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Karte.4 児童精神医学の可不可-他人

児童精神医学の可不可-他人 9

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 冷たいジュースを持っていた春名の手には、葉の手は心地よい暖かさである。子供は大人よりも体温が高くて、抱いている時も暑く感じる。それから思えば、冷たいジュースを持った後は、ちょうどいい暖かさである。
「さあ、座って。お陰で手も暖まった」
 と、葉をソファへと座らせる。
 もちろん、言葉は返って来ない。葉は無関心に瞳を合わせず、そこに座ったままである。
 少しすると、仁がジュースを運んで来た。
「はい、葉くん、どうぞ」
 と、小さな手に、グラスを渡す。その時だった。
「……あたたまった」
 葉がグラスを持って、口を開いた。
 喋ったのだ。やっと出てきた言葉である。
 恐らく、この病院に入院してから、初めての――。
 だが、喋ったのはいいが、冷たいジュースを持って、あたたまった、とは……。
「へ?」
 春名は、その言葉に眉を寄せた。
 葉が手に持っているのは、確かに冷たいジュースである。
「あーあ。どーするんですか、先生? 間違えて覚えちゃったじゃないですか」
 仁が瞳を細めて、春名を睨む。
 暖まった――。さっき、春名が言った言葉である。葉の手を取って、このソファへ座らせる時に。
 冷蔵庫から出したジュースは冷たく、そして、それを持っていた春名の手も冷たかった。
 春名は、葉の手を暖かいと言ったつもりでも、葉の側からすれば、自分に触れている春名の手は、ジュースと同じに冷たかったのだ。だから、冷たいジュースも、冷たい手と同じに『暖かい』という言葉になった。
 相手の側からものを考えることが苦手な彼らの解釈法である。
「気長にやるさ……」
 春名は苦笑と共にソファに掛けた。
 取り敢えず、喋ってくれたのだ。
「葉くん。今度は彼に『ぼくにジュースをください』って言ってごらん」
「……」
「『ぼくにジュースをください』――そう言えば、仁くんがジュースをくれる」
「……」
 言葉は返らず、葉は無心にジュースを飲んでいる。
「渡した後で言ったって遅いですよ」
 仁はまた冷ややかに瞳を細めた。
「せっかく喋ってくれたんだ。続けて喋ってくれるかも知れない、と思ってな」
 と、軽く言う。
「嬉しい『欲』ですね」
「ああ」
 空は、梅雨が去ったように晴れ上がっていた。




 帰宅時間――。
 仁はデスクの上を片付けて、手際よく帰り支度を整えていた。看護師たちのように化粧直しをする訳でもないから、簡単なものである。
 だが、その手際のいい帰り支度が無に帰してしまう時がある。今日が、それだった。
「ああ、仁くん。今日は遅くなるから」
 と、煙草を銜え、罪悪感も何もない口調で、春名が言う。
「えーっ! またですかっ」
 このところの度重なる不規則さは、目に余る。
「仕方がないさ。独り者は『代わってくれ』と頼まれると否とは言い辛い」
「……。体を壊しますよ。この間だって、当直を代わったじゃないですか」
「そうそう急患が入る訳じゃなし――。日付が変わらない内には交替してくれるらしいから、適当にやってるさ」
「でも……」
「これくらいで倒れるほどヤワじゃない。先に帰ってくれ」
 春名は椅子に腰かけ、煙草の灰を、トン、と落とした。
「……。はい」
 仁は不満をありありと映しながら、それでも、仕方なく病院を後にした。


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