠は越えたかとほっと胸を撫で下ろしました。
「朝ご飯、食べられる?」
 私が聞くと、美優は小さく肯きました。完食、とまではいかないまでも、丸二日間ほとんど何も食べていなかった分お腹が空いていたのでしょう、あんぱんとウインナーとミニトマトの朝食を八割方は食べました。
 早朝に出勤していった誠一さんは、すでにいません。
 私は美優の額に手をやり、顔色を確認しました。体温計で体温を測った後でも、実際の手の感覚で確認せずにはいられません。美優の額は、ここ三日間で初めて安心出来る温度にまで下がっていました。もう大丈夫。後は、体力が自然と回復していくのを待つだけ。安堵のため息と共に、急に現実が目の前に迫って来ました。昨日連絡をしなかった私は、今日出勤することになっています。
「美優、ママ今日お仕事なんだけど、ひとりで大丈夫かなあ」
 もし美優が泣いて、ママ行かないでと叫んだなら、私は迷わずスーパーに電話をし休んでいたでしょう。しかし美優は、私から目を逸らすと、しばらく前を向いて考え込んだ後、こくんと肯きました。
「本当に大丈夫?怖くない?」
 私は美優に、まるで祈るような気持でそう尋ねました。美優はそんな私を逆に安心させるように、何度も肯きました。
「大丈夫。テレビ見て待ってるから」
 私は何かにふわりと体ごと持ち上げられたように感じました。昨日からずっと気になって仕方がなかったことがあっさりと解消され、そう、この時私は確かに喜びを感じていました。
 これで気まずい電話をかけなくて済む。
 これで収入が減らなくて済む。
 私は美優を両手で抱きしめると、言いました。
「お昼にはママ、帰って来るからね。それまでテレビを見ていていいから、大人しくしてるんだよ。お熱は下がったから、もう大丈夫だからね」
 最後の一言は美優に対してというより、自分に対して向けた言葉だったかもしれません。ふと、母の顔が浮かびました。こんな時、母がもし美優の側についていてくれれば・・・。そんなことを一瞬でも考えてしまった自分に対し腹が立ちました。母とはあの夏の日以来一度も会っていないし、連絡もとっていません。ただ、銀行の手続きはそのままなので、毎月の母への送金だけは続いています。母の要望通り仕送り額も増やしました。私達の関係はもうそれだけです。これ以上私は母を受け入れることが出来ないし、今後も会うことはないでしょう。
「じゃあ、ママ行ってくるね」 
 不安を引きずりながらも、ドアを閉め、鍵をかけようとした時でした。ドアの向こうから、か細い美優の声が聞こえました。
「ママ、待って」
 手を止めた私は、再びドアを開けました。
「どうした?」
「お腹が痛い」
 美優は青ざめた顔でお腹を押さえています。
「トイレ!トイレに行きなさい」
 思わず語気を強めてしまいました。もうそろそろ家を出なければ間に合わない時間です。美優ははっとした後、怯えたような顔でトイレに入りました。美優がトイレに入っている間も、時間は刻一刻と過ぎていきます。実際にはほんのわずかな時間が、とても長く感じられました。インフルエンザに伴って胃腸炎も発症してしまったのだろうか。だとしたらやはり美優をひとりで置いておくわけにはいかない。やはり今日は仕事を休むべきだったのだ。今から連絡したらあの店長はどんな顔をするだろうか。重い気持ちで携帯電話を取り出した、その時でした。
「あら、どうしたの?」
 背後から、声が聞こえました。とてもよく知っている声です。
 振り返ると、そこに母が立っていました。
「お母さん」
 母の声の調子が以前と変わりないことに拍子抜けしながら、私もまた以前と同じようにそれに応えていました。
 私が着信拒否に設定したことに母は気づいていたはずです。あれ以来、母は私の家に来ることはなかったし、私もそれを当然だと思っていました。
 それなのに、なぜ、母は今日やってきたのでしょう。私が最も母を必要とするタイミングで。
「・・・どうして?」
 私の疑問に対して母が少し照れながら言いました。
「なんか困っている感じだったから」
 はっとした私は、すべてを理解しました。母はいつも私達の家の側まで来ていたのです。そして私達に気づかれぬよう遠くから見守っていたのです。何も持っていなくても、時間だけは限りなくたくさんある母です。私は呆れ、責めたい気持ちもありましたが、今はそんなことを言っている場合ではありません。
「美優が、あの、インフルエンザで、その、熱は下がったんだけど、お腹が痛いって今・・・」
 なぜ私の方がおどおどしてしまうのか分かりません。
「分かった。分かったから、あんたは早く行きなさい」
 そう言って母は私の背中を押すと、アパートの中に入っていきました。
「あ、ちょっと」
 私の口を封じるように、母はにかっとした笑顔を見せます。
「大丈夫。美優のことはちゃんとお母さんが見てるから。あんたは安心して仕事してきなさい」
「あ、でも」
 何か言いたかったけど、もう時間がありませんでした。
 私は大急ぎで自転車に跨ると、職場へと急ぎました。美優のことは、職場に着いてから母に電話し様子を聞こうと思ったところで、母の携帯番号を消去したことを思い出しました。家には電話回線をひいていないので他に母に連絡する手段はありません。ああ、と後悔した瞬間、なぜだか涙が溢れ出て来ました。
 その時、ふと過去のある光景が、私の中に浮かびました。
 それは私がまだ小学校低学年の頃でした。喘息の発作をおこし横たわる私の側に、母はずっとついていました。あの日母はきっと、仕事を休んだのでしょう。あの時の私は苦しくて息をするのが精一杯で、当然そんなことに思いは至りませんでした。
 父との離婚後、母の生活は苦しくなったはずです。子供がいれば就ける仕事も限られるし、お金だってかかるのに、母は私と一緒にいることを望んだのでした。もちろん母の望みの中には、一人ぼっちになりたくないという自分勝手さも含まれていたに違いありません。
 もし私が父に引き取られていれば、経済的には困らなかったでしょうし、大学も中退せずに済んだのでしょう。でも私は当時、毎日家にいて専業主婦をしていた母に、心から依存していたのです。もしあの時母と突然離れ離れになっていたら、私はもっと深い孤独と寂しさを味わっていたでしょう。
 自転車をこぐたびに目の中に入ってくる風に任せて、私は涙を流しました。冷たい風を受けた頬に流れ落ちる涙が、とても温かく感じられました。
 
 アパートのドアの前に立つと、中から楽しそうな笑い声が聞こえてきました。美優の声です。込みあげる安堵をかみしめ、ドアの鍵を開けました。玄関に入るとそこには母がいて、まるで何事もなかったかのような笑顔を向けていました。
「おかえり」
「ただいま。美優は?」
 靴を脱ぎながら、まず私は美優の様子を尋ねます。お昼休みにも一度帰って来たのですが、美優が寝ていたので母に大丈夫だからと促され、すぐに職場に戻ったのでした。
「うん。お腹はゆるいけど、食欲もあるし、元気。熱も上がってないよ」
「良かった」
 ほっと全身から力が抜けました。リビングのテーブルには、広告の裏に描かれた美優の絵が散らばっています。ぱっと目についたのが、美優を真ん中にはさみ、私と母がにこにこ笑いながら手をつないでいる絵でした。
「美優ね、おばあちゃんとお絵かきして待ってたの」
「そう」
 笑いかけてくる美優の頭を撫でながら、私は肯きました。本当は母に伝えたいことがたくさんあるのに、それ以上言葉がうまく出てきません。
 けれども私はもう大人です。してもらったことに対しては、きちんとお礼を言わなくてはいけないと思いました。 私は腰を下ろし母に向き直ると、手を膝に置き頭を下げました。
「今日は本当にありがとう。助かりました」
 すると母は手で払うような仕草をしながら、呆れたように言いました。
「何言ってんのよ。他人みたいに」
 そう、母にとってはそうなのです。家族だから、お礼なんていらない。家族だから、甘えて当たり前。家族だから、許される。だけど、私が母のそんな価値観に、ずっと苦しめられてきたのもまた事実です。
 顔を上げ母の顔を見た私は、母がそれまで見せたことがないような表情をしているのに気づきました。笑顔を作っているのに、なぜか泣いているように見えたのです。ふいに胸を締め付けられたような気がして、苦しくなりました。
「今日はうちで夕飯食べていってよ。せめてものお礼に」
 気がつくと、そう言っていました。
 すると母の顔は一瞬ぱっとほころんだのですが、すぐに申し訳なさそうに陰りました。
「ありがと。でも今日は、近所のお友達の家で鍋パーティーに呼ばれてるのよ」
「鍋パーティ?そんなお友達いたんだ」
「いるわよ。お母さんにだって友達くらい」
 母は笑ってそう言いましたが、私はなんとなく母が嘘をついているような気がしました。母もまた、ひどい言葉で自分を傷つけた娘と距離を置こうとしているのかもしれない。私からそう仕向けたはずなのに、込み上げてくる寂しさにわけが分からなくなります。
「・・・そう。じゃあ、また今度」
 今度、という言葉に対し、母はあいまいな笑みを浮かべたまま何も言いませんでした。
「美優のインフルエンザ、お母さんに移っちゃってたらどうしよう」
 母の帰り際玄関でそうつぶやくと、母はやはりいつものにかっとした笑顔を見せて、言いました。
「そんなこと気にしなくていいよ」

 来月の中旬、毎年ささやかにうちで開いていた母の誕生日会を、例年通りうちで開こうと考えました。この間のお礼も兼ねて、というのが表向きの理由でしたが、凍結された感情を徐々に解凍していきたいという気持ちになったからです。ここ数か月間、美優も誠一さんもずっとそれを望んでいたことを知っていました。私だけが、ひとり頑なに母を拒んでいたのです。
 母を拒む理由を、私は先日誠一さんに打ち明けました。
「もちろん、君の気持ちはよく分かるし、お母さんの事許せないのも分かる。それでもお母さんが君の母親である以上、結局関係を断つことなんてできないんだ。断つことが出来ないなら、断とうとするべきでもない」
 誠一さんの言葉は至ってシンプルではありましたが、私の心を揺さぶる力を持っていました。母との和解。それがここ数日で私の出した結論でした。それはまた、言い換えるならば、現実との妥協と言えなくもないでしょう。互いに寄り添い、ないものを補い合いながら生きていく。持たざる私達にとって、そうすることは生きる術でもあるのです。

 美優が登園出来るようになってから三日後、春菜ちゃんママからラインが入りました。こないだ公園で遊んだ時に出来た、千絵ちゃんママも入った三人のグループラインです。
「美優ちゃん、インフルエンザ大変だったね。美優ちゃんママお疲れ様会も兼ねて、今度三人でランチでもどうですか?」
 絵文字をいっぱいにあしらった文面に春菜ちゃんママの顔と声が重なります。前回会った時は子供達を遊ばせるのが目的でしたが、今回は親だけで会おうというお誘いです。こんな風に幼稚園のママ友からランチに誘われるのは初めてのことなので、緊張する反面、胸がくすぐったいような気持になりました。しかし残念ながら平日は毎日仕事が入っています。同僚の広田さんならこんな時簡単に休みを取るのでしょうが、今月は既に一日休んでいるし、また一日分のパート代が減ってしまうことを考えると、やはりそんな余裕はないと思いました。
 仕事が入っているので、と返信しかけた時でした。急に私の中に、行きたいという気持ちが込み上げてきたのです。仕事、家事、育児。繰り返される日常の中に幸せがないわけではありません。それでもどこかで自分が擦り減っていくような感覚をいつも抱いていました。たまには外でゆっくりとおいしいものを食べる。そんなひと時に癒されたいと願う自分がいました。
 今から申請すれば休みを取れなくもありません。私は一度書きかけたメッセージを消去し、仕事の日程を調整してみます、と返信しました。すると春菜ちゃんママからすぐに返信があり、早速おすすめのお店のホームページのリンクを送ってきました。クリックしてみると、画面に現れたのは子連れでは中々行けないような雰囲気の、子洒落たイタリアンカフェでした。最寄り駅の駅前に新しく出来たお店のようです。ホームページの画面をスクロールしていき、メニューが書かれたところまできた時、私の手が止まりました。
 ランチ1800円より デザート、コーヒー付、と書かれていました。見た目にも華やかでおいしそうな料理の写真が並んでいましたが、1800円と言えば我が家の食費の二日分に相当します。鳥の胸肉や豚の細切れで作る節約レシピを文句も言わず美味しいと食べてくれる誠一さんと美優に対して申し訳ない、やはり断ろうかという気持ちが頭をもたげました。けれど値段を理由に断るのはいかにも我が家の懐事情を吐露するようで恥ずかしく、また多少の見栄も働きました。結局私は、いいね、というスタンプで返信しました。

 店内に入った瞬間、ガラス張りの壁から差し込む日射しの明るさに、一瞬目がくらみました。十二月に入ってからめっきり寒くなり曇天の日が続いていましたが、今日は久しぶりに青空が広がっています。冬のやわらかな光は、私にとって非日常であるその空間を暖かく包み込んでいました。
 配置された家具やインテリアもセンスが良く、見ているだけで心が躍りそうです。こんな素敵なお店だというのに、いつもと変わらない普段着で来てしまったことを恥ずかしく思いましたが、他にないのだから仕方がありません。
 フロアーをぐるりと見回すと、春菜ちゃんママは既に到着していて、窓際の奥の席に腰かけていました。今日は下の子は連れていません。近くに住むというおばあちゃんに預けて来たのでしょう。私に気がつくと、春菜ちゃんママはほっとしたような笑顔で手を振りました。紫色のモヘアのニットが春菜ちゃんにママによく似合っています。私のすぐ後から千絵ちゃんママも店に入って来ました。千絵ちゃんママは先に席についている春菜ちゃんママに向かってまず手ってから、その後で私にも笑顔を向けました。
「素敵なお店だね。さすが春菜ちゃんママ。いいお店知ってる」
 席に着くなり、千絵ちゃんママは春菜ちゃんママを持ち上げます。
「そんなことないよ。たまたま通りかかった時に気になって。一度来てみたかったの」
「美優ちゃんママ、どうした?大丈夫?」
 千絵ちゃんママからそう言われ、私ははっとしました。どうやら無意識のうちに、不自然なくらい店内を眺めまわしていたようです。
「あ、ごめんなさい。こういうお店、あんまり来たことがないから」
 つい正直に答えてしまいました。すると千絵ちゃんママはおかしそうに笑いました。
「美優ちゃんママ、緊張してる。かわいい」
 こんな時、かわいい、というのが決して言葉通りの意味ではないことくらい分かります。私は顔が熱くなりました。
 やがて、ランチコースの料理が運ばれてきました。品の良い皿に、これまた品良く少量盛り付けられています。味はさすがにどれも美味しく、家ではとても再現できない味だと思いました。
「そういえば、春菜ちゃんのランドセルもう届いたんだって?」
 千絵ちゃんママが千絵ちゃんから仕入れた情報を口にしました。すると春菜ちゃんママは嬉しそうににっこりと笑い、はずむような手つきでスマホを操作すると、既にSNSに載せていたらしい写真を千絵ちゃんママに向かって見せました。
「これこれ」
「かわいい!なんか春菜ちゃんぽいね」
 春菜ちゃんぽいというのがどういうイメージなのかいまいちよく分からずにいると、春菜ちゃんママは私にもスマホを見せてくれました。なぜか褒めなくてはという強迫観念にかられながら画面をのぞき込むと、そこにはキャメル色の革地に可愛らしい刺繍が両側面に施されたランドセルが映っていました。春菜ちゃんにはこないだ会ったきりでしたが、春菜ちゃんぽいと形容されたことに対してはなんとなく肯けました。落ち着いていて気品があるランドセル。いかにもお嬢様が持っていそうなものです。
「うわあ、素敵」
 お世辞ではなく、心の底から出た言葉でした。つややかな表面に光が反射したランドセルは、それがまだ誰の手にも触れられていないピカピカの新品であることを物語っています。
「・・・これってもしかして、コードバン?」
 千絵ちゃんママが春菜ちゃんママの顔を伺いながら尋ねました。耳にしたことがない単語が出てきたので、質問してみました。
「コードバンって何?」
「コードバンっていうのは、馬の革で出来たやつ。でもすっごい高いんだよねー」
 私に教えてくれた後、千絵ちゃんママは眉を寄せ、春菜ちゃんママに確認するように言いました。
「うん。まあね。でも六年間使うものだから、やっぱりいいものがいいかなって」
 春菜ちゃんママの口調は、自慢するでもなくあくまで控えめです。
「10万はした?」
 千絵ちゃんママの露骨な質問にさえ、春菜ちゃんママは嫌な顔をせず、
「うーん、まあそれに近いかな」
 と大体の金額を明かしました。
「いいなー春菜ちゃんは。うちなんか全然そんないいのじゃなくて、普通のだよ。しかも結局じいちゃんばあちゃんが迷ってて、注文したのが遅かったもんだから、届くのが三月になっちゃって。もうギリギリ」
 眉間にしわを寄せ困ったような表情を作りながらも、千絵ちゃんママもランドセルを無事注文できて、安堵しているのが分かりました。次は当然、私に質問が来る番です。予想を裏切らず、千絵ちゃんママが私の方に首を向けました。
「美優ちゃんちは、もう注文した?」
 努めて平静を装おうとしたが、それでもわずかに顔が歪んでしまうのを止めることが出来ませんでした。
「ううん。まだ」
 ほんのわずかの間、沈黙が私達を支配しました。驚いたような二人の目線が私に向けられています。
「・・・そっか。じゃあ、オーダーはしないってことか」
 間をおいてから、千絵ちゃんママが事情を察したように言いました。
「既製品でもかわいいのいろいろ売ってるもんね。それに待たずにすぐ手に入るし」
 春菜ちゃんママもそう続けました。きっと私を気遣って言ってくれたのでしょう。だけどもし、我が家がその既製品を買うお金すら捻出出来ずにいることを知ったら、どんな顔をするでしょうか。なぜだかふと笑いたい衝動にかられました。今日は、ランドセルのことは忘れていたかった。だから、ランドセルの話題は出て欲しくなかったのに。
 いくらか気まずくなった空気を取り繕うように、千絵ちゃんママが明るく言いました。
「だけどさ、ランドセルがきれいなのなんて初めだけだよね。上の子見てたって、扱い方酷いもん。だったらリサイクルショップで三千円で買ったって一緒じゃんって感じよ」
 冗談で言ったらしく千絵ちゃんママは声を上げて笑いました。春菜ちゃんママもおかしそうに、そうだよねと同調して笑います。絶対リサイクルショップなんかで買わないくせに。 
 二人の話題はやがてまた上の兄弟の話に移っていきましたが、私は一人別の事を考えていました。
前は確か五千円と言っていたのに、千絵ちゃんママは今三千円と言った。もしかして値下がりしたということなのだろうか。そのことを千絵ちゃんママに確かめたかったけれど、リサイクルショップのことなどとっくに二人のママの頭の中からは消えているようでした。
 二時前になると、春菜ちゃんママと千絵ちゃんママは幼稚園にお迎えに行きました。せっかく仕事を休んだのだから、私も美優をお迎えにしてあげれば良かったのですが、今日はホームクラスでしっかりおやつを食べてきてもらうことにしました。それに私にはどうしても行きたい場所があったのです。
 それは、ランチをしたお店から車でニ十分程の平屋のショッピングモールの一番端にありました。店内に入るまでもなく、私は目的の物をすぐに見つけることが出来ました。なぜならそれは、店のショーウインドウに外からも良く見えるよう展示されていたからです。千絵ちゃんママが話していた通り、値段の札には五千円に×がされて、三千円と書き換えられていました。そのランドセルは、ガラス越しにもよく見れば新品でないことが分かりましたが、きれいに磨かれ、痛んだ部分などは特に見当たりません。ただ丸みのあるふたの部分に、若干の皺があるくらいです。
 それを見た私は、全身の血が騒ぐのを感じました。この値段なら、今すぐにだって手持ちのお金で買うことが出来るのです。中に入ろうと歩き出したその時でした。
 風に運ばれるように、春菜ちゃんママの声が聞こえてきました。
 さすがにランドセル中古は可哀想だよね。
 店に入りかけた私の足が止まりました。結局私は店内に足を踏み入れることなく、そのまま自分の車へと戻って行きました。
 
(おばあちゃん、お誕生日、おめでとう。今日の夜お誕生会をするのでうちに来てください)
 日時は前に伝えていましたが、美優が書いた招待状を今朝パートに行く前に、母のポストに入れました。確認のためでもあります。携帯電話の連絡先から母の番号とアドレスを消去してしまったことは後悔しましたが、こうして紙でやり取りするのも新鮮でなかなか悪くないような気もします。 
 五時にパートを上がった後、私は、そのまま買い物籠を手にし、買い物を始めました。四時を過ぎると、早朝作られたお惣菜におつとめ品のシールが貼られていきます。私は母が好きそうな惣菜を選ぶと、カゴに入れていきました。鶏肉が半額になっていたので唐揚げでもしようと思い、いつもは胸肉を選ぶところ、もも肉を選びました。奮発したといえばそれくらいです。あまり手をかけてお祝いして母がまた頻繁に来るようになっては家計的に困る、だけど先日の感謝の気持ちと仲直りしたいという気持ちは込めたい。そんな私の複雑な心情を映し出すような、手作りと惣菜の組み合わせというメニューで、私は母をもてなすことにしました。もっとも手間暇かけた食事を作るほどの時間がないというのもまた理由ではありましたが。
 幼稚園で美優をホームクラスから迎えた後、家に着くと私は美優に顔を近づけ言いました。
「いい?今日はおばあちゃんのお誕生日会だから、美優もおばあちゃんのことを楽しませてあげてね」
 すると美優は特別な秘密でも打ち明けられたかのように、ぱっと顔を輝かせました。
「うん!じゃあ美優、またおばあちゃんの顔描いてあげる」
 美優は似顔絵を描くのが上手です。そんな美優からのプレゼントは、きっと母を喜ばせるに違いありません。テーブルに座り、嬉しそうに絵を描く美優の姿を見た時、私はふと自分が幸福なのか悲しいのか、分からなくなりました。
 しばらくして誠一さんが帰って来ました。今日はたまたま日勤だったので、誠一さんも一緒に誕生会に参加できます。
「だけど、お母さん、俺がいない方が良かったんじゃない?」
 誠一さんが冗談まじりでそんなことを言いました。
「そんなことないよ。ううん。そんなこと言わせない」
「おいおい、またケンカするなよ。どんな親でもこの世でたった一人きりの母親なんだからさ」
「分かってるって」
 軽く言い返しながらも、誠一さんの言葉は私の胸にすっと響きました。この世でたった一人きりの母親。
「ありがとう」 
「え?今お礼言われるところあったっけ?」
「ううん、ない。でも、やっぱりありがとう」
 驚いたような照れたような顔をする誠一さんの目を見て、やっぱり私はこの人が好きだと思いました。
 幸せの尺度なんて誰にも測れません。それはただ、心で感じるものだから。
 しばらくして、母が現れました。
 以前は呼ばれなくてもまだ明るい夕方のうちにやって来たのに、今日母が現れたのは七時を過ぎてからのことでした。既に料理を並べ終え食卓に座り待っていた私は、母の姿を見て自分がほっとするのが分かりました。
「遅かったじゃない。どうしたの?何か用事でもあったの?」
 互いの距離を保つため、私はこれまであえて母のプライベートを詮索しないようにしてきました。けれど今日は母が、何か重大な隠し事をしているような気がして、尋ねずにはいられませんでした。
「あ、ああ、ちょっとね。ご近所さんに用事があったの」
 ご近所さん、という単語を前回会った時にも聞いた気がします。もし母が何か隠し事をしているとすれば、そこにはどうやらご近所さんが関わっているようだ、と私は推察しました。母は遅れた理由をそれ以上説明しようとはしませんでした。
 目の前に並べられたご馳走を見て、母は大げさではないかと思うくらい喜びました。どんなに質素な食事であっても、私達との食事を何よりも喜びとする母です。
「ありがとうねえ」
 母の声は感極まっていました。毎年母の誕生会をこうして開いていたはずなのに、まるで初めて祝ってもらったかのように。
 そんな母の姿を見て私は、何でもないような顔をしていた母が、実は心の内では、この数か月間の断絶にとても苦しんでいたことを悟りました。
 母がうちに来ていた理由の中には、食費の節約ということも確かにありましたが、それだけではなかったのです。こうして私達とふれ合うひとときこそが、母にとって何よりもかけがえのない時間だったのです。怒りに任せ母からそれを奪った私は、それ以前から母が家に来ることに対し不満を抱いていました。
 我ながら、ひどい娘です。
 もう過去のことは水に流そうと思いました。
 ありがとう、本当にありがとうね、と繰り返す母の声の中に、声にならない別の声が混ざって聞こえた気がしました。
 ごめんね。
 自らの非を認めることが嫌いな母がその言葉を口にすることは、おそらくこれから先もないでしょう。それが母という人なのです。そんな母を、これからは受け入れていこうと思います。
 けれどももし母が私に対して謝罪の言葉を口にしたならば、私は自分がどうなってしまうか分かりません。立っていることが出来ずに足元から崩れてしまうでしょうか。それとも長年喉につかえていた思いが、初めて昇華するのでしょうか。いずれにしてもそれらは想像でしかありません。
 食事の間、頬を上気させた母はかつてないほどに上機嫌でした。ところが食事を終えた頃から急に口数が少なくなり、妙に緊張した顔つきになってきたのです。
「どうしたの、お母さん。どこか具合でも悪いの?」
 私が尋ねると母は、やや上目遣いで私を見た後、まるで重大な告白でもするかのように口を開きました。
「お母さん、実はね・・・」
 心臓がドキンとしました。もしや母は、またもや私を地獄へ突き落すような爆弾を抱えているのではないだろうか。そんな予感が一瞬全身を貫きました。
 私は息を詰め母の言葉の続きを待ちましたが、語り出す代わりに母は、持って来たバッグから一通の封筒を取り出しました。その封筒の表面には、幼いころから数えきれないほど目にしてきた、お世辞にも上手とは言えない母の字体で、「入学祝」と書かれていました。
 私は驚きました。祖母が小学校に入学する孫のために入学祝を渡すーそれは世間ではとてもありふれた光景なのだと思います。しかしそんな光景を、我が家で目にするとは夢にも思っていなかったのです。
 私はとっさに言葉が出てきませんでした。
「受け取って」
 念を込めるように低い声で、母は言いました。けれども私は手を出すことが出来ません。その封筒の周りには、何かの術にでもかかったかのようなオーラが取り巻いているように見えたのです。そうでもない限り、母がそんなお金を捻出できるはずがありません。
 ふと、案外中身は千円程度なのかもしれない、と私は思いました。実際それは通常お祝い金を渡す時に使うような祝儀袋ではなく、何の装飾もないただの真っ白な封筒だったのです。そうか、そういうことか。そうだ、こういうのは金額ではなく気持ちの問題なのだ。そう思いながらようやく封筒を手にした私は、ありがとう、と母に頭を下げました。
 しかし私の予想に反して、その封筒は千円札が一枚入っているにしては厚みがありました。中を確認すると、なんと一万円札が五枚も入っていたのです。それは、世間一般的な入学祝としては決して多すぎる額ではないのかもしれません。しかし、私の母の生活水準に照らし合わせた時、それは明らかに大金でした。
「どうしたのよ?こんなお金。一体どうやって用意したの?」
 露骨な聞き方だとは思いましたが、はっきりさせないわけにはいきません。母はそんな私の言い方が気に障ったらしく、肩をすぼめ少しすねたような顔をしました。
「失礼だね。お母さんだってね、少しずつ貯金していたんだよ。美優が生まれた時に思ったんだ。いつかこの子が小学校に入学する時には、ランドセルを買ってあげなくちゃって」
 私はしばらく何も言うことが出来ず、ただ母の顔を見つめていました。母の中にそんな意識があったことなど、露ほども知らなかったのです。その割には仕送りの額を増やせだなんて言っていることがめちゃくちゃだとは思いましたが、それでも私は嬉しかったのです。これで美優に新品のランドセルを買ってあげられる。そう思った時、安堵と共に胸に熱いものが込み上げてきました。
「本当にいいの?」
 まだどこか、現実ではないような気がして母に尋ねました。
「もちろん。当たり前じゃないか」
 照れ笑いをしながらそう答えた母の顔がわずかに歪んだことに、私は気づいてしまいました。
 もうひとつ確認しなければならないことがあると思いました。
「このお金、本当にお母さんが一人で用意してくれたの」
 どうか、母が肯定しますように。そう願った私の思いは、無残にも打ち砕かれました。 
「本当は一人で用意したかったんだけどね。どうしても少し足りなくて。それで近所に住むお友達に頼んで、ちょっと融通してもらったんだ」
 緩んでいた頬の筋肉が一気に緊張するのが分かりました。
「じゃあ、つまりこの中には、お友達から借りたお金も入ってるってこと?」
 手にした封筒を母に示しながら、私は尋ねました。一度は有難く受け取ったそれが、急によそよそしく感じられます。
「まあ、それは確かにそうなんだけど、別にただで借りたわけじゃないよ」
「ただじゃないって、じゃあ一体どうやって」
 墓穴を掘った母に詰め寄る私は、まるで悪さをした子供を問いただしているみたいでした。
「それは、えっとそのつまり、一緒に食事をしたりとか・・・」
 そこまできてようやく私はピンときました。母の言う友達をずっと女性だと想像していたのですが、相手は男性だったのです。
「どんな人なの?その人」
「どんな人ってねえ。よく散歩中に会う人だよ」
 母とその男性とは、母が自分の家と私の家を行き来する途中で出会ったようです。
「最初は挨拶もせず、すれ違うだけだったんだけどね。何度か顔を合わせるうちに会釈を交わすようになって。一言二言言葉を交わすうちに、会えば並んで歩くようになったんだ。ただそれだけの関係だよ」
「それだけって、一緒に食事もしているんでしょう」
「それは一人で食事をするのが寂しいってその人が言うからさ。奥さんも子供もいなくて、可哀想な人なんだよ」
 寂しいというなら、母も同じだったのではないでしょうか。例え娘に絶交されていても、自分には家族がいる、だからその人とは違う、とでも思っていたのでしょうか。
 母の心の中のことは分かりません。
 ただひとつ、はっきりと分かったことがあります。
 それは、このお金を受け取ってはいけないということです。
 目で合図するように誠一さんと顔を見合わせると、誠一さんも小さく肯きました。
 私は母に向き直り、畳に両手をついて頭を下げました。
「お母さん、ありがとう」
 五万円あれば、美優に新品のランドセルを買ってあげることが出来ます。手垢一つないピカピカのランドセルを背負った美優は、どれほど喜ぶことでしょう。
 私は手にした封筒をそのまま母の方へ差し出しました。
「気持ちだけで、充分だから」
 母はぽかんとした顔で私を見ています。
「どうして?お母さん美優ちゃんのために、一生懸命貯めたんだよ。そりゃあ少しは融通してもらったけど、そのお金だってちゃんと返すつもりで・・・」
「・・・分かってるよ」
「じゃあ、どうして・・・」
「分かってるからこそ、受け取れないのよ!」
 意志に反して、大きな声が出ました。何も分からず、怯えたように私を見る母の顔を見ながら、どこまでも哀れだ、と思いました。母も、私も。
  
「美優、ランドセル買いに行くよ」
 私の呼びかけに、美優はぱあっと顔を輝かせました。
「わーい。やったあ。美優もやっとランドセル買ってもらえる」
 今日は日曜日。工場の都合で、珍しく誠一さんも朝から休みです。
 私達はショッピングモールの片隅に車を停め、その一番端にある店に向かって歩きだしました。まだ空気は冷たく真冬の寒さが続いていますが、街路樹のこぶしの蕾は気がつけば大分大きくなっています。
「見つけたー」
 美優がショーウインドウに向かって走りました。その後ろ姿を見た時、胸にずきんと痛みが走りましたが、そんな痛みからも、もう逃げようとは思いません。
 横では誠一さんが、やはり表情を曇らせています。
「本当に、いいのか。中古のランドセルで」
「いいの。ランドセルなんて、使い始めたらすぐに痛んじゃうんだから。新品だって中古だって、すぐに一緒になっちゃうの。だからそういうところはしっかり節約しなきゃ」
 しばらく黙っていた誠一さんは、頭を下げて言いました。
「ごめんな。俺がもう少し稼げたら、こんな思いさせなくて済んだのに・・・」
「そんなことない。私も美優も、誠一さんの妻と娘でいられて、世界一幸せだよ」
 誠一さんは一瞬はっとしたような顔で私を見ました。それから、
「世界一は大げさだろう」
と言って、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑みました。
 私の顔からもまた、自然と笑みがこぼれていました。こんな風に笑ったのはいつ以来でしょう。
 大切なものっていつの間にか忘れてしまいます。だから時々思い出さなければなりません。
「ママ、このランドセル、美優気に入ったよー」
 ショウウインドウの前に立つ美優の声が耳に届きました。私達は小走りになって、美優の側へと向かいました。  
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