含羞 〜在りし日の戀〜

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うれしい心に夜が明けた

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 学校を出ると、塾に行きます。自分に見合った短大か大学への進学を考えているので、そんなに偏差値の高いところは目指していません。だから、本当なら、塾に行くのも無駄なように思っています。
 理解できているのかどうかも定かでない勉強は、わたしの中にどれほどの知識を与えてくれているのでしょうか。塾に通わせてくれている親には悪いと思いながらも、無駄なことをしている徒労感は拭えません。わたしは学校以外で勉強しなくても合格できる大学しか受験するつもりはありません。自分の身の丈はわきまえているつもりです。だから、塾にいる時間は学校以上にぼーっと過ごしています。
 なぜ、わたしは進学しようとしているのかという疑問も湧いてきます。そもそも進学したいのかという疑惑すら感じています。
 なんのための進学なのでしょう。
 わたしには明確ななにものも持ち合わせてはいないのです。
 講義も終わり、外に出るとあたりはすでに暗くなっていました。九月も半ばになるとさすがに夜の訪れも早くなります。空は濃紺で所々星が瞬いています。
 田舎とはいえ、まがりなりにも繁華街なのでそこそこの人出はあります。時刻は七時過ぎです。この日の講義はいつもより早めに終わりました。このまままっすぐ家に帰ってもよかったのですが、気になるのは文化祭のことです。この時間ならまだ近くのケーキショップが開いています。参考になればと、少し寄っていくことにしました。家とは逆方面になりますが、自転車なので五分もかかりません。とはいえ、帰りが遅くなるのも嫌なので、すぐに自転車を走らせました。
 昼の暑さを残しながらも、風は優しく頬を撫でます。季節が変わっていく実感がありました。
 お小遣いに余裕があったら、お菓子をひとつくらい買って帰ろうなどと考えながら自転車を走らせます。ガラス張りの店内から、灯りが漏れているのがわかります。お店の前に着き、歩行者の邪魔にならないところに自転車を止めます。いざ、お店に入ろうとドアに手をかけようとしたところで、思わず立ち止まってしまいました。そして、慌ててお店の前から離れて、姿を隠したのです。店内から死角になるところに身を潜めて、改めて、中をのぞいてみました。
 店内には数人の客がいました。その中に私服姿の雨森さんがいました。学校と違って無造作な感じで髪を結んでいます。Tシャツにスキニーな七分丈のジーンズ、シンプルな装いが大人っぽく見せていました。
 わたしはため息にも似た吐息をつきます。
 やはり見惚れてしまいます。ただ、商品を選んでいるだけなのに、その伏し目がちな表情が、とても美しく、新しい発見となって心の中に刻みつけられるのです。何気なく髪の毛をかきあげたりする仕草は、形のよい耳、細くしなやかな指を気づかせてくれます。
 いつまでも見続けられそうな気がします。ここに来た本来の目的を忘れそうになります。
 しかし、不意にお店のドアが開き、お客さんが出てきました。お店の影に隠れて、中の様子を窺っているわたしを訝しげに一瞥して、通り過ぎていきました。
 このままでは明らかに不審者です。今日のところは一旦帰るべきか、それとも意を決してお店に入るべきか。
 雨森さんが立っている位置は、焼き菓子が陳列された棚の辺りでした。ちょうどわたしが参考に見ていこうとしていた場所です。
 どうして雨森さんが? という疑問が浮かびました。けれど、雨森さんだって、甘いものを食べたくなることもあるはず、などとひとり納得していました。
 校外で、ふたりきりならば、話しやすいかもしれない、そう思い、お店に入ることにしました。
 ドキドキします。
 普段学校では、ほとんど無視されている状態です。プライベートだからといって、会話をしてくれるでしょうか。わたしはいつもと変わらずに接することができるでしょうか。
 店内に入ります。
「いらっしゃいませ!」
 わたしを迎える店員の挨拶。
 雨森さんは顔をあげることはありませんでした。店内に入ったわたしに気づくこともありませんでした。
 熱心に焼き菓子の棚を見ています。その中のひとつを手に取り、ひっくり返しました。パッケージ後ろの原材料を調べているようにも見えます。
「雨森さん、コンバンハ」
 雨森さんの隣に並び、思い切って声をかけました。
 すると、声をかけられたことによほど驚いたのか、慌てたようにわたしに顔を振り向けました。
 その瞬間の雨森さんの顔。
 大きく目を見開いて、口をぽかんと開けた様は、まるで無防備な幼子のようです。
 わたしは雨森さんの驚き方に驚き、同じように口をぽかんと開けていました。
 雨森さんは次第に顔を赤くして、悪戯が見つかって気まずくなったように顔をそらしてしまいました。
 わたしの胸がキュンと高鳴ります。とても貴重な尊いものを見せつけられたようでした。
 この人は、こんな表情も持っているんだ。
 考えてみれば、当たり前のことです。学校ではいつも笑わず、取り澄まして、高慢に見えていますが、中身はわたしと同じ女子高生なのです。プライベートでまでも、気を抜かずに過ごせるわけがありません。
 わたしはさっきまでの緊張が解けていくのを感じました。
 目をそらす雨森さんに可愛いという気持ちを持つ余裕さえ生まれました。『美しい、綺麗』ではなく、『可愛い』——。雨森さんを今までになく身近に感じられました。今なら、同じ立ち位置で会話をできそうに思えました。
「クッキーが好きなの?」
 雨森さんが手にしているのは、プレーンのクッキーが入った小袋でした。
「そういうわけじゃ——」
 まだ少し、動揺を抑えきれていない様子がとても微笑ましいのです。なにより、わたしの問いかけに答えてくれたのです。わたしは自分の気持ちが高揚していくのを感じます。
「このお店はなんでも美味しいよ。でも、都会のほうだと、もっと美味しいお店がたくさんあるんだよね」
 わたしは笑顔で話しかけます。
「わたしはフィナンシェがお薦めかな。バターたっぷりで、しっとりしてて、でも、個人的にはカヌレが好きなの——」
 わたしは笑顔で、一方的に話し続けます。
「ああ、そう、ケーキも美味しんだよ。季節のショートケーキとか、チーズケーキなんかの定番も、タルトやミルフィーユも——」
 わたしは笑顔で、雨森さんを手招きして、ショーケースの前まで連れていきます。
「シュークリームは絶品! 皮がパリッとしていて、クリームは季節によって変えていて、ほら、今の時期だとマロンクリーム——」
 わたしは笑顔で、ただ、薄っぺらな情報を喋り続けていました。普段受け身で聞き役のわたしが、自分からこんなにも、話し続けているなんて。舞い上がっているとしかいえない状態でした。
 だから、わたしとは逆に落ち着きを取り戻し、代わって困惑の表情を浮かべ始めた雨森さんに気が付けませんでした。
「風間さん! だっけ?」
 少し大きく、キツめの声で、わたしのお喋りは遮られてしまいました。それでも、わたしは笑顔だけは貼り付けたままだったと思います。
「わたし、そろそろ帰らなきゃいけないから。風間さんもあまり遅くなると、家の人が心配するよ」
 言い含めるように、やんわりとした口調でした。
 今度はわたしが顔を赤くする番でした。やってしまったと後悔して、自分で自分の行動が信じられなくて、愕然として、きっと泣き笑いのような表情になっていたと思います。
 わたしがほとんど棒立ちになっている間に、雨森さんは手に持ったままだったクッキーのお会計を済ませていました。
 出ていこうとする雨森さん。ドアを押し開けています。
 いいの? このまま帰らせてしまって、いいの? もっと肝心な、言いたいことを言ってないんじゃないの?
 ドアが閉まります。雨森さんの姿が見えなくなります。
 わたしは慌てて後を追いかけます。
 まだすぐそこを雨森さんは歩いています。
 早く言わないと、背中がどんどん遠ざかっていきます。
「雨森さん!」
 わたしの呼びかけに、雨森さんは振り返ってくれました。
 わたしは精一杯の笑顔を作ります。どんな時にでも、笑っていられるのが、わたしの唯一の取り柄なのですから。
「いっしょに、クッキーを作ってください!」
 雨森さんが唇を噛んだように見えました。そして、なにも答えることなく、わたしに背を向けて歩き去っていきます。
「また、明日! 学校で!」
 わたしは手を振ります。今夜の、この出来事を印象付けるように、大きく、長く、振り続けます。
 雨森さんの中に、なにか残すことはできたでしょうか。そして、なにか届けることはできたでしょうか。

 家に帰り着いたわたしは、自己嫌悪と後悔と驚愕と羞恥心の混沌の中にいました。自室のベッドに横たわり、右に左に身悶えして転げ回っていました。
 わたしって、あんなことのできる性格だったのだろうかと、今更ながら驚いているのです。
 雨森さんの前で、冷静でいられない、そんな自分を自覚し始めていました。
 ケーキショップで雨森さんの子供のような表情を見た瞬間、わたしの胸はときめき、喜びに打ち震えました。いつも澄ました顔しか見せない人が、あまりにも無防備な顔をさらけ出したのです。わたししか知らない顔です。わたしだけの特別な顔です。
 もっと知りたいと思いました。澄ました顔、少し怒った顔、困った顔、そして今夜初めて知った恥ずかしそうな顔——。
 まだまだわたしの知らない顔があります。そうです。
 笑顔——。
 どうすれば、笑顔を見せてくれるでしょうか。
 もちろん、わたしだけに向けられた、満開の笑顔です。
 想像するだけで、胸が締め付けられる思いがします。
 その時も冷静でいられるでしょうか。理性が飛んでしまいそうな気がします。
 雨森さんとわたしの距離は、少しは縮まったのでしょうか。なんとなく、そんな気がして、たまらないのです。
 体が火照ってきます。
 明日の朝、やはり挨拶をしようと思います。おはようと、笑顔で挨拶をしようと思います。
 返されなくてもいい。わたしが、その短い挨拶のあいだだけでも、雨森さんとつながっていたいだけなのですから。

 朝、雨森さんはいつも始業ギリギリに登校してきます。
 誰とも言葉を交わすことも、顔を見ることもなく、自分の席につきます。もちろんわたしの隣の席です。
 わたしの周りにはいつものメンバー、美也乃さん、沙月ちゃん、雪穂が囲んでいます。お気に入りのネット動画などの話で盛り上がっていると、程なくして、始業のチャイムがなりました。みんな自分の席に戻っていきます。
 席につきながらも、先生が来るまでは教室のざわめきはおさまりません。
 わたしはなるべく自然な笑顔で、雨森さんに声をかけます。
「おはよう」
 窓の外に向いていた雨森さんの顔が、わたしのほうに向けられました。
 怒っているのかな、とも取れる表情でした。
 形の良い、薄紅色の唇が動き、聞き取れるか取れないかの声を発します。
「……おはよう」
 わたしは笑っていたと思います。愛想笑いでもなく、ごまかし笑いでもなく、本心からの喜びの、満面の笑顔を見せていたと思います。
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