含羞 〜在りし日の戀〜

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秋の日は、からだに暖か 手や足に、ひえびえとして

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 週末ともなると、ショッピングモールは家族連れや学生で賑わっています。娯楽の少ない街なので、お出かけ場所の選択肢はかなり限定されます。
 複合施設なので、食品売り場、アパレル、雑貨、フードコート、ゲームセンター、ここにくれば大抵のものは揃います。暇つぶしには最適の場所なのです。
 かくいうわたしも、常連のひとりなのですが。
「こんなところあったんだね」
 日曜日の午前、玲花とわたしは駅から少し外れたところにあるショッピングモールに来ていました。
 待ち合わせは玲花のマンションの前にしました。わたしの家からだと、ショッピングモールの通り道になるのです。わたしは自転車を玲花の住むマンションの駐輪場に置かせてもらって、そこからはふたり連れ立って、歩きました。
 秋もかなり深まり、肌寒い日が続くようになりました。
 玲花は秋らしい、白と黒を基調にしたシックな装いです。白いシャツに黒のパンツ、その上に単調にならないように濃いベージュのジャケットをラフに羽織っています。全体的に大人っぽいというか、中性的な印象でどきりとしてしまいます。第一印象で、大学生か社会人と見間違えたことを、ずいぶん前の出来事のように思い出しました。
 一方、わたしはといえば、玲花とは対照的です。襟元にリボンのついたピンクのシャツ、カーキ色のサロペット、寒さ対策にパーカーを羽織った、やけに子どもっぽい装いになってしまいました。
 昨夜から、クローゼットをひっくり返し、服選びに心血を注いでみたつもりでいました。しかし、素材が大切なのだということを、痛感させられました。
 それでも、わたしには気合の入った服装でした。姿見の前で、洋服を合わせながら、ずいぶんと悩みました。玲花と釣り合いが取れるように、玲花に見栄えよく見てもらえるように、あわよくば、可愛いなんて言ってもらえるように——。
 そこまで考えた時、誰が見ているわけでもないのに、顔を真っ赤にしていました。
 まるで初デートみたい——。
 他の友達と出かける時以上の、高揚感があります。洋服選びに、こんなに時間をかけることなんてありません。玲花と出かけることが楽しみで、でもその先にあるなにかを待ちわびているような感覚でした。
 マンション前で玲花と合流した瞬間、思わず漏れ出た小さな吐息。
 ふたりで出かける実感と、こんな日を待っていたと幸せな気分になりました。
 そして、ショッピングモール。
 目的はクッキーの材料を買うことですが、わたしたちは女子高生です。洋服や雑貨の店も気になります。
 だから、まずは洋服を見て回ることにしました。
 わたしは主にお小遣いでも買えるファストファッションがメインです。でも、玲花はとみると、明らかにわたしよりワンランク上のブランドを身につけています。ファッションに疎いわたしですが、さすがに生地や仕立ての上品さはなんとなくわかります。
「玲花の洋服って、ブランドものだよね? どこのブランドなの?」
 有名なファストファッションの店を物色しながら、何気なく尋ねてみました。
 すんなり答えてくれるかと思ったのですが、少し間がありました。さっきまで楽しげに言葉を交わしていたのにと、不審に思って玲花の様子を窺います。ブランドを知らずに着ているわけでもなさそうです。わからないのではなく、答えたくない、そんな感情が読み取れました。
 それでも、ぼそりと呟くように、答えてくれました。
「rain in the forest ……」
 そのブランドなら、わたしでも知っています。ジェンダーレスな洋服をコンセプトに、高校生には、若干手の出しにくい価格帯のブランドです。可愛い洋服もあるのですが、落ち着いた感じの大人っぽい洋服を扱っています。
「へえ、だから、大人っぽくて、ちょっと中性的なんだ」
「性別に関係なく着こなせるっていうのが、売りだからね」
 玲花が着ていることで、とても興味が湧いてきました。けれど、あいにく、このモールへの出店はありません。
「残念。いっしょに見てみたかったな」
「別にたいしたブランドじゃないからいいよ。——それより、日向にはこういう可愛いのが似合ってる」
 差し出されたのは、フリルのついたワンピース。さすがに少女趣味でしょ、とつっこみたくなるものでした。
「わたしって、そんなに幼く見えるかな?」
「幼い感じじゃなくて、可愛いって感じかな」
 玲花はにっこりと微笑みます。
 わたしはどきりとしてしまいます。真正面から言葉と笑顔を投げかけられて、冷静でいられるほど、玲花には慣れていません。
「そろそろお昼にしようか」
 わたしは照れ臭さを隠すように、話題を変えました。わざとらしすぎたのか、玲花はくすりと小さく笑います。
 こんな場面では、どんな表情を作ればいいのかわかりません。いつもの愛想笑いだったり、ごまかし笑いだったり、それらはなにか違うような気がします。
 ただ、今のわたしの顔を玲花には見られたくありません。きっと嬉しくて、頬の緩んだ状態でにやにやしていたと思うから。
「あっち、フードコートあるから」
 わたしは先に立って歩き出しました。
「待って!」
 呼び止める玲花に思わず振り返ります。次の瞬間、玲花の右手がわたしの左手を掴んでいました。そのまま手を繋ぐ格好になります。
「な、なに?」
「はぐれちゃうよ」
 子どもじゃあるまいしなにをと、笑い飛ばすには、わたしは玲花の手のひらの熱を意識しすぎていました。その場から動けず、硬直状態です。視線は繋がれた手に固定されています。
「どうしたの? 早く行こ。わたしもお腹すいちゃった」
 何事もないように、当たり前のように、玲花は歩き始めます。握る手に少し力を込めて、わたしを促すように。
 どうしてこの人は、わたしを驚かせる行動ばかりするのでしょうか。先日の学食のことも今回のことも、親しくなってまだ日が浅いのに、距離の縮め方が早すぎます。人付き合いが苦手なわたしは、その早さについていくのがやっとで、追いつくことすらかなわないのです。わたしは翻弄されるばかりで、どう対処すればいいのか、わからないままなのです。
 いつしか、わたしの中は、玲花でいっぱいになっていました。こうして、会話を重ね、行動を共にすることによって、さらに玲花がわたしの中を満たしていくのです。なんだか、常に玲花のことを考えているような気がします。
 初めて出会った時から、玲花には興味を持っていたけれど、それがもっと顕著になったようです。
 翻弄されながら、それはけして嫌な感覚ではなく、むしろ次を待っている、そんな感覚なのです。
 あーんしたり、手を繋いだり、その次に来るものはなに?
 次はどんなことをして、わたしを驚かせてくれるの?
 どきどき、わくわく、時に心臓をきゅっとつかまれて、わたしはなにも考えられなくなります。
 新しい玲花を発見するたびに、喜びが湧き上がります。
 玲花しか見えません。
 玲花のことしか考えられません。
 自分が玲花と共にいることに、甘やかな幸福しか感じられませんでした。

 フードコートは日曜のお昼時ということもあって、かなり混雑していました。わたしたちはその場で食べることを諦め、テイクアウトすることにしました。
 田舎のショッピングモールらしく広大な駐車場に面したベンチで食べることにしました。
 そこもそれなりに混んではいましたが、なんとか席を確保することができました。
 晴れているとはいえ、吹き抜ける風は冷たく、日陰にあるベンチは肌寒いくらいでした。
 けれど、玲花となら平気でした。ふたりの肩が触れ合うくらいの近さで並んで座ります。それぞれ買ったものをシェアしあいながら、他愛もない会話を交わし、食事をすすめます。
 食べ終わったら、どこを回ろうかと話は進んでいきます。当初の目的であったクッキーの材料の買い出しなど、二の次三の次、もしくは忘れていたといっても、言い過ぎではありません。
 今、この時間が楽しすぎたから。
 幸せすぎたから。
 洋服の次はアクセサリーだということで、雑貨屋を回ることにしました。ネックレス、イヤリング、ブレスレット、ブローチ。お互いに相手に似合うアクセサリーを選び合って、結局なにも買わずに次のお店を回ります。
 バッグ、帽子、メガネ、このモールにあるファッション関係のお店はすべて回ったのではないでしょうか。
 今までファッションにあまり関心がなかったわたしでした。ただただ楽しくて、はしゃぎ回っていました。特に玲花に似合うものを選んでいる時など、自分でも意外なほど熱心に選んでいました。同じくらい熱心に選んでくれる玲花の様子が、わたしの気持ちをさらに高揚させていました。
 次はゲーセンです。ここも家族連れと学生でごった返していました。
 UFOキャッチャーではなにも取れず、レースゲームではビリ争いを繰り広げ、格闘ゲームでは操作がよくわからず、それでも、わたしたちはなにが楽しいのか、笑い転げていました。
 ゲーセンの最後はお約束のプリントシールです。極端にデカ目と細身になった自分たちに吹き出してしまいます。でも、素敵な記念です。初めてふたりで出かけた思い出の品です。
「あ、本屋もあるんだね」
「うん、寄ってく?」
「ちょうど読み終わりそうだから、新しい本が欲しかったの」
「そういえば、休み時間は本を読んでいるもんね」
 本屋に入り、文庫本の棚の前に来ました。
「どんなジャンルを読むの?」
「手当たり次第かな。文学もミステリーもSFも恋愛ものも、なんでも。たまには時代小説だって読むし」
 普段、活字は国語の教科書ぐらいしか読まず、漫画ばかりのわたしには耳の痛い話でした。
「わたしだって、漫画も読むよ」
 玲花がフォローのつもりなのか、話を合わせてくれます。玲花が最近読んだ漫画は映画化もされた人気作品でした。それならわたしも読んだことがあります。それに、沙月ちゃんたちと映画も観ました。
 共通の話題が見つかったことで、わたしはまた嬉しくなります。文庫本のコーナーで漫画の話をするのもどうかと思えましたが、そんなことお構いなく、しばらく話し込んでしまいました。
「一番好きなのはこの人。——小説ではないんだけど」
 玲花は棚の間をゆっくりと移動します。まるで最初からその棚のその場所にあるのを知っていたかのように、なんの迷いもなく一冊の本を抜き取りました。はい、と手渡されたのはさすがのわたしでも見たことがある、作者の白黒のポートレートが表紙の文庫本でした。
 黒のソフト帽を被り、少年のような印象があります。真っ直ぐにこちらを見ているようでいて、どこか遠くを見つめる瞳は、懐かしいような、不安なような、どこか不安定なものをはらんでいるようでした。
『中原中也全詩集』
 わたしはぱらぱらと本をめくります。小説と違って、空白の多いページ。単純に読みやすそうだなと、安易に考えてしまいます。
「あ、これ、教科書で読んだことがあるかも」
 わたしの言葉に反応して、玲花が手元を覗き込んできます。
 一気に玲花との距離が縮まりました。本を覗き込む玲花をわたしが見下ろすような体勢になります。斜め後方からの、普段見ない角度でした。玲花は落ちかかる髪をかきあげます。形の良い耳と、細いうなじが目の前に現れました。目のやり場に困り、視線は文庫本の上をさまよいます。けれど、ふうわりと立ち昇る玲花の香りが、わたしの視線をうなじに引き戻します。
 頭はくらくらしているのに、視覚と嗅覚だけが鋭敏になっているようでした。
「『一つのメルヘン』」
 玲花が唐突に朗読を始めます。少し体を起こして、わたしの耳元に口を寄せて、囁くように——。
「秋の夜は、はるかの彼方に、
 小石ばかりの、河原があつて、
 それに陽は、さらさらと
 さらさらと射してゐるのでありました。

 陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
 非常な個体の粉末のやうで、
 さればこそ、さらさらと
 かすかな音を立ててもゐるのでした。

 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、 淡い、それでゐてくつきりとした
 影を落としてゐるのでした。

 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
 今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
 さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……」
 詩の内容など、まったく頭に入りません。少し低めの玲花の声が——、声だけがわたしの頭の中をいっぱいにします。くらくらとふわふわとじんじんが、一緒になって流れ込んできました。
 時折耳にかかる玲花の吐息が、さらに惑わせます。気を抜くと、足元から崩れ落ちて、しゃがみ込みそうでした。
「素敵なうただよね。わたしもこのうたは好き」
 さすがにこれ以上、玲花の声を近くで聞き続けるのには耐えられませんでした。わたしは一歩体をずらし、そうだねと答えるのが精一杯でした。
 玲花の目が訝しげに細められます。
「だいじょぶ? 顔が赤いけど」
「だいじょぶ!」
 わたしは笑顔を取り繕って、小さく叫びます。わたし自身が今の気持ちを理解不可能です。それを玲花に説明するなんて、さらに不可能です。
「でも——、さっき外で食事したのが悪かったのかな。けっこう寒かったし、話し込んじゃったし」
 玲花の右手が当たり前のように、わたしのおでこに当てられました。右手は少しひんやりとして、柔らかい感触は、とても心地いいものでした。でも、心地いいことはいいのですが、せっかく距離を置いたのに、さらに密着されてしまいました。また一段階、顔の熱が上昇するようでした。
 わたしはまた一歩、玲花との距離を取りました。
「ははは、ほんと、だいじょぶだから。ここって暖房が効きすぎてるのかな。ちょっとのぼせたのかも——」
 苦しい言い訳でしたが、これ以上玲花に心配もかけたくありません。それに、わたしの心と体が耐えられそうにもありません。
 玲花は少し不安そうな表情を残しながらも、なんとか納得してくれました。
「じゃあ、出ようか」
 玲花は自然な感じでわたしの手を取り促します。
「え、本を買うんじゃないの?」
「いいの。これ以上ここにいたら、日向がもっとのぼせちゃうから」
 玲花は少し力強くわたしの手を引きました。
「ちょっと、待って」
 振り向く玲花にまだ手の中にある『中原中也詩集』を示します。
「そうだね、戻さないと」
 わたしはふるふると首を振ります。
「えーと、買おうかなって」
 わたしはなぜか少し照れていました。声も心なしか小さくなって、なにも恥ずかしがることなんてないはずなのに——。
 玲花はぱっと明るい表情を見せました。
「日向も気に入ってくれたんだ」
 玲花はすごく嬉しそうでした。レジで会計をしている間も、終始笑顔を見せていました。
 気にいるもなにも、詩の内容なんて、まったく残っていませんでした。ただ、玲花の声だけが心地よい音楽のように、いつまでもわたしの中で鳴り響いているのです。
 この本は、わたしにとって記念のようなものです。
 初めて玲花と出かけた記念。
 初めて玲花と手を繋いだ記念。
 初めて玲花の朗読を聴いた記念。
 とにかく、この本は玲花とわたしの初めての記念なのです。
「読み終わったら、お気に入りの詩を教えてね。わたしのも教えるから。ほんと、中也って素敵な詩がたくさんあるの」
 活字のある本といえば教科書くらいしか読まないわたしです。小説ならまだしも、詩という高尚なものを理解できるのか、自信がありません。
 でも、玲花がこんなにも喜んでくれているのです。その期待には応えたいと思います。
 気の重さと、後ろめたさと、そして、玲花とのつながりを持てたことの嬉しさ。
『中原中也詩集』
 この本を読めば、玲花のことがもっとわかるようになるのでしょうか。

 気がつくと、すでに七時を過ぎていました。
 モール内をほとんど制覇して、合間にちょこちょこ休憩を挟んで、本来の目的も忘れて遊び回っていたのだから、当然の結果といえます。
「遅くなっちゃったね」
「うーん、この時間からだと、焼き上がるのがかなり遅くなるから、今日は無理かな」
 そんな会話を交わしながら、とりあえず、クッキーの材料は買い揃えておくことにしました。「それに台所はお母さんが使ってるだろうし」
「そうか。残念だけど仕方ないね」
 玲花は本当に残念そうにため息をつきます。そんな玲花を見ていると、わたしまで落ち込みそうになります。確かに無計画に行動していたわたしたちです。それでも、あんなにも楽しかったのは事実で、落ち込んで終わりなんてありえません。
「でも、今日は今日で楽しかったよ」
「そうなんだけど——」
 玲花もわたし同様、はしゃぎすぎたことに、少し後悔しているようでした。
 わたしは玲花を元気付けたくて、笑いかけます。
「また、来週、約束しよ」
 玲花が顔を上げます。表情がわかりやすく明るくなりました。
「そうだね、今日だけじゃないもんね」
 わたしは玲花の言葉を噛み締めます。
 今日だけじゃない——。
 玲花とわたしの関係は明日も明後日も続いていくのだと信じさせてくれる言葉。
 そして、積み重なる約束たち。
「じゃあ、来週はしっかり時間を決めて、計画的に動かなくっちゃ」
「楽しみ——。待ち遠しいな」
 柔らかに微笑む玲花の瞳に、どきりとします。
「玲花は気が早いよ。今日はまだ終わってないよ」
「うん、まだ終わってない——」
 玲花はなにかを訴えかけるように、わたしを直視します。見つめ合うような形になったわたしたちですが、先に視線を外したのはわたしからでした。
 玲花の潤んだ瞳がなにを訴えかけているのか、その想いの端っこが見えた気がしたのです。
 そして、わたしの想いは——。
「で、でも、わたしも楽しみだな。また、二人だけで過ごせるんだ——」
 口に出してから、少し大胆な、誤解されかねない発言だったかなと思いました。
 それならそれでかまわない。二人だけで過ごしたいのは本心なのだから。
 玲花を見ると、心なしか頬を朱色に染めていました。わたしと同じことを考えているのでしょうか。
 その姿はとても可愛らしく、抱きしめたくなるほどでした。
 やっぱり、ずるい人です。
 綺麗と可愛いが同居しているなんて、見惚れてしまうのも仕方ありません。
 わたしの頭の中も心の中も、玲花のことで溢れそうなほどいっぱいになっています。なのに、まだ、玲花が足りていません。
 玲花と過ごしたい。
 玲花を独占したい。
 玲花を知りたい。
 玲花に知ってほしい。
 玲花に触れたい。
 玲花に触れてほしい。
 玲花を——。
 この気持ちに名前をつけるのはとても簡単なことなのかもしれません。
 それでも今は、戸惑いや不安、それに一歩を踏み出す怖さがあります。
 だから、今はこのままで——。
「そうだ、日向!」
 突然、玲花がなにか名案を思いついたように、顔を輝かせました。
「来週、わたしのうちでクッキーを作らない?」
 わたしは一瞬理解が追いつきませんでした。
「え、でも——」
 それだけを口にするのが精一杯でした。
「いいじゃない。遠慮することなんてないよ」
「迷惑じゃ——」
「わたし、ひとり暮らしだし、誰にも気兼ねなんていらないよ」
「調理道具はあるの?」
「そんなの、このあと買いに行けばいいよ。キッチングッズを扱ってるお店もあったよね」
「そもそも、オーブンがあるの?」
「その点はだいじょぶ!」
 曰く、最初から家具、家電付きの物件だったと。
 さすがに高級マンションです。わたしの想像の上を行きます。家賃を聞くのが末恐ろしくもあります。
 でも、そんな高級マンションに、女子高生をひとりで住まわせるなんて、玲花の親はどんな仕事をしているのか気になります。
 話はとんとん拍子に決まりました。
 来週の土曜日、玲花のマンションでクッキーを作ること。
 わたしの親が許せば、お泊まりもあり。
 わたしたちは材料を買い揃えると、今度はキッチングッズのお店へと向かいました。ボウルやゴムベラ、麺棒など必要な道具類を買って、ようやく帰路につきました。
 こんなにも楽しくて嬉しくて、幸せでいいのでしょうか。玲花と普通に話せるようになって、いろんなことが上手くいきすぎているような気がします。
 お昼をいっしょに食べたり、時にはいっしょに帰ったり。そして、いっしょにお出かけしたり——。
 来週にはいっしょにクッキーを作って、その後は、玲花の家にお泊まり——。
 ——お泊まり。
 考えると、すごく意味深な言葉に思えてきました。友達が泊まりにきたり、友達の家に泊まりに行ったり、そんな経験はありません。夕食前にお暇するのが基本です。それに、親や兄弟がいます。
 でも、玲花はひとり暮らしで、それは玲花とふたりきりということを意味していて、誰にも邪魔されないということで——。
 邪魔って、なにを邪魔されるというのでしょうか。
 冷静になれと、自分に言い聞かせます。
 女の子が女の子の家に泊まりにいくだけです。これが男女なら問題もあるでしょうが、女の子同士ならやましいことはなにもないはずです。
 なぜやましいなどと思い浮かんだのか、もう何もかも理解不能です。
 頭は茹ったように、ぽっぽっと熱くなっています。考えれば考えるほど、沼にはまっていきそうです。
 なるべく考えないと心に誓って、玲花と夜道を歩きます。
 わたしが無口なのは、いつものことです。自分から話題を振るのが苦手だからです。
 ふたりの靴音が、重なり合います。こつこつと響く音がやけに大きく耳に届きます。歩く速度がゆっくりになっているようです。
 けれど、心臓だけは速く鼓動しています。
 意識は玲花に握られた手に集中しています。玲花はさりげなく、当然のように、わたしの手を取りました。人通りもまばらな、夜の帰り道で、モールの雑踏の中とは違って、秘密めいていました。
 夜になってさらに冷え込んできました。北風が吹き、私たちは温め合うように、寄り添って歩きました。玲花の手は熱いくらいにわたしの手を握りしめて、そのことばかりに意識が集中してしまいます。
 玲花のマンションが見えてきました。もうすぐ、今日が終わってしまいます。
「楽しかったね」
 玲花がわたしの顔を覗き込むように微笑みかけます。本当に楽しんでくれたんだというのがわかる笑顔でした。
 わたしはこくりと頷きました。
 あと数歩歩けば、マンションの入り口に着いてしまいます。
 わたしは足を止めます。
「どうしたの?」
 玲花が尋ねます。
 わたしは答える代わりに、玲花の手を強く握り返すのでした。
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