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Karte.6 不老の可不可-眠り
不老の可不可-眠り 1
しおりを挟む「……もっと弾いて、エリザベータ。次は交響曲第六番」
「ニコライったら。少しは休ませてちょうだい。私はあなたのように若くはないのよ」
「たった三つだ」
「あと一月で四つだわ……」
「……あなたが不安なら、ぼくはあなたの年を追い越したい」
「馬鹿ね……。でも、チャイコフスキーの『眠れる森の美女』のような眠りにつけるのなら、年を取らずにいられるかも知れないわ」
「駄目だよ、姉さん。ぼくが寂しい」
「――。私はあなたより早く年老いてしまうのね……」
「もう言わないよ、エリザベータ。ぼくはあなたを愛している……。その金の髪も、碧い瞳も、透けるような白い肌も……」
「抱いてちょうだい、ニコライ……。醜く年老いて、あなたに見せられなくなる前に。まだ美しい姿でいられる内に……」
「あなたはきれいだよ……。誰よりも、何よりも……」
「愛してるわ……。愛してる、ニコライ……」
クレムリンに聳える聖ワシリー寺院、赤の広場、博物館、美術館……。
長い冬の中で磨き上げられた芸術と文化の中、一九九一年一二月に、七四年間の歴史を閉じた社会主義の大国、ソビエト連邦。
資本主義――市場経済となったその国は、ペレストロイカ以降、大きな歴史のうねりを見せ続け、ソ連崩壊と共に次々に誕生した独立国も、世界中の注目を浴びると同時に、まだ歩き方すら定まらずに戸惑っている。
一部の――マフィアや官僚たちの富と、一般国民の貧困。
手に入れた自由と、その代償のようなあらゆる悪。
無法国家となり果てた大国、ロシア……。
その中でも、彼らは言う。
『Хорошо(OK、解った)』
『Ничего(大したことはない、何とかなるさ)』
そう言って、後先を考えずに相槌を打つ。
彼ら特有の、逞しい気質で。
莫斯科――。
車は、モスクワの中心部から、レニングラード街道を北西へと進んでいた。
運転しているのは、長身の日本人青年である。まだ三四歳という若さで、多くの実績を上げる優秀な精神科医、そして精神分析学者――。大学時代からずっとUSAで知識と実績を積み上げて来た彼は、二年ほど前に日本へ戻り、今は日本の病院に勤めている。
その隣――助手席に座っている少年は、春名の秘書で、仁、といった。幼さを留める小さな輪郭も、瞳にかかる細い髪も、華奢な肢体に似合って瑞々しい。小鳥の囀りを聴くのにも似た心地よさを与えてくれる少年であった。まだ十七、八歳のほんの子供とはいえ、彼の有能さは大人に劣るところなど一つもない。
今、二人は、ロシアでの夏期休暇を楽しんでいる途中――だったのだが……。
空模様はあいにく雨。――いや、そんな生易しいものではなく、強風と豪雨、雷鳴の轟く夏の嵐である。
「先生、もう前が見えませんよ」
フロント・ガラスを叩く雨に、仁は眉を顰めて口を開いた。
ワイパーも既に役に立つ範囲ではない。叩きつけるような激しい雨と雷鳴は、目の前の視界はもちろん、周囲を見渡すことも不可能にしている。
「ん……」
春名も同じように眉を顰め、
「参ったな。モスクワへ引き返すのと、クリンへ行くのとどっちが近い?」
と、ナビ役の仁に問いかける。
「クリンの方が近いですけど……。シェレメーチェボ空港までなら、同じくらいの距離ですよ」
仁は大凡の走行距離を確かめながら、春名の言葉に受け応えた。
モスクワの中心部から約一時間、レニングラード街道を走ったところにあるシェレメーチェボ空港へは、ここからなら、クリンまでとほとんど変わらない距離である。
今日は、モスクワ市内の観光も終えて、クリンでチャイコフスキー博物館を見る予定になっていた。
モスクワ郊外には、美しい自然の森に育てられた大寺院や皇帝の宮殿、大貴族の荘園屋敷などがあり、芸術家の愛した街が点在しているのだ。
明日にはモスクワを離れて、サンクト・ペテルブルグへと向かう予定になっているのだから、見る機会は今日だけである。もちろん、サンクト・ペテルブルグ行きを諦めてもいい訳だが、それには未練が多すぎる。ドストエフスキーの小説の舞台となった水の都へ行くことは、仁も春名も楽しみにしていたのだ。
白夜の季節を過ぎたとは言え、夏には十九時間もの間、陽が昇ったままの美しいその古都――ソ連解体前には『レーニンの街』と呼ばれていた『北の麗人』には、チャイコフスキーに劣らない魅力がある。
それでも――。
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