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Karte.3 沈黙の可不可-声

沈黙の可不可-声 8

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「今、ムッスィユ.クレマンと話をしているのが父です。さっき、やっと別荘に着いて」
 夫妻の傍らに現れた紳士を見て、千咲が言った。
「そう。君はお父さん似だ」
「よく言われます。――春名先生は父とは初めてでしょう? 紹介します。母と同じに過保護ですけど。気にしないでください」
 千咲の言葉に軽く笑い、春名は後に続いて会場を渡った。
 豪華な会場は、上流階級という名の華やかな色に染まっている。その中、千咲の足は、冬まで動かなかったとは思えないほどに、優雅な動きで進んでいた。
「パパ」
 その呼びかけに、パリからの客人と談笑を交わしていた紳士が、振り返る。パーティ用とはまた違う、娘を甘やかすような表情である。――が、その表情は、千咲の傍らに立つ春名の姿を見て、わずかに変わった。
 その変化が何であるのかは、春名にも大凡の見当はついていた。
「紹介するわ、パパ。こちら、精神分析学者で、精神科医の春名先生よ。前に話したでしょう? USAにいらしたとても立派なお医者様よ」
 千咲の言葉に、倉本の表情が、また、変わった。
「あ、ああ、そうか。恋人を紹介されるのかとヒヤっとした」
 と、厳しい表情を解いて、冷や汗を拭う。
 年頃の娘を持つ父親の、典型的な心配である。
 千咲の頬が真っ赤に染まった。
「先生に失礼だわっ、パパ。春名先生には、笙子先生っていう、とても素敵な恋人がいらっしゃるのに」
 と、少し離れて立つ笙子の姿を垣間見る。
「そうか。いや、霧谷先生の恋人とは」
 春名としては、困ってしまう状況である。
「いえ、倉本さん、彼女とは仕事の――」
 と、言いかけるが、
「まあ、倉本さん、お久しぶりです。私の恋人をお嬢さんの花婿候補になさらないでくださいね」
 と、傍らへ来た笙子が、臆面もなく、口を挟む。
 春名は、その展開に、目を丸くした。
「何を――」
「彼はシャイですけど、とても優秀なドクターですわよ」
 と、涼しい顔で言ってのける。
「ええ、知っていますとも。娘の足を治してもらったそうで。これが松葉杖をついて不自由にしているのを見ていた時は、本当に可哀想で……」
 少し話が長くなった。最初は春名への礼と賛辞が中心だったが、それはすぐに娘中心の話となり、本格的な娘自慢が始まってしまったのだ。そして、その娘自慢に少々――かなりうんざりとし始めた頃、
「ああ、そうだ。霧谷先生に――。いえ、春名先生にも、こちらのご夫妻を紹介しましょう」
 と言って、倉本が、フランスからの客人へと視線を向けた。
「ムッスィユ.クレマン、マダム.エレーヌ。彼女がセラピストの霧谷先生。そして、彼はUSAにいらした優秀な精神科医の春名先生。――霧谷先生、春名先生、こちらはユーロクラットのムッスィユ.クレマンと、マダム.エレーヌ」
 その紹介の元に、四人の挨拶が始まった。
「始めまして、ムッスィユ.クレマン、マダム」
「始めまして、ムッスィユ.春名、マダム.霧谷」
 しばらくの間、型通りの挨拶が続き、いくつかの質問を経た後、
「お二人ともフランス語が堪能でいらっしゃる」
 と、倉本が自分事のように、誇らしげに言った。
「いえ……」
 挨拶だけでくたびれる。
 春名は曖昧に受け応え、クレマン夫妻の方を、垣間見た。
 夫妻だけで、子供はいない。もう部屋で休んでいるのだろう。
 そんなことを考えていると、
「霧谷先生、よければムッスィユ.クレマンのご子息の話し相手になってあげてください」
 と、倉本が笙子へと言葉を向けた。


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