心をなくした私と、あやかし荘の住人たち

ホロロン

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第31話 心を重ねて

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夜。
眠れずに布団を抜け出した澪は、あやかし荘の裏庭に出ていた。昼間とは違う、しんとした空気。月明かりに照らされた木々の影が、どこか幻想的で、夢の中にいるようだった。
草の上にそっと腰を下ろすと、空を見上げた。深呼吸ひとつ。けれど、心のざわめきは消えなかった。

私……このままで、いいのかな。

あの職場も、家も、名前だけの肩書きも、全部失ってここへ来た。だけど、どこかでまだ、それを「一時的な逃げ場所」だと思っている自分がいた。いつかは戻らないといけない?でも、どこへ?
ふと、気配を感じて顔を上げると、月影の中に白澤の姿があった。

「眠れないのか?」

「……少し」

「俺もだ。……少し、歩かないか」

二人は言葉少なに、夜の庭を歩いた。月明かりが白く、石畳を照らしている。
花の咲き終えた鉢植えの隣に、新芽が顔を出していた。

「まだ……間に合うか?」

白澤が、ぽつりと切り出した。
澪は立ち止まる。胸の奥で、何かが波打った。

「私は……本当に何も持ってないんです。ただ、ここでみなさんと過ごして、少しずつ元気になって……それだけなのに、こんな風に……白澤さんの気持ちをもらっていいのか、分からなくて」

白澤は言葉を探すように、わずかに視線を逸らした。けれど、すぐにまた彼女を見る。

「俺は……力を持つあやかしだ。でも、誰かを本当の意味で癒せたことは、ほとんどない。薬でも術でも、癒えないものがあると、知ってしまったから」

「……」

「けれど、お前といると、少しずつ信じたくなるんだ。俺の言葉が、隣にいるだけで、誰かの支えになれるかもしれないって。……そう思わせてくれたのは、お前だ」

ふと、澪の肩に羽織っていた薄い上着がずれそうになり、白澤がそっと手を伸ばして直してくれた。指先が、彼女の髪に触れる。

「……冷えるな。中に入るか?」

「もう少し、こうしていたいです」

その言葉に、白澤は黙って澪の手に重ねた。迷いなく、ゆっくりと。

「……手、温かいですね」

「お前のほうは、少し冷たいな」

澪は自分の手をそっと返して、彼の手を包むように握り返した。
しばらく、ふたりは何も言わなかった。ただ、静かな夜に、ふたつの鼓動が重なっていく音だけがそこにあった。

「澪。……お前がここにいてくれるなら、俺はきっと、何度でも誰かを守ろうと思える」

「……私も、白澤さんがそばにいてくれるなら……前に進める気がします」

雨はもう止んでいた。雲の切れ間から、月が静かに顔を覗かせる。
心が少しずつ寄り添っていくような、やわらかな沈黙が流れていた。

「……白澤さん」

月の光が、澪の頬をやわらかく照らしていた。手を重ねたまま、彼女は小さく言った。

「私、怖いです。……自分がここにいていいのかも、まだ分からなくて。それでも……白澤さんの隣にいると、どうしようもなく、安心するんです。……でも、私はずっと、何もかも失ってきたから。こんなふうに、また誰かを好きになるのが、怖くて……」

「怖がらなくていい。お前が怖いと感じた分だけ、俺がここにいるから」

白澤は、ゆっくりと澪の手を引き寄せた。月光の中で、彼の瞳は穏やかで、どこまでもまっすぐだった。

「……俺は、お前を失いたくないと思ってる。こんな気持ちは、初めてだ。でも、お前と生きていきたいと、心から思ってる」

言葉の奥に込められた熱に、澪の喉がつまる。

「……好きです、白澤さん」

声が震えていた。けれど、嘘のない想いだった。
白澤の手が、そっと彼女の頬に触れる。その手のひらの温もりが、過去の冷たい記憶をとかしていく。

「澪。……俺も、お前を、心から想ってる」

言葉が終わるより早く、白澤は静かに身を寄せた。
触れるか触れないかの距離で、澪の唇の近くで、そっと囁くように。

「……口づけていいか?」

澪は、瞼を閉じた。答えの代わりに。
次の瞬間、ふたりの唇が重なった。柔らかく、けれど確かに……心ごと、そっと触れ合うように。

「……澪。……これからもそばで、支えたい」

その声が、どこまでも真っ直ぐで、澪の奥に触れる。

「……白澤さん、私もあなたを信じます。これからも、ずっと」

白澤は彼女の手を引いて、そっと自分の胸に抱き寄せた。彼女を強く抱きしめた。
そして、もう一度、唇を重ねた。

「あぁ……これから、二人で一緒に歩いていこう」

澪は、抱きしめられたその静かな腕の中で、確かに世界が変わったことを感じていた。
過去の痛みも、不安も、すべてを受け入れるような、やさしい夜だった。

夜が明ける前の静寂の中で、二人はぬくもりを分け合っていた。言葉よりも確かなものが、そこにあった。
澪は、ここにいていい、と。白澤の隣で、これからも……と。

どこか遠くで、鳥が一声、鳴いた。夜明けはもう、近い。


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