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Karte.5 多重人格の可不可-交代

多重人格の可不可-交代 2

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 だが、すっかり思い出していた。舞台への階段でつまずいて転び、爆笑を受け、舞台に上がって壇上に立つと、ろくに口も開かない内に汗を滴らせ、真っ蒼になって倒れた青年のことを……。
「春名先輩の研究内容は素晴らしくて……。皆、真剣に聞き入っていて。――ぼくなんかは……」
 正也は唇を歪めるだけの笑みで、言った。
 もちろん、春名としては、曖昧な笑みで応えるしかない。
「先輩は、もうずっと日本に?」
 今度は一冊ずつ本を拾いながら、正也は訊いた。
「ん、ああ。もう二年半くらいかナ」
「へェ。先輩は、ずっと向こうアメリカにいらっしゃるものだとばかり思っていました」
「……」
 正也の言葉に、春名は軽く鼻を鳴らした。それは、さっきの正也の自嘲の笑みにも似ていただろうか。
「日本で開業を?」
「いや。ただの雇われ医者だよ。総合病院の一角が仕事場だ」
「春名先輩がっ? 春名先輩が総合病院の雇われ医者だなんてもったいないですよっ。先輩の実績は、USAで充分認められているのに!」
 大仰に目を見開いて、正也が言った。
 春名の実績なら、USAではもちろん、この日本で開業しても充分にやっていけただろう。わざわざ総合病院の片隅にある精神科に務めなくても、権威ある精神病院からいくらでも誘いが来る。
「――君は?」
 再び軽い自嘲と共に、春名は訊いた。
「あ、ぼくは父の病院に……」
「確か、医学博士の片岡哲夫先生――だったかな?」
「……ええ」
 うつむき加減の言葉だった。
「厳しいが腕のいい博士だと耳にしているよ」
 そう言った時、視界の隅に、見知った少年の姿がよぎり、春名は咄嗟に顔を伏せた。――いや、伏せる必要はないのだが、咄嗟にそうしてしまったのだ。
 少年は、誰かを捜すようにキョロキョロと辺りを見渡している。十七、八歳だろう。きれい、と形容出来るほどの面貌を持ち、まだ幼さを留める輪郭も、線の細いしなやかな肢体も、ハッとするほど端麗に愛らしく整っている。小鳥の囀りを聴くのにも似た、心地よさを与えてくれる少年だった。
 彼は春名の秘書で、仁、といった。まだほんのあどけない少年だが、その有能さは、大人を遥かに上回っている。
「失礼。連れが探している」
 春名は拾った本を正也に渡し、騒ぎにならない内に、足を向けた。
「あ、どーも……」
 春名の言葉に頭を下げ、正也もまた、その少年の方へと視線を向ける。
 少年は、春名の姿を見つけて、憮然と唇を尖らせていた。それでも変わらず、愛らしい。
 その二人――春名と仁が図書館を出るのを見送って、正也は本を片手に一つの席に落ち着いた。
 だが、机の上で開いた本は、探していた目当ての本ではなく、全く別の本であった。必要な本を片付けて、要らない本を持って来てしまったのだ。
 ――ぼくは、いつもこうだ……。
 また席を立ち、音を立ててしまうことを気にして、正也は仕方なく間違えた本を捲り始めた。
 著者、医学博士、片岡哲夫……。
 父、片岡哲夫……。


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