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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡

自己愛の可不可-水鏡 5

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「珠樹を――弟をこちらで預かってください。家族から同性愛者なんて……。そんな恥ずかしい……」
 零れ落ちたのは、その言葉だった。
「お兄さんの方は?」
「あの子は仕事がありますし――。それに、珠樹はこのままではいつまでも兄の言いなりで、何も……」
「片方を入院させて、二人を引き離したい、ということですか?」
「ええ」
「ご主人にご相談はなさいましたか?」
「え、ええ、もちろんですわ」
 きっと、彼女の独断だろう。もしくは、相談しても聞き流されたか。
 視線を逸らし、しきりに指を組み替えている。
「今日はご一緒では?」
「ウィーンの方に行っておりますので」
「いつご相談を?」
 その問いかけに、再び怒りが突き上げたのか、
「何故、そんなことをお訊きになりますの?」
 ピリピリとした苛立ちを隠しもせず、春名の顔を睨みつける。
 答えを聞く必要もないかも知れない。彼女の家庭がバラバラであることは、容易に知り得る。
「――息子さんの同性愛行為をご覧になったことがありますか? 肉体的なことですけど」
「そんな……」
 春名の言葉に、沢向夫人の唇が細かく震えた。
「一卵性双生児が同性愛者になり易いと言われるのは、自体愛オウトエロチズムと呼ばれる幼児期の行為――乳を吸う唇や、排便、排尿の際の性器の快感を得る行為のことですが……」
 その頃はまだ、自分と他人の区別はない。
 それを過ぎて自己愛ナルシズム――自己に愛情を注ぎ、自分自身に似た姿や性器を愛する時期に入り、対象愛に移る。
 だが、対象愛に移らず、そのまま固定してしまった場合、もしくは対象愛に入ってから退行してしまった場合。そうなると、いわゆるナルシスト――自分自身に陶酔し、もしくは自分に似たものを愛する。同じ性器を持つ同性を愛するようになる。
「――息子さんのように一卵性双生児なら、その対象が目の前にありますからね。自分とよく似た姿と性器の持ち主が」
 それ故、一卵性双生児が同性愛者になりやすい、と言われているのだ。
「まあ、弟さんをここへ入れるのはともかくとして、お兄さんはどうなさるつもりですか? 納得済みとは思えませんが」
 春名は当人同士の問題を問いかけた。弟を溺愛している兄が、片方だけを入院させることに黙っているはずがない。
「……。あの子はミラノへ行っていますので」
「その間に弟さんだけでも、と? あなたが異常を感じておられるのは、お兄さんの方でしょう?」
 その言葉に、沢向夫人の表情が強ばった。
「冬樹は――あの子は何を言っても聞きはしません。それに、珠樹には自分の意思というものがないんです! 今回はたまたま熱を出して日本に残っていますが、でなければ、いつもと同じように冬樹について回って――。いえ、熱が引いたらすぐにミラノへ来るように、と冬樹が――。珠樹は正常なんです。兄の言いなりになっているだけで……。ですから、珠樹がもっとしっかりとしていれば、冬樹も珠樹から離れるしか……」
 どうやら事態は、かなり深刻なものらしい。
 沢向井夫人の言葉には、同性愛行為への嫌悪だけでなく、兄の言動への不安があり、それでも兄には手を出せず、弟が兄を避けるように仕向けようと、兄の留守中に弟を入院させることを考えている。
「都合のいい日に息子さんをお連れください」
 春名は簡単に言って、カルテを閉じた。
 結局、沢向夫人の口から、家庭内の話しを聞くことは、なかった……。


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