心をなくした私と、あやかし荘の住人たち

ホロロン

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第28話 記憶の断片

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ある日の午後、澪は庭の片隅に座り込んでいた。風に揺れる木々の音、そして遠くから聞こえる鳥のさえずりが、心を落ち着けてくれる。しかし、ふとした瞬間、過去の記憶が顔を出す。麻宮博之との出来事が、澪の胸を締め付ける。

「あの時、私は……」

澪は目を閉じ、深呼吸をした。その深い不安と恐怖、そして裏切りの記憶が、未だに心に根を下ろしている。
そのとき、足音が近づいてきた。振り返ると、白澤が静かに近づいてきた。

「どうした、澪?」

その声が優しく、澪は思わず目を背けた。過去の痛みを感じるたびに、白澤にその弱さを見せるのが怖い。

「……何でもないです」

「本当に?」

白澤は澪の隣に静かに座る。彼の目線が、澪の不安を察しているようだった。

「……白澤さん、私……怖いんです。信じていた人に裏切られて、また誰かに傷つけられるんじゃないかって、怖くて……」

澪の言葉が、胸の奥からひときわ強く湧き上がった。それは、長い間、押し込めていた感情だった。

「でも、もう……それでも、白澤さんには近づきたくて……でも、私は……」

白澤は静かに彼女の手を取った。

「澪、無理に過去を忘れる必要はない。ただ、少しずつその傷と向き合うことだよ。俺は、お前がどんな過去を持っていても、お前を受け入れたいと思ってる」

その言葉に、澪は驚きと共に涙がこぼれた。

「……怖い……まだ、怖いよ。でも、少しずつなら……信じてみてもいいのかな?」

白澤は微笑みながら、彼女の手を握り返した。

「怖い気持ちも、大切にしながら進んでいけばいい。無理に急ぐ必要はないからな」

澪はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。

白澤は、ふと目を伏せた。

「……前に、ある人がイチリンソウの花を好んでいたって言っただろう」

澪は静かに頷いた。

「優しくて、でも、弱さを見せられない人だった。……結局、俺は何もしてやれなかった。あのときのことを、今でも思い出す」

彼の手が、ほんの少し震えているのに気づいた。澪はそっと、自分の手をその上に重ねた。

「白澤さん……」

「澪。今度こそ、俺は間に合いたいんだ。誰かを癒すっていうのは、力を使うことじゃなくて、そばにいることなんだって……お前に教えられた気がする」

それはまるで、過去の自分を赦すような言葉だった。

「……私は、そんなこと、してないのに」

「いや、お前はしてくれた。……その強さに、俺は何度も救われてる。お前は、きっと俺より先にいなくなる。それは……もう、分かってる。
でもな、それでも……お前がここにいて、笑ってくれる今を、見逃したくない。
どうしようもなく、好きだよ。怖がらせたのなら、すまない。でも、伝えずにいることのほうが……もう、怖いんだ」

澪は、そっと目を伏せた。
鼓動の音が、自分のものとは思えないほど大きく響いている。

「……それでも、私は……」

言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。
口にした瞬間、何かが変わってしまいそうで、怖かった。

「……ごめんなさい。今は、うまく言えません」

白澤は、それ以上何も言わなかった。ただ、微かに目を細めて、静かに頷いた。

「いいんだ。それでいい」

その声に責める色はなくて、むしろどこまでも優しかった。澪の心に絡みついていた恐れや不安が、少しだけほどけていく。

沈黙が、穏やかにふたりを包む。
聞こえるのは、風の音と、木々のざわめき、鳥の声。

そっと白澤の手に重ねた自分の手を、澪はほんの少しだけ強く握った。
言葉にできない想いが、手のひらから伝わっていくようだった。

……この人は、きっと、私を急かさない。

「……ありがとう、白澤さん」

それは、小さな、小さな一歩だった。けれど、確かに前を向こうとする、澪のはじめての答えだった。

***

その夜、澪はふと目が覚めた。
窓の外からは月明かりが差し込み、庭の草木が揺れている。

……あの人も、きっと、ずっと苦しんできたんだ。
過去に救えなかった誰かのことを、今も悔いている。

思い出されたのは、震えていた白澤の手。
そして「今度こそ間に合いたい」と言った、真っ直ぐな声。
……私は、どうしたいんだろう。

答えはまだ分からない。でも、あのとき逃げなかった自分が、ほんの少し誇らしかった。

そっと胸に手をあて、澪はまた、まぶたを閉じた。

……今度は、夢の中でも、うなされずにいられる気がした。

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