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竜の乙女
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次々にやってくる様々な変化に混乱している。
「どうしましたか、姫様? ご気分がすぐれませんか?」
「いいえ、ミスティ、そんなことないわ」
ミスティは私の横で微笑を浮かべている。
私はなんとなくその顔を見ていられなくて目を伏せた。
再び目が見えるようになってから、世界は色鮮やかさを増している。庭の草木すらまぶしく感じるほど視力があがっている。
自分で集めた美術品を改めて鑑賞しても、それを選んだ自分の感覚が正しかったのだとよくわかる。美術品を求めた時も竜の血が騒いだのだろう。
隣で書類を読んでいるミスティの機嫌だっていつもより簡単に分かる。
――気遣われている。
竜になって初めて、こんなにも気遣われていたのだとわかった。護衛も兼ねているミスティは、私の一挙一動に細やかに反応する。きっと二年前からずっとそうだったのだ。
「少し疲れただけよ」
それは本当だから、ミスティに寄りかかって目を閉じる。
ミスティは紙束を捲りながら、自然な動作で私の頭を引き寄せた。
今日は朝から結婚式の衣装合わせでバタバタとしていた。
本当ならもっと早くに決めてしまわなければならなかったのだが、ミスティが仕事で王都を離れていたり、私の目のことがあったりで、延び延びになっていたのだ。
今日中に決めてしまわなければならないことが多いから、その分時間が長い。それでなくとも立ったり座ったりを繰り返して、足が棒のようだ。
更に慣れない新しい感覚に振り回されて余計疲れるのだが、それは誰にも言えない。
ミスティは衣装合わせの間も、ずっと分厚い書類を読み続けている。
どうやらバロッキー家で大きな仕事を任されているらしいのだ。絵描き以外の仕事をミスティがしているのを見るのは初めてかもしれない。
盗み見れば、伏せた睫毛の一本一本が瞬きをするたびに細かく震えて蠱惑的だ。
つい手を伸ばして触れてしまいそうになる。
竜になる前の私だったら「きれいね」と言って何の気もなく、触れていたかもしれない。
自分が竜であることに慣れるだけでも精いっぱいなのに、同時に番についても考えなければならないのかと思うと途方に暮れる。
出会った時のことを思い出してみても、ミスティを番を選んだ瞬間なんてちっとも心当たりがない。
ミスティが番のはずがないと否定したい気持ちはもちろんある。しかし、今はそれどころではないのだ。
私は今朝ミスティと朝の挨拶を交わしてからずっと、ミスティの赤毛の柔らかさ確かめるのを我慢しているのだから。
(なんて馬鹿馬鹿しい衝動なのかしら)
今日は毛艶を整える為に髪油で撫でつけてあるが、本当はミスティの赤毛は見た目よりもずっと柔らかい。
ふかふかと撫でまわしたら楽しいだろうなとむずむずしながら、疲れた目を休ませるために目を閉じる。
ヒースの執着を馬鹿にしていたはずなのに、自分の身に起きている変に弾んだ感情に疲れさせられる。
肩にあずけた頭から伝わるミスティの体温がすごくしっくりくるのが悔しいような嬉しいような。
(ああ、やっぱりこれが番ってことなのかしら……)
人目があるのをいいことに、恋人を演じる振りをして、ミスティの胴に手をまわす。
視覚だけではなく、嗅覚も聴覚も敏感になったように思う。
ミスティに気づかれないようにしながら、ミスティの服に鼻を押し付けて呼吸する。
――ミスティが愛用している石鹸の香りがする。
ミスティからは、他の貴族男性が好む、香水や燻煙性の香のような強い香りがしないのを好ましく思っていた。代わりにうっすらと絵の具の香りがする。
石鹸の香りばかりだと思っていたがそうではない。繊細な体臭までわかるようになってしまった。
(相手の体臭を嗅ぎ分けるなんて動物じみているわ……でも、すごい充足感。本当に私のミスティって感じ。ヒースがサリから離れようとしないのが分かるわ)
否定したくても、事実が連なって番の証拠になっていく。
「どうしたの、お腹でも痛い? この前ベリル家の変な菓子でも食べたんじゃない? あれ、なんとなく体に悪そうだもんな」
耳元でひそひそと囁く台詞は全く甘くない。
そんなんじゃないわよとキャンキャンと言い返すわけにもいかないので、見えないように胴に絡んだ手で背中を抓り上げる。
「……痛いんだけど。不味い菓子で腹を下した意地汚い姫様はおとなしく休ん、で、ろ、よって」
爽やかな笑みを浮かべて私だけに聞こえるようにそう言うと、抓っている指を絡めとり、握りこむ振りをしてぎりぎりと指の関節に力を入れられる。地味に痛い。
「もう! ミスティったら、どうしてそんな意地悪ばかりを言うの!」
私は頭を上げて、まわりに聞こえるように声を上げた。
私の耳は、少しはなれた所にいる女官たちが「あらあら、仲のよろしいことで」などと囁き合う声を拾う。普通の人間はこの距離で話をされても聞こえはしないだろう。
女官たちには私たちがじゃれ合っているようにしか見えないのだ。
「ふふふ、それは、姫様がお可愛らしいからですよ」
ミスティも書類を置いて、このつまらない遊びに付き合うことにしたようだ。
「そんな機嫌を取るようなことを言っても許さないわ」
(物語のわがままなお姫様はきっとこうやって腰に手をやって婚約者を睨むわよね。そして頭の弱い婚約者はちやほやとお姫様の機嫌を取るのよ)
我儘姫の振る舞いは息を吸って吐くほどに身に馴染むものになってしまっている。
「どうしたら許していただけるのでしょう? こんなにクララベル様に心を捧げているというのに」
大げさな身振りで、ミスティは私の手をとり引き寄せる。
「そうねぇ、キスぐらいしてもらわないと、この悲しみは癒されないわね」
「はぁ?」
一瞬真顔になったミスティが慌てて表情を取り繕って私の頬に手を伸ばす。
「それで許されるなら、何度でも」
謀ったなとばかりに、不機嫌さを隠しながら近づいてくるミスティの目を私は穴が開くほど凝視した。
ミスティの空色の目に走る竜の血の赤が、いくらかでも変化しないかと、気もそぞろに見守る。
もし、ミスティの心が私に少しでもあるのだとしたら、こういう時、少しぐらい竜の血に変化があるのではないのだろうかと期待を込めて。
(――何も、変化が無いわね)
分かっていたが、少し落胆した。すると、そのまま動きを止めているミスティの瞳に、半口を開けた私の間抜けな顔が映っているのに気がついた。
「あ……ええと」
おかしなことを仕掛けてしまった。
慌てて身を離そうとすると、目を細めたミスティに鼻をつままれる。
「姫様、キスをねだるならもう少し可愛らしくしませんと――」
「そうね。どうかしていたわ」
私は憮然として目の前に置かれていた味のする菓子を一つとって貪った。
普通なら聞こえない女官たちの「きゃぁ」とか「まぁ」という黄色い声が耳に入ってきて、赤面せずにはいられなかった。
そうしているうちに、やっと人前での採寸が終わり、ミスティと共に自室に戻る。
演技が終われば、仲睦まじく絡め合った腕を解いて距離を置くのは暗黙のルールのようなものだ。
ミスティは私の腕を無造作に払いのけると、不機嫌そうに長い足を投げ出してソファに座った。
レトが休暇をとっているから、私たちの言い争いを止められる者はいない。
「さっきの、なに? 何の嫌がらせ?」
「別に、何でもないわよ」
「俺、なんかした? あんなに使用人のいるところでキスさせようとするとか、痴女なの? それともカヤロナ家には羞恥心とかは無いわけ?」
本当にどうかしていた。しかし、ミスティの番が自分ではないかと確かめていたなんて、とても言えない。
しどろもどろになりながら、私はつまらない言い訳を始める。
「ああ、もう。別にそういうんじゃないってば。……もうそろそろ本当に夫婦になるのだし、色々慣れておかなくちゃって思って」
「ふーん、人前でのキスとか?」
意地悪そうに口の端を引き上げて私を蔑む。
そうだ、ミスティはいつものミスティだ。変わってしまったのは私のほう。
「そうよ。全然好きでもない人と照れずにキスをするのって難しくない?」
我ながら意地の悪い言い方だ。
明らかに低調になったミスティの機嫌が渦を巻いている。
「まぁ、俺は別にィ」
私をやり込める言い方を思いついたのか、ミスティも意地の悪い笑みを浮かべた。
「別に、何よ?」
「別に、ほら、全然好きじゃない女とだって、十八歳の健康な男なわけだしさ。性格ブスでも、女ってだけでそれなりに柔らかいし、婚約者って名目ならべたべた触っても犯罪にならないし……」
腹の立つポーズで手の平をこちらに向ける。
つまり、性欲の発散のためにはどんな女性でも構わないということだ。
私はもうミスティ以外に触れることも出来ないというのに――正直、ちっとも面白くない。
「なによそれ、それ以前にミスティは竜でしょ? 番じゃなきゃ嫌だとかないの?」
「竜である以前に普通に性欲のある若者だけど?」
「き、気持ち悪いこと言わないでよ」
「番だけとしか情交できないっていうなら、バロッキー家はもっと前に死に絶えてるだろ。バロッキー家で番がいる竜なんて、つい最近の世代の奴だけだからな。ハウザーもルミレスも母親はいない。ほんの少し前まで、娼婦や貧しい家の娘に依頼して産んでもらっていたんだぞ。それしか竜の血を繋ぐ手段がなかったんだ。知ってるだろ?」
ミスティは目を細めて国の差別的な政策を揶揄する。
「ええ、もちろん。カヤロナ家のせいよ。弁護するつもりはないわ」
「自覚があるのは立派な事ですよ、お姫様」
「王族なら当然の事よ」
カヤロナ家はバロッキーに引け目がある。
私は国が竜を迫害して来たことを恥じているし、その血を欲している事も申し訳なく思っている。王族としてバロッキーからの批判は甘んじて受ける覚悟だ。
「まぁ、考えようによっては俺も旧来の流れを汲んでるわけだよね。条件付きでクララベルに子を産んでもらうことになるんだし。商売で頼むわけじゃないから、それに見合った額を差し上げられないのが申し訳ないね」
憎らしいことを言うが、挑発に乗ったら負けだ。
「カヤロナ家の末裔が、先祖の責任を取っても、何にもおかしなことはないわ」
「お前がそれでいいなら、だけどさ」
ミスティはきっと本当に私の番なのだろう。
ミスティはそれを知らずに私の元から去る。
それでいいのだと思う。
私は以前と同じようにミスティの望む自由に協力するだけだ。
国は竜が市井の人々からは迫害されて、貴族の為には利益を生むような残酷な仕組みを作った。
ミスティはカヤロナ国から去って、やっと得るべきだった自由を手にする。好きな絵を描いても咎められない世界を目指すのだ。
私は画家としてのミスティを知りすぎている。
私の夫として、狭い王宮に閉じ込められて貴族の為だけに絵を描き続けることは、画家のミスティを殺すだろう。
ミスティをこの国に閉じ込めておくことはできない。
私の番がミスティだと言うのなら、番としてミスティの自由を喜ぼうと思う。
私はバロッキー家と近づくたび、バロッキーとして生きる葛藤を知る。
いまはバロッキー家の人々の自由を心から望んでいる。
憎まれるべきカヤロナの末裔の私が、ミスティの赤毛に触れても誰に咎められることもない。今は、こうしているだけで幸せなのだ。
(もう暫く――結婚して亡命するまではミスティは私だけのものだから、それでいいわ)
「私がどうのこうのじゃないわ。これは王家の責任よ」
「ふーん、王様はそう思ってないみたいだったけどね」
私が喧嘩に乗ってこないので、ミスティはつまらなさそうにそっぽを向いた。
「どういうこと?」
「娘が好きな男と結婚できてよかった、とか思ってるみたいだったけど?」
「え、嘘でしょ? 父様がバロッキーの男を連れて来いって言ったのよ。でも、本気でそう思っているとしたら、私の演技もなかなかのものだってことね」
「まぁ、人前でキスさせようとするくらいだもんね」
ミスティはどうにかして私を怒らせようとしているのかもしれない。趣味の悪いことだ。
我慢するのも馬鹿馬鹿しくなってきたので、望み通り安売りしている喧嘩を買うことにした。
「まだ言うの?」
「結婚する今頃になって、キスに興味がおありだなんて、よっぽど拗らせた青春時代を過ごされたのですね、姫様」
「生きて動く若い女性を最近になって初めて見たような竜に言われても何も響かないわ。ミスティだって男女交際の経験なんてないじゃない」
「いいんだよ、俺は竜だから! 竜にとって番以外とのキスなんて木の皮に撫でられたようなものさ」
「きっ……木の皮……」
これにはさすがにカチンときた。
「まぁ、してみたいっていうんだったら、いくらでも練習させてやるけどさ」
「そんなに得意げならしてみなさいよ! へたくそって笑ってやるわ!」
勢いで立ち上がって、いつもは見上げているミスティの憎々しい頭をがっしりと両の手で掴んだ。
そうまでして、さっきまでずっととらわれていた赤毛の存在を思い出した。
わしわしと頭を撫でまわして、その髪を堪能する。
髪油で少ししっとりしているが、柔らかくて指に絡めるとくるりと毛先がゆれる。
その手触りに、心臓が狭い箱の中に閉じ込められたような苦しさを覚える。
「あ……」
(そうだ、この睫毛にも触れたかった)
思い出して、手はふさがっているので長い睫毛の先に唇を寄せて触れさせてみると、目を守るためかミスティはぎゅっと目をつぶる。
「うぁっ、なにするんだよ!」
ミスティは私を突き飛ばして、顔を覆って長い体をくの字に折って、さらに後退る。
「ふぅん……やっぱり睫毛も柔らかいのね」
姫としてお行儀がいいとは言えないが、柔らかな睫毛の感触を思い出して舌なめずりをする。
ミスティの嫌がりっぷりは、思った以上に私の心を満たした。
「おまえ今日、本当におかしいからなっ!!」
「なんですか、お二人はまた喧嘩ですか?」
私達がぎゃんぎゃんと言い争っていると、レトが部屋に入って来た。
騎士服ではない、装飾の少ない動きやすそうなドレスを着ている。
「レト、今日はまだ休暇中ではなかったの?」
「はい、そうですが、ラッセル家にいても暇なので、姫様の様子をうかがいにまいりました」
「まだ休んでいてもよかったのに」
「体がなまります。それに、ミスティさんの困り果てた声が聞こえてまいりましたので」
「……そういうのじゃないわよ」
私が言い訳がましくもごもごと言うと、ミスティもその話題には触れたくないようで話を別に持っていく。
「ノーウェルは?」
「仕事に戻りましたよ。今度はヒースさんについていくとかで」
「なんか、御免なさい。俺が余計な仕事を増やしたのかも」
「いいえ、ノーウェルはいつもあの通りなのです。ご心配なく。それで何の騒ぎですか?」
さすがに今の事をレトに説明できない。
私達は顔を見合わせた。
「何でもないんです」
「何でもないわ」
レトは大きなため息をついた。
「どうしましたか、姫様? ご気分がすぐれませんか?」
「いいえ、ミスティ、そんなことないわ」
ミスティは私の横で微笑を浮かべている。
私はなんとなくその顔を見ていられなくて目を伏せた。
再び目が見えるようになってから、世界は色鮮やかさを増している。庭の草木すらまぶしく感じるほど視力があがっている。
自分で集めた美術品を改めて鑑賞しても、それを選んだ自分の感覚が正しかったのだとよくわかる。美術品を求めた時も竜の血が騒いだのだろう。
隣で書類を読んでいるミスティの機嫌だっていつもより簡単に分かる。
――気遣われている。
竜になって初めて、こんなにも気遣われていたのだとわかった。護衛も兼ねているミスティは、私の一挙一動に細やかに反応する。きっと二年前からずっとそうだったのだ。
「少し疲れただけよ」
それは本当だから、ミスティに寄りかかって目を閉じる。
ミスティは紙束を捲りながら、自然な動作で私の頭を引き寄せた。
今日は朝から結婚式の衣装合わせでバタバタとしていた。
本当ならもっと早くに決めてしまわなければならなかったのだが、ミスティが仕事で王都を離れていたり、私の目のことがあったりで、延び延びになっていたのだ。
今日中に決めてしまわなければならないことが多いから、その分時間が長い。それでなくとも立ったり座ったりを繰り返して、足が棒のようだ。
更に慣れない新しい感覚に振り回されて余計疲れるのだが、それは誰にも言えない。
ミスティは衣装合わせの間も、ずっと分厚い書類を読み続けている。
どうやらバロッキー家で大きな仕事を任されているらしいのだ。絵描き以外の仕事をミスティがしているのを見るのは初めてかもしれない。
盗み見れば、伏せた睫毛の一本一本が瞬きをするたびに細かく震えて蠱惑的だ。
つい手を伸ばして触れてしまいそうになる。
竜になる前の私だったら「きれいね」と言って何の気もなく、触れていたかもしれない。
自分が竜であることに慣れるだけでも精いっぱいなのに、同時に番についても考えなければならないのかと思うと途方に暮れる。
出会った時のことを思い出してみても、ミスティを番を選んだ瞬間なんてちっとも心当たりがない。
ミスティが番のはずがないと否定したい気持ちはもちろんある。しかし、今はそれどころではないのだ。
私は今朝ミスティと朝の挨拶を交わしてからずっと、ミスティの赤毛の柔らかさ確かめるのを我慢しているのだから。
(なんて馬鹿馬鹿しい衝動なのかしら)
今日は毛艶を整える為に髪油で撫でつけてあるが、本当はミスティの赤毛は見た目よりもずっと柔らかい。
ふかふかと撫でまわしたら楽しいだろうなとむずむずしながら、疲れた目を休ませるために目を閉じる。
ヒースの執着を馬鹿にしていたはずなのに、自分の身に起きている変に弾んだ感情に疲れさせられる。
肩にあずけた頭から伝わるミスティの体温がすごくしっくりくるのが悔しいような嬉しいような。
(ああ、やっぱりこれが番ってことなのかしら……)
人目があるのをいいことに、恋人を演じる振りをして、ミスティの胴に手をまわす。
視覚だけではなく、嗅覚も聴覚も敏感になったように思う。
ミスティに気づかれないようにしながら、ミスティの服に鼻を押し付けて呼吸する。
――ミスティが愛用している石鹸の香りがする。
ミスティからは、他の貴族男性が好む、香水や燻煙性の香のような強い香りがしないのを好ましく思っていた。代わりにうっすらと絵の具の香りがする。
石鹸の香りばかりだと思っていたがそうではない。繊細な体臭までわかるようになってしまった。
(相手の体臭を嗅ぎ分けるなんて動物じみているわ……でも、すごい充足感。本当に私のミスティって感じ。ヒースがサリから離れようとしないのが分かるわ)
否定したくても、事実が連なって番の証拠になっていく。
「どうしたの、お腹でも痛い? この前ベリル家の変な菓子でも食べたんじゃない? あれ、なんとなく体に悪そうだもんな」
耳元でひそひそと囁く台詞は全く甘くない。
そんなんじゃないわよとキャンキャンと言い返すわけにもいかないので、見えないように胴に絡んだ手で背中を抓り上げる。
「……痛いんだけど。不味い菓子で腹を下した意地汚い姫様はおとなしく休ん、で、ろ、よって」
爽やかな笑みを浮かべて私だけに聞こえるようにそう言うと、抓っている指を絡めとり、握りこむ振りをしてぎりぎりと指の関節に力を入れられる。地味に痛い。
「もう! ミスティったら、どうしてそんな意地悪ばかりを言うの!」
私は頭を上げて、まわりに聞こえるように声を上げた。
私の耳は、少しはなれた所にいる女官たちが「あらあら、仲のよろしいことで」などと囁き合う声を拾う。普通の人間はこの距離で話をされても聞こえはしないだろう。
女官たちには私たちがじゃれ合っているようにしか見えないのだ。
「ふふふ、それは、姫様がお可愛らしいからですよ」
ミスティも書類を置いて、このつまらない遊びに付き合うことにしたようだ。
「そんな機嫌を取るようなことを言っても許さないわ」
(物語のわがままなお姫様はきっとこうやって腰に手をやって婚約者を睨むわよね。そして頭の弱い婚約者はちやほやとお姫様の機嫌を取るのよ)
我儘姫の振る舞いは息を吸って吐くほどに身に馴染むものになってしまっている。
「どうしたら許していただけるのでしょう? こんなにクララベル様に心を捧げているというのに」
大げさな身振りで、ミスティは私の手をとり引き寄せる。
「そうねぇ、キスぐらいしてもらわないと、この悲しみは癒されないわね」
「はぁ?」
一瞬真顔になったミスティが慌てて表情を取り繕って私の頬に手を伸ばす。
「それで許されるなら、何度でも」
謀ったなとばかりに、不機嫌さを隠しながら近づいてくるミスティの目を私は穴が開くほど凝視した。
ミスティの空色の目に走る竜の血の赤が、いくらかでも変化しないかと、気もそぞろに見守る。
もし、ミスティの心が私に少しでもあるのだとしたら、こういう時、少しぐらい竜の血に変化があるのではないのだろうかと期待を込めて。
(――何も、変化が無いわね)
分かっていたが、少し落胆した。すると、そのまま動きを止めているミスティの瞳に、半口を開けた私の間抜けな顔が映っているのに気がついた。
「あ……ええと」
おかしなことを仕掛けてしまった。
慌てて身を離そうとすると、目を細めたミスティに鼻をつままれる。
「姫様、キスをねだるならもう少し可愛らしくしませんと――」
「そうね。どうかしていたわ」
私は憮然として目の前に置かれていた味のする菓子を一つとって貪った。
普通なら聞こえない女官たちの「きゃぁ」とか「まぁ」という黄色い声が耳に入ってきて、赤面せずにはいられなかった。
そうしているうちに、やっと人前での採寸が終わり、ミスティと共に自室に戻る。
演技が終われば、仲睦まじく絡め合った腕を解いて距離を置くのは暗黙のルールのようなものだ。
ミスティは私の腕を無造作に払いのけると、不機嫌そうに長い足を投げ出してソファに座った。
レトが休暇をとっているから、私たちの言い争いを止められる者はいない。
「さっきの、なに? 何の嫌がらせ?」
「別に、何でもないわよ」
「俺、なんかした? あんなに使用人のいるところでキスさせようとするとか、痴女なの? それともカヤロナ家には羞恥心とかは無いわけ?」
本当にどうかしていた。しかし、ミスティの番が自分ではないかと確かめていたなんて、とても言えない。
しどろもどろになりながら、私はつまらない言い訳を始める。
「ああ、もう。別にそういうんじゃないってば。……もうそろそろ本当に夫婦になるのだし、色々慣れておかなくちゃって思って」
「ふーん、人前でのキスとか?」
意地悪そうに口の端を引き上げて私を蔑む。
そうだ、ミスティはいつものミスティだ。変わってしまったのは私のほう。
「そうよ。全然好きでもない人と照れずにキスをするのって難しくない?」
我ながら意地の悪い言い方だ。
明らかに低調になったミスティの機嫌が渦を巻いている。
「まぁ、俺は別にィ」
私をやり込める言い方を思いついたのか、ミスティも意地の悪い笑みを浮かべた。
「別に、何よ?」
「別に、ほら、全然好きじゃない女とだって、十八歳の健康な男なわけだしさ。性格ブスでも、女ってだけでそれなりに柔らかいし、婚約者って名目ならべたべた触っても犯罪にならないし……」
腹の立つポーズで手の平をこちらに向ける。
つまり、性欲の発散のためにはどんな女性でも構わないということだ。
私はもうミスティ以外に触れることも出来ないというのに――正直、ちっとも面白くない。
「なによそれ、それ以前にミスティは竜でしょ? 番じゃなきゃ嫌だとかないの?」
「竜である以前に普通に性欲のある若者だけど?」
「き、気持ち悪いこと言わないでよ」
「番だけとしか情交できないっていうなら、バロッキー家はもっと前に死に絶えてるだろ。バロッキー家で番がいる竜なんて、つい最近の世代の奴だけだからな。ハウザーもルミレスも母親はいない。ほんの少し前まで、娼婦や貧しい家の娘に依頼して産んでもらっていたんだぞ。それしか竜の血を繋ぐ手段がなかったんだ。知ってるだろ?」
ミスティは目を細めて国の差別的な政策を揶揄する。
「ええ、もちろん。カヤロナ家のせいよ。弁護するつもりはないわ」
「自覚があるのは立派な事ですよ、お姫様」
「王族なら当然の事よ」
カヤロナ家はバロッキーに引け目がある。
私は国が竜を迫害して来たことを恥じているし、その血を欲している事も申し訳なく思っている。王族としてバロッキーからの批判は甘んじて受ける覚悟だ。
「まぁ、考えようによっては俺も旧来の流れを汲んでるわけだよね。条件付きでクララベルに子を産んでもらうことになるんだし。商売で頼むわけじゃないから、それに見合った額を差し上げられないのが申し訳ないね」
憎らしいことを言うが、挑発に乗ったら負けだ。
「カヤロナ家の末裔が、先祖の責任を取っても、何にもおかしなことはないわ」
「お前がそれでいいなら、だけどさ」
ミスティはきっと本当に私の番なのだろう。
ミスティはそれを知らずに私の元から去る。
それでいいのだと思う。
私は以前と同じようにミスティの望む自由に協力するだけだ。
国は竜が市井の人々からは迫害されて、貴族の為には利益を生むような残酷な仕組みを作った。
ミスティはカヤロナ国から去って、やっと得るべきだった自由を手にする。好きな絵を描いても咎められない世界を目指すのだ。
私は画家としてのミスティを知りすぎている。
私の夫として、狭い王宮に閉じ込められて貴族の為だけに絵を描き続けることは、画家のミスティを殺すだろう。
ミスティをこの国に閉じ込めておくことはできない。
私の番がミスティだと言うのなら、番としてミスティの自由を喜ぼうと思う。
私はバロッキー家と近づくたび、バロッキーとして生きる葛藤を知る。
いまはバロッキー家の人々の自由を心から望んでいる。
憎まれるべきカヤロナの末裔の私が、ミスティの赤毛に触れても誰に咎められることもない。今は、こうしているだけで幸せなのだ。
(もう暫く――結婚して亡命するまではミスティは私だけのものだから、それでいいわ)
「私がどうのこうのじゃないわ。これは王家の責任よ」
「ふーん、王様はそう思ってないみたいだったけどね」
私が喧嘩に乗ってこないので、ミスティはつまらなさそうにそっぽを向いた。
「どういうこと?」
「娘が好きな男と結婚できてよかった、とか思ってるみたいだったけど?」
「え、嘘でしょ? 父様がバロッキーの男を連れて来いって言ったのよ。でも、本気でそう思っているとしたら、私の演技もなかなかのものだってことね」
「まぁ、人前でキスさせようとするくらいだもんね」
ミスティはどうにかして私を怒らせようとしているのかもしれない。趣味の悪いことだ。
我慢するのも馬鹿馬鹿しくなってきたので、望み通り安売りしている喧嘩を買うことにした。
「まだ言うの?」
「結婚する今頃になって、キスに興味がおありだなんて、よっぽど拗らせた青春時代を過ごされたのですね、姫様」
「生きて動く若い女性を最近になって初めて見たような竜に言われても何も響かないわ。ミスティだって男女交際の経験なんてないじゃない」
「いいんだよ、俺は竜だから! 竜にとって番以外とのキスなんて木の皮に撫でられたようなものさ」
「きっ……木の皮……」
これにはさすがにカチンときた。
「まぁ、してみたいっていうんだったら、いくらでも練習させてやるけどさ」
「そんなに得意げならしてみなさいよ! へたくそって笑ってやるわ!」
勢いで立ち上がって、いつもは見上げているミスティの憎々しい頭をがっしりと両の手で掴んだ。
そうまでして、さっきまでずっととらわれていた赤毛の存在を思い出した。
わしわしと頭を撫でまわして、その髪を堪能する。
髪油で少ししっとりしているが、柔らかくて指に絡めるとくるりと毛先がゆれる。
その手触りに、心臓が狭い箱の中に閉じ込められたような苦しさを覚える。
「あ……」
(そうだ、この睫毛にも触れたかった)
思い出して、手はふさがっているので長い睫毛の先に唇を寄せて触れさせてみると、目を守るためかミスティはぎゅっと目をつぶる。
「うぁっ、なにするんだよ!」
ミスティは私を突き飛ばして、顔を覆って長い体をくの字に折って、さらに後退る。
「ふぅん……やっぱり睫毛も柔らかいのね」
姫としてお行儀がいいとは言えないが、柔らかな睫毛の感触を思い出して舌なめずりをする。
ミスティの嫌がりっぷりは、思った以上に私の心を満たした。
「おまえ今日、本当におかしいからなっ!!」
「なんですか、お二人はまた喧嘩ですか?」
私達がぎゃんぎゃんと言い争っていると、レトが部屋に入って来た。
騎士服ではない、装飾の少ない動きやすそうなドレスを着ている。
「レト、今日はまだ休暇中ではなかったの?」
「はい、そうですが、ラッセル家にいても暇なので、姫様の様子をうかがいにまいりました」
「まだ休んでいてもよかったのに」
「体がなまります。それに、ミスティさんの困り果てた声が聞こえてまいりましたので」
「……そういうのじゃないわよ」
私が言い訳がましくもごもごと言うと、ミスティもその話題には触れたくないようで話を別に持っていく。
「ノーウェルは?」
「仕事に戻りましたよ。今度はヒースさんについていくとかで」
「なんか、御免なさい。俺が余計な仕事を増やしたのかも」
「いいえ、ノーウェルはいつもあの通りなのです。ご心配なく。それで何の騒ぎですか?」
さすがに今の事をレトに説明できない。
私達は顔を見合わせた。
「何でもないんです」
「何でもないわ」
レトは大きなため息をついた。
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