含羞 〜在りし日の戀〜

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盲目少女《めくらむすめ》に教へたは

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 次の日の放課後、わたしは美也乃さんと雪穂といっしょに帰ることになりました。
 わたしは玲花とお話しできるようになってから、二人で帰るのが当然になっていました。
 その日はすでに授業中に、雪穂から手紙が回ってきていました。『たまにはいっしょに帰ろ。みゃーちゃんも寂しがってるよ』
 特に断る理由もなく、久しぶりのことなので、了解の手紙を返しました。
 そのあと玲花にも手紙を回します。雪穂たちといっしょに帰ること、よかったら玲花もいっしょにどうかという誘い。
 玲花の返事は予想通りでした。『遠慮しておくね。わたしは先に帰るから気にしないで。友達との付き合いも大切にしてね』
 授業が終わると玲花はバイバイと言い残して、すぐに教室を出て行きました。
 あまりにも颯爽とした去りかたで、また疎遠になってしまうのではないかと不安になるほどでした。
 友達との付き合いも云々などと、自分はどうなのかとも思います。せっかくみんなと交流を持てるいい機会でもあると思ったのですが、玲花自身にはまったくその気はないようです。このままわたし以外の人と親しくするつもりもないのでしょうか。
 ではなぜ、わたしだけに親しくしてくれる理由がわかりません。それを聞くには、まだまだ時間と勇気が必要でした。
 ファミレスに行くことになりました。秋になり新作の栗を使ったパフェが出ているというのです。
 ファミレスまでの道中、雪穂がほとんど喋り続けていました。話の内容も、テレビやネット動画、ファッションやコスメ、当たり障りのない話題ばかりでした。
 美也乃さんもわたしも、たまに相槌を打つくらいで、あまり口を開きません。
 それに、ここに沙月ちゃんがいないのも気になります。以前なら、四人で行動するのが当たり前だったのです。
 教室を出る寸前に、沙月ちゃんと目が合った気がしましたが、すぐにそらされてしまいました。怒っているようでもありました。ここ最近はずっとそうです。朝の挨拶が減っていきました。わたしに近寄ることもなく、自分の席から動こうとしないのです。沙月ちゃんを怒らせるようなことをした憶えはなく、わたしは戸惑いしかありませんでした。
 それでも、ひとつ心当たりがあるとすれば、やはり玲花と行動を共にするようになったことでしょうか。確かに、沙月ちゃんは玲花を嫌っています。だからといって、怒ったりするのは、何か違うのではないかと、思うのです。
 ファミレスに着きました。ボックス席に案内されて、美也乃さんと雪穂が並んで座り、わたしは二人と向き合う形で、一人で座りました。これからの成り行きを予感させる配置です。
 三人とも、限定メニューの『和栗のモンブランパフェ』を注文しました。
 パフェを待つ間にも、雪穂は喋り続けていました。
 パフェが届きました。雪穂は相変わらず喋り続け、美也乃さんは黙って食べ続け、わたしは雪穂の話に笑いながら頷いていました。雪穂の話は楽しいし、興味を惹かれるものがありました。
 一見賑やかなようにですが、微妙に取り繕ったような空虚さがありました。
 美也乃さんの様子、沙月ちゃんの不在、雪穂の話題は場つなぎ的なものにしか感じられませんでした。
 次第に居心地の悪さを感じ始めていました。
 わたしは玲花のことを思い起こしていました。今頃なにをしているのだろう、そう考えると、なんとなく気持ちが落ち着くようでした。きっと本を読んでいることでしょう。あまり外出をしないようなので、真っ直ぐに家に帰り、本を読んでいる姿が思い浮かびました。
 そういえば、昨日買った『中原中也詩集』はまだ読んでいませんでした。ぱらぱらとページをめくるばかりで、内容など入ってこないのです。モールで過ごした時間、帰り道での時間、そして次の土曜日の約束。そんなことたちを考えていると、集中して本を読むことができなかったのです。
 でも、あるページで手が止まりました。
 蝶々の詩。
 そして、再生される玲花の朗読。
 さらに、玲花の息遣い、体温、香り。
 思い出しただけでも、胸が苦しくなります。
 だけど、イヤじゃない。それどころか、何度でも体験したい。
 玲花に会いたい、自然にそんな気持ちが浮かびました。この居心地の悪さは玲花がそばにいないからなのかもしれません。
 不意に帰りたくなりました。このファミレスを出て、玲花の家まで行き、会いたくなりました。
 雪穂は喋り続けています。美也乃さんは黙々と食べ続けています。雪穂の話題がコンビニスイーツのことに映る頃には、わたしの笑顔も引き攣り始めていたかもしれません。
 つまんない……。
 バニラアイスを口に運びながら思ったのは、そんなことでした。
 隣に玲花がいないだけで、満たされないものを感じます。どきどきするなにかが足りないのです。
 わたしは美也乃さんをちらりと見ました。すました顔で栗の甘露味を口に運ぶ姿に、反感を憶えました。
 そろそろ、わたしを誘った理由を話してほしいものです。わざわざ授業中に手紙まで回して誘ってきたのです。何か話したいことがあるはずでした。
 察しの悪いわたしでもわかります。話の内容も、きっと玲花のことだと思います。教室内では深く聞けなかったことを、この機会に聞こうとしているのでしょう。
 けれど、このまま無為な時間を過ごすようなら、パフェを食べ終えたら帰ろうと思いました。塾だとか、母の用事を思い出したとか、理由はなんでもいいのです。
 何度目かのチラ見で、美也乃さんと眼が合いました。美也乃さんは小さく息をついて、手に持ったスプーンを置きました。
 始まる、と感じ、わたしもスプーンを置きます。
 雪穂は口を閉ざすと、スマホをいじり始めました。
 はたして、美也乃さんが口を開きます。
「沙月のことなんだけど——」
 てっきり玲花の話題が振られると思っていたわたしは、肩透かしをくらった気分でした。けれど、沙月ちゃんの不在も気にはなっています。
「どうしていっしょに来なかったかわかる?」
 わたしは少し考えてみましたが、やはり思いつくのはひとつしかありません。
「怒ってる?」
「じゃあ、どうして怒ってると思う?」
「わたしが玲花と仲良くしはじめたから?」
 美也乃さんと雪穂がぴくりと反応しました。
「へえ、雨森さんのこと、玲花って呼んでるんだ?」
 そのどこか含みのある言い方に、少しいらっとします。わたしが玲花のことをどう呼ぼうと勝手です。それにわたしたちだって、下の名前で呼び合っています。
「それは、玲——、雨森さんがそう呼んでほしいって言ったから。それに、わたしも日向って呼ばれてるし、仲良くなったから、自然だと思う……」
「いいわよ。今更取り繕わなくても。ただ、わたしがあなたのことを日向って呼ぶようになったのって、もう少し時間がかかったと思って」
 遠回しに責められているような不快感があります。
「わたしは最初からみゃーちゃん、ヒナって呼んでたよ」
 雪穂がおどけたように割り込んできました。
「雪穂はトクベツ」
 美也乃さんはばっさりと雪穂を切り捨てましたが、この場の雰囲気が弛緩されました。
 少しゆるいやりとりに、ささくれていた気持ちが癒されます。だからと言って、緊張感がすべてなくなったわけではありません。
「それで、沙月のことなんだけど。どうして怒ってると思ったの?」
「——沙月ちゃんは玲花のことを嫌ってるから、わたしが玲花と仲良くなったのが気に入らなくて、怒ってるんだと思う……」
 わたしの返答に、美也乃さんは小さくため息をつきました。
「やっぱり、気づいていないんだ……」
「ま、想定内、でしょ」
 と、雪穂。
「でもね、せっかく文化祭でお膳立てしてあげたのに」
「さっちゃんはいい雰囲気だったって言ってたけど」
「予想以上に鈍かったか……」
「だから、そこは想定内って」
「沙月も押しが弱かったんじゃない? いざとなると、強気になれない子だから」
「そうだねー、いざとなるとヘタレっぽい」
「そこまで言うことないんじゃない?」
「みゃーちゃんも思ってるくせに」
 ふたりのやりとりにわたしは取り残された気分でした。
「ねえ、気づいてないとか、想定内って、なに? それに、沙月ちゃんがヘタレって?」
「ああ、ごめんね。ヘタレは確かに言いすぎた」
 美也乃さんは論点が外れたところを謝罪してきました。「沙月が怒っているっていうのは、当たってる。でも、それだけじゃないの」
 さっきの雪穂との会話の疑問は置き去りに、いきなり本題です。
「それだけじゃないって——?」
「そ、どっちかというと、そっちの理由のほうが大きいの」
 雪穂も大きく頷いています。
「そっちって、なに?」
 わたしはさっきから、疑問ばかりを口にしているようでした。
 わたしが気づいていないこと、沙月ちゃんがこの場にいない理由。
「それは、日向が自分で気がつくか、沙月が日向に直接話すか、とにかく、第三者のわたしからはなにも言えないの」
 美也乃さんの口調からは、はぐらかしやごまかしの様子は感じられませんでした。真実、当人同士の問題だと、告げられているようでした。
 助けを求めるように、雪穂に視線を向けました。
「わたしからもなにも言えないな。これ以上言ったら、サッちゃんから大きなお世話って叱られちゃう」
 パフェを口に運びながら、申し訳なさそうな顔をします。
「それも玲花のことが関係してる?」
 ふたりとも頷きます。でも、それ以上はなにも答えてくれません。
 なんだか、わたしだけ除け者にされたようで、寂しさと同時に、腹立たしさが湧き上がってきました。
 こんな気持ちになるなら、誘いを断ればよかったとまで思ってしまいます。そうすれば、玲花とどきどきとした、蜜のような時間を過ごせたはずでした。
「沙月ちゃんの気持ちはわかんないけど、わたしが玲花と仲良くするのって、そんなに嫌なことなのかな?」
 声が震えていないか、自信がありません。このままでは、わたしの今までいた場所が、なくなってしまうかもしれません。
 小さなグループの末席にいて、なんとなくグループの輪の中に存在していました。あまり発言はせず、ただ笑って相槌を打って、みんなに同調していました。意見を求められても、不器用を装い、みんなが好むであろう返答ばかりしていました。
 人見知りに加えて、人付き合いが苦手、そんなわたしが笑顔だけで、クラスの中で浮かないように、どこかのグループの一員として、かろうじて存在できていました。
 わたしにとって、大切で貴重で、守りたい場所、それを今、失くそうとしているのかもしれません。
 でも、それでもなお、それ以上に失いたくないものが、できました。
「わたしは今まで通り、みんなとも仲良くしていきたいし、玲花とも仲良くしてほしい。今日だって、玲花を誘ってみたんだよ。断られちゃったけど——」
 わたしは口にして、気づきました。
 玲花が誘いを断ってほっとしている。
 玲花がこの場にいないことが、逆に嬉しい。
 玲花が転校してきた当初は、クラスのみんなと早く仲良くなってくれればいいと思っていました。
 でも、今は——?
 美也乃さんがひとつ息を吐きます。
「それはどうかな? たぶん、彼女はそんなこと望んでないと思うんだけど。わたしたちと関わりなんて持ちたくないと思う。それに、日向にしか興味ないんじゃないかな」
 美也乃さんの言う通りかもしれないと思うと、仄暗い喜びが湧き上がってきます。
 今日だって、玲花は潔いくらいに、あっさりとひとり帰ってしまいました。わたし以外の誰とも仲良くなる気がないのが、露骨に現れていました。
 それはわたしだけが玲花に選ばれたということです。わたしは玲花を独占し、同時に独占されているのです。
 それでいいと思います。
 玲花とわたし、ふたりきりでいい。
 誰にも邪魔はされたくない。
 誰も割り込まないでほしい。
「でも、美也乃さんだって、玲花に興味がないよね? 仲良くする気もないよね?」
 少しの間沈黙が訪れます。
「まあね、わたしは彼女とは仲良くなれないと思ってる。——けれど、興味は少しあるの」
 また、意味深な発言です。
 仲良くはなれないけど、そんな相手に対して、興味は持っているだなんて、どこか矛盾しています。それならいっそ、嫌いだから仲良くもなれない、興味もないと、ストレートに言ってくれたほうがよほどわかりやすいと思います。
「なに、それ? よくわかんない」
 正直な感想を述べます。正直すぎて、イラッとした気持ちが隠せていないかもしれません。
「わたしのことなんて、どうでもいいの。今は沙月のこと——。この際だからヒントだけ。あの娘ね、だいぶ落ち込んでいるの」
 落ち込んでいる——?
 いつも元気印の沙月ちゃんが弱っているなんて、想像もしていませんでした。
 陸上大会で成績が悪くて落ち込んだりしたのは、何度か見たことがあります。その度にわたしも元気づけたり、慰めたりしてきました。けれど、それ以外で弱ったり、落ち込んだりする姿は、ほとんど見たことがありません。常に明るく元気いっぱいなのが、沙月ちゃんの持ち味です。
 なのに、わたしが玲花と仲良くすることで、落ち込んでしまうなんて、沙月ちゃんがよくわかりません。玲花のことを嫌っていて、わたしが玲花と仲良くするのが気に入らないのなら、直接沙月ちゃんが言いにくればいいのです。沙月ちゃんは猪突猛進タイプで、とにかく行動で示す女の子です。いつだって、悩んだり落ち込んだりした時には、それらに立ち向かって、強引にでも解決してしまいます。
 それが、今回のことに限って、沙月ちゃんは姿を現しません。美也乃さんや雪穂が見かねてこの場を設けたような形です。
「やっぱ、これ以上は言えない。少し喋りすぎたみたい」
 美也乃さんは水を一口飲みます。「もう、ふたりで話したほうがいいんだ。私たちが口出しすることじゃない。——そう、それが一番」
 美也乃さんにしては珍しく、強引に結論のようなものを出してしまいました。
 わたしは沙月ちゃんに対して、いらいらを募らせていました。
 もちろん、美也乃さんと雪穂にたいしても同様です。
 沙月ちゃんの気持ちを伝えながら、その理由までは教えてくれません。わたしに想像をまかせて、わからなければ沙月ちゃんに聞けとばかりに、ほぼ突き放した状態です。
 もやもやしたわだかまりが黒い塵のように心に降り積もるようです。
 こんなことなら、美也乃さんの誘いに乗らなければよかったのです。わだかまりだけを蓄積させる、こんな集まりに来なければよかったのです。
 パフェを食べ終えたわたしは、カバンを引き寄せ、サイフを出そうとしました。自分のパフェ代を置いて帰ろうとしたのです。
 これ以上、ここにいたくない。
 これ以上、みんなを嫌いになりたくない。
 ついさっき、玲花とわたし、ふたりきりになってもいいと思っていたのに、もうこれです。どうしようもなく、臆病者です。
 これまで、誰にでも笑顔を振りまいてきた罰でしょうか。まるで二者択一を迫られているようです。
 今までのグループなのか、それとも玲花ひとりを選ぶのか。
 わたしの答えは、きっと出ています。でも、それを口にしたら、失くしてしまうものが、たくさんあるのでしょう。だから、今は先延ばしです。
「ちょっと待って」
 サイフを出しかけたわたしを、美也乃さんが押しとどめます。「まだ、話は終わってないよ」
 これ以上、なんの話があるというのでしょう。美也乃さんの中では、すでに結論が出ているはずなのに。
 わたしはしぶしぶサイフを引っ込めました。
「わたしたち、日向がアメちゃんと仲良くするのを、反対しているわけじゃないよ」
 雪穂のあっけらかんとした口調が、それまでの強張った空気を弛緩させます。
 けれど、沙月ちゃんのことまで持ち出して、今更なにをとも思います。わたしの心は、やはりひりついたままです。
 それでも、雪穂の言葉が意外で、わたしは再び腰を落ち着けました。
 美也乃さんも頷いています。
「雪穂の言う通り、日向と雨森さんが付き合うのを反対なんてしていない」
「つ、付き合うだなんて、誤解だよ——!」
 わたしは狼狽えます。顔が赤くなっていないか心配です。
「なに、過剰反応してるの? 仲良くなったんでしょ」
「重症だね……」
 雪穂がぼそりと呟きます。
「うん、重症だわ」
 美也乃さんは確信をこめて頷きます。「まったく、日向といい、沙月といい、受験生だっていうのに——」
 沙月ちゃんもわたしも病気だとでもいうのでしょうか。確かに、受験も間近に控えて、モヤついているなんて、健全な状態とはいえません。それでも、病気に例えるほどではないと思うのですが。
「沙月のことは沙月に任せていいんだけど、日向のほうがちょっと心配なの」
「心配って?」
「日向は免疫なさそうだし、雨森さんね、日向を利用しようとしているんじゃないかって」
 美也乃さんの指摘に、どきりと胸がなります。
 わたしも玲花の態度が急に変わったことに、なにか裏があるのではないかと、疑ったことがあります。
 そして、それはわたしだけではなく、他の人から見てもそう思えるほど、唐突だったのでしょう。
 わたしが二ヶ月ほども声をかけ続け、ようやく小さな声で挨拶を交わせるようになりました。ふたりだけの秘密めいた挨拶。
 文化祭明け、いきなり公然と大きな声で挨拶を交わし、それからは急速、急激な展開でした。お昼の時間の距離の詰め方、ふたりだけのお出かけ、週末にはお泊まりの約束——。
 でも、わたしは嬉しかったのです。幸せだったのです。
 裏があるなら、それでもいい。
 何か利用されているのなら、それでもいい。
 いっしょにいられるのなら、それだけでいい。
 そう思えるほどに、玲花との時間は大切なものでした。
 だから、わたしの動揺はすぐにおさまりました。美也乃さんに、わたしが玲花に利用されていると考える理由を、冷静に尋ねることができました。
「根拠って言えるほどの根拠はないんだけどね。——日向は雨森さんのご両親についてなにか知ってる?」
 わたしの質問に対して返ってきたのは、美也乃さんの質問でした。わたしはそのことにむっとします。さっきから、謎かけばかりです。明確な答えは何ひとつ与えられていません。
 わたしは首を振りながら、玲花の母親の顔を思い浮かべていました。
 あの、玲花が引っ越ししてきた夜、少しだけ言葉を交わした女性。
 この街にない、洗練された華やかさをまとった女性。自信に満ちあふれて、他者を圧倒する存在感。
 実の娘をひとり暮らしさせて、忙しいからと放任できる母親。
 父親の方は会ったこともないけれど、似たような人だと、なんとなく想像してみます。
「知らないけど、それがどうかしたの? 今、ご両親のことは関係なくない?」
 会ったことがあるなんていうと、ややこしいことになりそうなので、黙っておくことにしました。
「わたしもそう思いたいんだけど、引っかかるのよね。口で説明するより、実際見てもらったほうが早いかな」
 美也乃さんは雪穂に視線を向けます。「雪穂、お願い」
 雪穂は素早くスマホを操作すると、そのスマホを渡してきました。
「そのホームページ、読んでみて」
 画面には、有名なアパレル会社のサイトが表示されていました。
『rain in the forest      あなたを解放する あなたらしく あなたを演出する』
 それはきのう、玲花が身につけていた洋服のブランドでした。
 落ち着いたシックな、けれどけして地味ではない洋服が次々と現れます。洗練された、いろいろ余計なものを削ぎ落とした、誰にでも着られる洋服たち。
 画面をスクロールすると、いろいろなキャッチコピーが出てきます。
『あなたらしく』
『それはあなたの個性』
『あなたと向き合う』
 そして最後のほうに、
『わたしたちはLGBTQ+ の方々を応援します』
 これだけを見せられても、まだ理解が追いつきません。
「これって?」
 わたしは困惑の眼差しで雪穂の顔を見ました。
「気づかない? rain in the forest——そのまま日本語に訳してみて」
 わたしは促されるまま、頭の中で翻訳してみます。
 森の中の雨——、雨、の、森——。
「——! 雨森!」
「そう。——それで、一番下までスクロールして」
 また促されるまま、スマホを操作します。
「お洋服も気になるけど、今は『会社概要』を開いてみてくれる?」
『会社概要』なんて、まったく興味もなかったページです。どのサイトでも、開いたことすらありません。でも、ここまでくると、雪穂がなにを見せようとしているのか、わたしでもわかりはじめていました。
 開くと、まずは会社の理念、そして会社の規模を表す資本金とか従業員数などが羅列されています。更にスクロールすると、代表取締役の写真とプロフィールが現れました。
『雨森道隆』
 すらりとした、笑顔が素敵な中年男性。四十半ばながら、年齢を感じさせない活力と威厳に満ちています。
 スクロールして、次に現れたのはトップデザイナーの写真とプロフィール。
『雨森葉子』
 まさに、あの夜に出会った女性でした。第一印象そのままの写真が掲載されています。自信と実績に裏打ちされた成功者の笑顔があります。
 わたしはスマホから顔を上げて、ふたりを交互に見ました。
「これって、玲花のご両親だよね」
 質問というより、確認のつもりでした。
 美也乃さんも雪穂も揃って頷きます。
 父親はともかく、母親とは面識もあり、言葉も少し交わしています。間違いようがありません。
「そして、今度はショップを開いて、——そうだな、ジャケットのページがわかりやすいかな」
 わたしはショップのジャケットのページを開きます。ずらりとジャケットの写真と値段が表示されます。なかなかのお値段です。素敵だけれど、高校生が気楽に手を出せる値段ではありません。
「どれでもいいから、クリックして、そしたらモデルが着ている写真が出るからね」
 わたしは現れた画面に釘付けになりました。
 そこには、髪をアップで、濃いめの化粧を施してはいるものの、間違いなく、玲花がいました。モデルらしくポーズをつけて立つ玲花は、凛として、美しく、かっこいい……。
 わたしは、素直に素敵だと思いました。また、玲花の新たな一面を見つけて、胸がじんわりと満たされていきます。
「すごいよねー。大人っぽくって、悔しいけどかっこいいかな。親のお手伝いかもしれないけど、ちゃんと様になってる」
 わたしは雪穂の言葉に、こくこくと頷きます。アンチの雪穂ですら、その辺は認めざるを得ないようです。
「うん、すごく素敵。——でも、玲花はどうして教えてくれなかったんだろう……?」
 いつまでも、画面を見つめているわたしから、雪穂はスマホを取り上げます。もともと雪穂のスマホなので不満はないのですが、不意に玲花がいなくなったようで、寂しくなります。わたしは自分のスマホを操作して、『rain in the forest』のサイトを開きます。さらにショップページを開き、商品の画像をクリックします。新しい洋服をクリックするたび、新しい玲花が現れます。もちろん、すべてのモデルを玲花が務めているわけではなく、四分の一くらいでしょうか。それでも、贔屓目かもしれませんが、どのモデルよりも洋服を着こなし、ポーズも決まっているように感じました。
「どうしてだろうねー? 親が有名人で、お金持ちで、本人はモデルなんかやってて——、わたしなら言いふらしちゃうけどなー」
 雪穂は意味ありげにわたしの顔を上目遣いに見てきます。
 わかっています。雪穂の言葉に雪穂の本心が含まれてはいないことを。
 わたしだって、心の片隅に思い浮かんだのです。玲花とは住む世界が違うのだな、と。
 時代錯誤だと笑われるかもしれません。でも、玲花が急に手の届かない、遠い存在に感じたのは事実です。
 きっと距離を取られたくなかったのかもしれません。逆に、馴れ馴れしくされるのを嫌ったのかもしれません。
 玲花がこの街に引っ越してこなければ、絶対に知り合うことはなかったでしょう。こうして、スマホの画面越しに、綺麗でかっこいい、モデルのひとりとして、名前も知らずに通り過ぎていただけかもしれません。
 けれど、わたしは玲花に出会いました。そして、仲良くなりました。挨拶を交わし、お昼をいっしょに食べて、いっしょにお出かけをして、次の休みにはお泊まりの約束もしました。
 玲花の笑顔を知っています。
 玲花の照れる表情を知っています。
 玲花の心配そうな眼差しも知っています。
 なによりも、玲花の手の温もりを知っています。
 だからこそ——、
「ちゃんと、教えて欲しかったな……」
 寂しさが、つい口からこぼれてしまいます。「わたしは、なにも変わらないのに……」
 まだまだ、玲花に信用されていないのでしょう。親しくなったつもりでも、心の距離を詰めるのには、親しくなった時間が足りないのでしょう。
「そのうち、伝えるつもりだったんじゃない?」
 スマホの画面をじっと見つめるわたしに、美也乃さんの声が届きます。
 美也乃さんの声も表情も、先ほどまでより柔らかくなっているようでした。
「でもね、だからこそ、こんな経歴の持ち主が、こんな田舎街に来たことが不思議なの」
「少し調べてみたんだけどさー、なにも出てこないのねー」
 雪穂はスマホをフリフリと揺らします。雪穂の情報網もさることながら、昨今のネットのそれは、より激しく過激になってきています。なにか事件性があれば、すぐに特定され、有る事無い事暴き出されてしまいます。
「有名デザイナーの娘なんだし、なにかあればヒットすると思ったんだけど」
「まあ、なにもないからヒットしなかったんだろうし」
 ふたりは微笑んでくれました。まるで、わたしを安心させるように。
 ささくれていた心が治っていくようでした。ふたりとも、玲花とわたしが仲良くなるのを積極的に応援しているわけではないのかもしれません。それでも、否定することなく、見守っていこうとする気持ちは伝わってきました。
「日向、変わったね」
 美也乃さんはしみじみとした様子で、そんなことを言いました。
 スマホに映し出される玲花を見ていたわたしは、不意をつかれたように、美也乃さんを見ます。どこか、我が子の成長に目を細める、母親のような表情です。
 そんな表情をされる憶えもなく、わたしは戸惑います。
「なに、急に?」
「以前なら、こんな真面目な話をしている時には、笑っているだけだった日向がね」
 美也乃さんは雪穂と顔を合わせます。
「うんうん、ちゃんと自分の意見も言ってくれるし、怒ったりもしていたね」
 雪穂は満足そうに頷いています。「成長したねー」
 雪穂まで保護者面です。わたしの頭を撫でてきそうな勢いです。
「なんなの、ふたりとも?」
 わたしは居心地が悪くなってきます。ふたりの指摘に、改めて気付かされたようでした。
 そういえば、わたしここにきてから、あまり笑っていない——。
 初めの方こそ、雪穂の話に迎合するように笑っていました。美也乃さんが沙月ちゃんの名前を口にしたあたりから、わたしは笑ってないかもしれません。
 玲花といっしょに帰りたかった。
 雪穂の話がなんだかつまらない。
 玲花との仲を否定されるかもしれない。
 沙月ちゃんが落ち込んでいる。
 玲花の両親のこと。
 なによりも、明確な答えを与えてくれない美也乃さんと雪穂。
 いつものわたしならどのような受け答えをしていたでしょうか。
 きっと、そんなことないよー、などと笑っていたと思います。ふたりの意見に、そうだねー、などと迎合していただけだったと思います。
 そんなわたしが、ふたりに対して、イライラしてみたり、自分の正直な意見を言ってみたりしています。こんなことは今までありえませんでした。
 どうにかしてグループの中で、浮かないように、無視されたりしないようにと、へらへら笑ってやり過ごしてきたのです。
 そんなわたしが孤立することさえ覚悟して、玲花とともに過ごすことを望んだのです。
 改めて、わたしの中の玲花の存在の大きさを思います。
 クラスメイト、友達、そう呼べる人はそれなりにいます。だけど、親友と呼べる人はいないと思っています。それは今こうして、わたしに対して親身になって話してくれている美也乃さん、雪穂、もちろん沙月ちゃんも含めて、友達止まりだと感じるのです。それは、自業自得だといえます。笑顔の仮面をかぶり続けてきたわたしへの代償だともいえるでしょう。それでも、虫がいいかもしれませんが、大切な人たちには変わりありません。
 そんなたくさんの人たちを振り捨ててまで、玲花を選び取ろうとするのです。
 わたしにとって、玲花とは何者なのでしょうか。
 玲花にとって、わたしは何者なのでしょうか。本当に玲花がなにかの目的で、わたしを利用しているだけだとしても、わたしはかまいません。それよりも、玲花に選ばれたことが嬉しいから。こんなわたしが、玲花の役に立てるなら、それは喜ぶべきことなのです。
 次会った時には、玲花の両親のことについて聞いてみようと思います。なぜ教えてくれなかったのかを問いただすのではなく、ただ確認するのです。
 そして、玲花のことを知りたいと、言えないこと、言いたくないこともあるかもしれないけれど、できるだけ話してほしいと、わたしも正直な気持ちを伝えるのです。
 会いたい……。
 玲花に今すぐにでも会いたい……。
 スマホの小さな画面に映し出される玲花は、あまりにも他人に見えて、寂しくなってきます。
 玲花の手の温もりを知ってしまったわたしは、玲花がそばにいないだけで、こんなにも心細くなってしまうのでした。

 その日の夜、雪穂からメッセージが届きました。受験勉強で机に向かっている最中でした。
『みゃーちゃんにはまだ教えてないんだけど』
 そんな前置きで、あるURLがふたつ添付されていました。『関係ないとは思うんだけどなんか気になっちゃって』
 美也乃さんにも秘密にしていることを、わたしに送ってくるなんて、珍しいことでした。ファミレスでのことがあったので、玲花のことが関係しているのかもしれないと、わたしは少し身構えてまずひとつ目のURLを開きました。
 それはネットニュースのサイトでした。
 見出しには「K学園高等部の女子生徒 刃物を振り回し、男子生徒に軽傷をおわせる⁉︎」とありました。
 七月、〇〇県の私立高校で、夏休み直前の朝、ひとりの女子生徒がカッターかナイフのようなもので、男子生徒を切りつけた。女子生徒はすぐに取り押さえられ、男子生徒は腕に軽傷は負ったものの、命に別状はなかった。動機などは不明。
 ごく短い記事で、信憑性も疑わしい感じがしました。高校生なので名前が伏せられているのは当然として、具体的に所在地も明記されず、学校の名前がイニシャルになっているのが、不自然なように感じられます。
 なぜ、雪穂がこんなゴシップ記事のようなものを送ってきたのか、訝しく思いながら、ふたつ目のURLを開きます。
『霧山学園』
 先程の記事にあったK学園でしょうか。共学で、中高一貫のセレブ学校にして、有名公私立大学への進学率も高いことで名を馳せています。
 記事にあったのは高等部の出来事なので、高等部紹介のページを開きます。
 学校案内、校風、入学案内等、ありきたりの、学校紹介のページです。
 わたしが目をひかれたのは、生徒たちの活動する様子を捉えた、写真でした。顔にはぼかしがかかって、プライバシーに配慮しています。けれど、わたしが注目したのは、女子生徒の着ている制服でした。
 見憶えがあります。いえ、それどころか、毎日と言っていいほど見ています。
 それは、玲花が着ている制服と同じものでした。玲花は九月に転校してきました。在学期間もあと半年ほどなので、制服は前の学校のまま着続けることを許されています。
 つまり、玲花はこの霧山学園の出身で、エリートでセレブということです。
『rain in the forest』という、アパレルの娘だと思えば納得です。
 わたしとは縁遠い境遇に、つい、小さくため息が出てしまいました。
 わたしは最初のページに戻って、学校の所在地を確認しました。〇〇県〇〇市とあります。
 雪穂から送られてきた二つのURLが、ここで結びつきました。記事にはK学園と頭文字でしか表されてはいませんが、明らかに霧山学園の事件です。少し真実味が上がったような気がします。
 七月夏休み直前の事件、そして、夏休みを挟んでの、玲花の転校——。
 このふたつはなにか関係しているのでしょうか。関係はしていなくても、玲花はなにかを知っているかもしれません。
 尋ねるべきなのでしょうか。
 尋ねてもいいのでしょうか。
 なんだか、怖い……。
 玲花には関係がないと思いたいのですが、時期的に、この事件に関わっている可能性があるかもしれません。
 もし、記事の中の女子高生が玲花だとしたら、転校してきた理由もわかるような気がします。それに、先生の玲花に対する、どこか腫れものを触るような扱いも、納得できます。
 けれど、記事の信憑性には疑わしいものを感じます。確かに場所と日時の特定はできてはいます。これだけの名門校での不祥事が、こんなゴシップ記事のような扱いだけですまされないと思えます。もっと、センセーショナルに暴き立て、煽り立てる記事に仕立て上げるような気がします。
 わたしは『霧山学園』で検索をかけました。ヒットするのは学校案内のホームページや、名門、セレブ、偏差値といった羨望とも妬みともとれる書き込みや呟きばかりです。
 ニュースとして取り上げているのも先程のサイトだけです。記事にある事件のことなど、かすりもしません。
 続けて『rain in the forest』『雨森』などでも検索してみました。いずれも事件のことに関係しそうなサイトはヒットしませんでした。
 あのニュースサイトだけのスクープとも考えられますが、そうだとしても、後追い記事が出てくるはずです。それすらないということは、フェイクニュースも考えられます。
 心のもやもやが止まりません。受験勉強をしていたのですが、すでに手につきません。いっそ、直接玲花に電話してみようかと思ったのですが、その勇気はありませんでした。
 わたしは参考書を閉じると、ベッドに寝転んでしまいました。横になって、丸くなって、スマホの画面に表示される玲花の連絡先を凝視します。
 電話が無理なら、せめてメッセージだけでも——。
 迷いに迷って、スマホを放り投げました。
 やはり、玲花に直接話したほうがいいのです。顔を見て、生の声を聞いたほうがいいのです。
 先延ばしではありません。言い訳じみているかもしれませんが、頭と気持ちの整理が追いついていないのも事実です。
 沙月ちゃんのこと、玲花の両親のこと、玲花の出身校、ネットニュースの記事。
 そしてなにより、わたし自身の気持ち。
 今日一日で集まった情報量が、わたしにとってキャパオーバーです。
 今夜は寝ます。
 勉強は諦めました。
 お風呂に入っていないのを思い出しました。時間を見ると十一時前です。シャワーだけで終わらせます。湯船に浸かると、そこで色々考え込んでしまいそうです。
 パジャマなどの着替えを手に、部屋を出ようとすると、着信音が鳴りました。
 また雪穂からかと、通知を見ると、玲花からでした。
 慌ててアプリを立ち上げます。ついさっき、連絡しようかと悩んでいたのが、伝わったのかと焦ってしまいました。
『なにしてる?』
 シンプルな問いかけです。玲花はそんなに頻繁に連絡してくる人ではありません。二日か三日おきに、たわいもないメッセージのやり取りがあるくらいです。
『勉強してた』
『おーえらいねぇ。邪魔しちゃったかな?』
『だいじょうぶ、もうひと段落したところだから』
『受験生だもんね』
『それは玲花もでしょ』
『ははは。そうだった』
 なんでもない会話の受け答え。高校生らしい普通の会話。気取りもなければ、卑屈もない、対等の会話。
『どうしたの?』
『寝る前に日向とお話ししたかったの』
 この一文にわたしの鼓動は跳ね上がります。
 どう返そうかと迷っている間に、玲花のメッセージが先に届きました。
『今日いっしょに帰れなかったから
 なんだかものたりなくって』
 そして同時に送られる萎れた猫のスタンプ。
 わたしは思わずスマホを胸に抱きしめます。
 この人は平気でこんなことを伝えてくる——。
 わたしはベッドに再び倒れ込んでしまいました。柔らかなベッドが、わたしを弾ませます。体温が上がっていくのがわかります。
 さっきまで悩んでいたのが嘘のように晴れていきます。今のままの関係を望むのなら、なにも聞かず、なにも知らないほうが、いいのではないかと思えてきます。玲花が自分から話してくれるまで、待てばいいのです。
『ねぇ、声が聞きたい』
 わたしは知らず知らずのうちに、そんなメッセージを送っていました。
『わたしも』
 玲花の返信はすぐに届きました。それはとてもシンプルで、わたしは重ねてメッセージを送ります。
『顔も見たい』
 今度はすぐには返信はありませんでした。でも代わりに、画面いっぱいに玲花の笑顔が現れました。
『わたしも日向の顔が見たかったの』
 スピーカーから流れる玲花の声になぜか安心感を覚えます。まるで、ようやく飼い主に巡り会えた仔犬のような心境でした。
「玲花——」
 わたしの呼びかけに、玲花は黙って頷いてくれます。ちょっと声が震えていたかもしれません。
 包み込むような笑顔。
「玲花——」
 玲花はなにも言いません。だけど、言葉にしなくても、伝わってくるものがあります。安らぎに心が凪いできます。
 玲花は拙いわたしの言葉を、黙って待っていてくれます。
 こうして優しい笑みを投げかけてくれます。
 玲花が何者であろうと、それは変わりありません。
「なにかお話しして……」
 わたしの要求に、玲花は小さく吹き出します。
『なにそれ? 小さい子どもみたい』
「いいから、玲花の声が聞きたいの」
『ふふふ、わがままで、甘えん坊さんだね』
 少し困ったふりをしながらも、寛大に受け止めようとしてくれます。
 まるで、わたしに甘えられるのが嬉しいみたいです。
 勘違いして、ますます甘えてしまいそうです。だから、
「玲花は玲花だよね」
『そうだよ』
「玲花はどこにも行かないよね」
『——日向のそばにいるよ』
 わたしは何度も頷きます。わたしを安心させるためだけかもしれないけど、玲花はわたしの欲しい言葉をくれます。
『わたしと帰れなかったのが、そんなに寂しかった?』
「うん……」
 わたしは素直に肯定しました。
 すると、玲花は一瞬絶句したような表情を見せました。心なしか頬も紅く染まっているようでした。
『ずるいな、日向は……』
 なにが? と尋ねる前に『なにかお話しするんだったよね』
 話を逸らされてしまいました。
『なにがいいかなぁ? 桃太郎? かぐや姫? 人魚姫もいいな』
 玲花の冗談に笑ってしまいました。ようやく、心から楽しいと笑えた気がします。
「そんなに子どもじゃない!」
『そう、じゃあ、かぐや姫。——今は昔、竹取の翁といふものありけり——』
「子どもには難しすぎる!」
『もう、日向はわがままなんだから』
 ひとしきり、ふたりで笑い合いました。玲花はやっぱり優しいと、改めて思います。
 重たかった空気が払拭されていきます。でも、少し甘くなりかけていた、微妙な空気感も捨てがたいものがありましたが。
「家に帰って、なにしてた?」
『本を読んでた』
 ほらっと、画面に差し出されたのは『中原中也詩集』でした。きのう、わたしが買ったものと同じ文庫です。
『もう一度、読み返してみたくなって』
 日向はもう読んでる? と尋ねられて、ハハハと笑って誤魔化します。
 こうして、わたしはお風呂に入るのも忘れて、玲花と話し続けていました。
 たわいもない話、尽きない話題、でも、核心には触れない会話。
 今、こうして、玲花と繋がっている、それだけで心が満たされます。今、この瞬間を大切に過ごせればいいのです。
 玲花は美也乃さんたちとの会話の内容を聞いてはきませんでした。
 それはそれで、安堵していました。あえて聞かないでいてくれるのがわかります。勘のいい玲花だから、自分のことが話題になったのを察しているのかもしれません。わたしが話しにくいだろうと、気を使ってくれているのです。
 でも、少しは聞いてくれてもいいのではないかとも思います。まったく聞かれないのも、わたしに関心がないのではと、不安になります。
 玲花、あなたは、わたしのこと、どう思っているの?

 長い一週間でした。正確には、日曜が文化祭だったので、月曜はお休み、火、水、木、金と普段より短く感じる週のはずでした。
 土曜日には、玲花のマンションにクッキーを作りにいき、そのままお泊まりの予定です。とても楽しみで、待ち遠しくて、長く感じられたのも、当然と言えば当然です。ほとんど、遊園地や動物園に行く予定が待ち遠しい、小学生と同じ心境でした。
 けれど、学校の教室で過ごす時間、特に休み時間が苦痛でもあり、長く感じられたのでした。
 玲花のことは、玲花が自分から話してくれるまで待つことにしました。もし、わたしから尋ねるとしても、学校ではないほうがいいのではと思いました。ゆっくり話す時間も取れないだろうし、他の生徒に聞かれないとも限りません。それに、土曜日ならふたりでいっしょに過ごす約束があります。その時、なにかのきっかけがあれば、尋ねてみればいいのです。
 問題は沙月ちゃんでした。
 話しかけるきっかけが、つかめないのでした。玲花とわたしは席が隣同士なので、休み時間も特に移動することなく、そのままお喋りをしています。わたしたちの中に加わろうとする猛者はまだいません。最近は少し減ってはきたのですが、遠巻きの視線が送られてくるばかりです。
 その中のひとつが沙月ちゃんでした。ファミレスでの次の日の水曜日です。特に沙月ちゃんの視線は意識に突き刺さります。何度か視線が合った気もするのですが、すぐにお互い逸らしてしまいます。
 話しかける切り出しかたがわかりません。
 美也乃さんたちに聞いたんだけど、なんて言えません。そんなことを言ったら、沙月ちゃんは美也乃さんたちに余計なことをしたと、怒ってしまうでしょう。
 ごめんねと謝るのもなにか違います。まるで上から目線で、沙月ちゃんに同情しているようです。それに、なにに対しての謝罪なのかもはっきりしません。わたしが玲花と仲良くなったこと? それこそ沙月ちゃんをバカにしているようなものです。
 どうしたの? と聞くこともできません。美也乃さんから聞いた沙月ちゃんのちょっと複雑な心境を思えば、あまりにも他人事すぎる尋ねかたです。しかも、わたしが原因だと知っているのに、とぼけすぎです。
 それなら、どうして? と直球で尋ねるべきなのかもしれません。わからないものはわからない、知りたいことは知りたい。他人《ひと》の気持ちや感情を読み取るには、わたしはあまりに鈍感です。今まで、ほとんどのことを笑って誤魔化してきました。「日向の笑顔に癒される」などとおだてられて、これでいいんだと、なにも考えずにいたのです。
 そんなわたしだからこそ、直球勝負でと思うのですが、玲花とお喋りしていることを理由に、自分の席から離れることができませんでした。それこそ、現実逃避の、先延ばしです。
 わたし自身が友人とこんなふうに拗らせた経験がないだけに、どう対処していいのか、わからないのです。笑って誤魔化すということが効かないことだけは痛いほどわかります。
 そう考えると、どの選択肢がいいのか、堂々巡りです。全部間違っているようにしか、思えなくなっていました。
 沙月ちゃんの様子は、日に日に変わっていきました。最初は怒っているように見えました。それが徐々にため息をつくようになりました。捨てられた子犬のような、悲しげな視線が増えてきました。そのうち、わたしを見ることが減り、ついには完全に背中を向けてしまいました。
 金曜日には、目が合うことはなくなりました。背中を見せる沙月ちゃんは、明らかにイライラしていました。頭を掻きむしってみたり、机を指で小刻みにとんとんと叩いてみたり、いきなり椅子を鳴らして立ち上がったと思えば、すぐに座り直して頭を抱えてみたり。情緒不安定なのが、手に取るように伝わってきます。
 その度に、見兼ねた美也乃さんと雪穂が宥めているようでした。ふたりともわたしに対して、特になにも言ってきませんでした。あくまで、沙月ちゃんとわたしの問題だとして、放任しています。
 玲花はといえば、相変わらずの無関心です。わたしだけを相手にして、他のことには目もくれません。さすがに、沙月ちゃんが椅子を鳴らして立ち上がった時には、驚いた様子でしたが、すぐに座り込むと何事もなかったように、会話を再開するのでした。
 こうして、短くも長い一週間は、なんの進展もなく、無為に過ぎていくのでした。
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