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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡

自己愛の可不可-水鏡 23

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 午後――。
 春の匂いを含む風が、窓から暖かく流れ込む。
「お茶です」
 いつものように、紅茶のカップが、デスクに乗った。
 あれから、何事もなかったかのように一日が過ぎ、外来を終えた日の午後である。個人でもらっている研究室で昼食を済ませ、これから病棟に回診に向かおうとする時間だった。
「来ると思いますか?」
 そんな当たり前の時間の中、心配そうに仁が訊いた。
「ん?」
「双子の片割れです」
「ああ。さあ」
 別に無関心に言った訳ではないのだが、
「さあ、って――。先生っ! 戻るように説得に行ったんでしょう?」
 春名の呑気な言葉に身を乗り出し、仁がデスクの上にのしかかる。
「んー……」
 そう言われても、春名は医者で、預言者ではない。彼らが来るかどうかまでは解らない。加えて、兄である冬樹の方とは、ほとんど話をしていないのだから。
 それでも、これ以上仁を怒らせないように、考えるフリをしながら、傍らの煙草に手を伸ばす。が、中身は空だ。
 仕方なくその箱を握り潰すと、
「……。もうあの双子には近づかない方がいいですよ、きっと」
 仁が言った。
 何となく、預言じみていて、背筋が凍る。
「怖いことを言わないでくれ。仁くんの勘はよく当たる」
「ぼくは先生が心配なんです。あの双子の両親に、全く連絡が取れないんですよ。日本にいるはずなのに、息子の様子を聞きにも来ない。電話の一本さえ――。そんなのおかしいですよ。親が見放した子供は――」
「不憫だな」
 彼らは、ただの被害者なのだ。
 春名は、コクリ、と紅茶を含んだ。
 仁は黙って唇を結んでいる。
「親を頼れなければ、兄弟で慰め合うしかない。ああいう親を見ていると胸が悪くなる」
「だから引き受けたんですか?」
「ああ。――だが、彼らは君のように子供じゃない。保護者はいらないさ」
 昨日、冬樹が言ったように、彼らに親は必要ない。もちろん、家族や他人を突き放して生きろ、という意味ではなく、もう大人として生きていける、という意味で。
 春名の言葉に、仁の表情がわずかに、変わった。それは、切なさをも含む変化であっただろうか。傷口を突っ突かれたかのような、痛々しい……。
「夕刊を取って来ます」
 と、逃げるように、ドアの方へと翻る。
「ああ、ついでに――」
「煙草の買い置きなら、二番目の引き出しです」
「それはどうも」
 春名は、夫婦ゲンカの名残を見るように、肩を竦めた。
 何やかんや言っても、仁がいないと回らない、というのに、つい、一言余計な言葉をつけ足してしまうのだ。
「……。気をつけてくださいね、先生」
 不吉な言葉だけが、後に残った。
 何かあったら裁判沙汰かも知れない。
 そんなことを考えながら、春名は取り出した煙草に、火を点けた。


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