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Karte.6 不老の可不可-眠り

不老の可不可-眠り 4

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 どれくらいそうしていただろうか。
 道の先から、一台の馬車が近づいて来た。時代を間違えているとしか思えない、クラシックな馬車である。それは、二人の乗る車の前で静かに止まった。
 中から、マントを羽織った一人の青年が姿を見せた。フードから零れる琥珀色の長い髪と、薄い色の瞳をした、二十七、八歳の青年である。まるで、この森に棲む精霊のように、神秘的な面貌をしている。
雷神ペルーンの怒りに触れたのか……」
 雷に裂かれ、車の上に倒れる樫の樹を見て、ポツリ、と呟く。
「……?」
 その言葉に、仁は幻を見るように、顔を上げた。その青年が本当に存在しているのかどうかも、多分、判ってはいなかった。それでも、目の前にあるものを信じて、口を開く。
「先生が……」
 と、血に染まる春名へと、視線を落とす。
「酷い怪我だ……。どんな小鹿が悲鳴を上げているのかと思ったら、人の子だったとは」
 青年は車の中をのぞき込みながら、淡々とした口調でそう言うと、春名の手首へと手を伸ばし、その生死を確かめた。
「……。脈はあるな。――何故、この森へ入った?」
 と、薄い瞳を持ち上げる。
「何故って……。道に迷って」
「なるほど。この嵐の中をどうするつもりだったんだか。――極東の人間か? ――いや、そのロシア語では、そうは思えないな。西の言葉だ」
「……日本人ヤポーニエツ
日本人ヤポーニエツ? さっきの叫びは日本語ヤポンスキか。小鹿が狼に襲われているのかと思った。――ここは、森の精レサヴィクの領域だ。狼の牧者たる彼らに無断で、嵐の日に立ち入るなど、無謀なことを」
「……?」
「この森の樫の木は、雷神ペルーンの神木……。どこへ行くつもりだったのかは知らないが、この先は私のザーモクしかない」
 青年は冷ややかな瞳で、そう言った。
「……ザーモク?」
 何もかもが不思議な言葉であったのたが、一番、引っ掛かったのは、その言葉だった。
「――ったく。小鹿でも嵐の日にはおとなしくしているというのに――」
「……けて」
「――ん?」
 仁の薄い呟きは、彼の元まで届かなかったようで――。
「助けて……。先生を……助け……」
 仁はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
 青年の表情が、わずかに、揺れる。
 雨に打たれた仁の弱々しい姿に。
 或いは、哀しすぎるその儚さに……。
「先生を……」
「――。退きなさい。彼を馬車に運ぶ。荷物があるのなら積み替えるといい」
 精霊の領域だというその森は、深い樹木に覆われていた……。




 蒼い閃光に浮かび上がるザーモクは、無骨な山城や城砦クレムリンと違って、美しい居城ドヴォレッツの趣を備えていた。英国貴族の城のような華かさとはまた違っているが、それでも吸血鬼城とは掛け離れたイメージの館である。
 庭園サードには、白樺ベリョースカの並木が続き、とねりこの木ヤーセンが囲み……。
 内装も優美に、タペストリーゴベーレンや肖像画が壁を飾り、北の国らしい家具や調度が並んでいる。
 そして、ホッと出来るだけの明りがあった。
 だが、それでいてどこか殺風景な感じが、した。この嵐が、そう思わせるのかも知れない。
 一つの部屋に通されて、仁は、その部屋の様子に、戸惑った。
「……あなたは、医者ドクトル?」
 と、部屋に並ぶ医療機器を見て、問いかける。
 部屋には、天蓋つきの大きなベッドと、美しい家具調度が並んでいたが、それ以外にも、院内を見るような医療設備が整っていたのだ。
「いや。――この通り、森の奥の屋敷だから、以前は家庭医を置いて、ここに全てを整えていた」
 青年は言った。
 それが真実なのかどうかは判らない。――が、それ以上の説明を訊くこともなく――いや、訊く前に、青年は奥のベッドへと足を向け、春名の傷の手当てを始めた。
「あ、手伝います」
 暖かい暖炉と、毛布。
 この辺りでは、八月でも平均気温は十六度と、日本よりもかなり低い。特に、夜は。
 日本では、今は残暑の盛りで寝苦しい時だが、北海道よりも遥か北に位置するこの街では、その片鱗も窺えないのだ。もちろん、その暑さを避けて、この北国へと来たのだが……。それでも、森の雨は冷た過ぎた。


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