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Karte.8 青い鳥の可不可―迷走

青い鳥の可不可―迷走 1

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 こと息子のことに関しては、とても熱心な母親だったと聞いている。
 一人息子であったこともその理由の一つだっただろうが、勉強にも習い事にもそれはそれは力を入れて、息子の成績が上がれば共に歓び――いや、息子以上に歓び、誰よりも息子を愛していた。
 夫たる外科医師が忙しかったせいもあるだろうが、寂しさを補うための拠り所として、愛情の全てをただただ息子に注いでいたのだ。
 そう珍しいことではない。
 現代では、多かれ少なかれ、そこかしこの家庭で見られる光景である。
 一人息子に限らず、自分の期待に応えてくれる者なら、娘であろうと、次男であろうと、当の本人たちよりも懸命になり、熱心に教育を受けさせようとする母親がいることなど、TVのワイドショーも、週刊誌も、ご近所さんだって知っている。特に精神科医だけが知っているような異常ではなかった。
 ――いや、異常と呼べるようなものでは……。
 だが、当の子供以上に歓び、子供以上に苦悩する――一見、子供思いの母親にしか見えないその姿は、本当にボーダーラインを越えたものではなかっただろうか。




「あ、もう起きて来たんですか、先生? まだ六時ですよ」
 もちろん今日も春名は仕事だが、こんなに早く起きなくても、七時に起きれば充分間に合う。年齢的にも二十代後半という若さで、早く目覚めるような年ではない。
 寝起きの髪を掻きほぐしながらリビングに入って来る長身は、まだ左右に揺れて眠そうである。
 シカゴ大学病院精神医学科に籍を置き、研究を続けると共に患者も持たせてもらっている精神科医としては、毎日、過剰に忙しいのだ。
 そして、まだ早いこの時間に起きて、テキパキと朝食の準備や掃除や洗濯をしている少年の方も、春名に劣らず忙しそうで……。
 こちらはまだ十三、四歳の幼さを留める男の子なのだが、すでに大学生である。
 忙しい春名に、自分の送り迎えまでさせてはいけない――という思いもあって、春名と同じシカゴ大学に籍を置いている。
 この危険な街、シカゴでは、保護者は子供の安全を最優先にしてやらなくてはならないのだ。――といっても、春名は仁の父親ではないのだが……。
「ああ。今日はウォーレンの退院日だからな」
 大きく伸びをしながらの春名の言葉に、
「……ぼくがあんなことを言ったからですか?」
 仁は眉を落として、消沈気味に訊いた。まだ子供ではあるが、大人の事情も解り、それ故に気を遣ってしまう性格なのだ。
「君の勘にはいつも助けられているよ」
「……」
 ――何だか嫌な予感がするんです……。
 ウォーレンの退院が決まった日、仁は胸に湧き上がる《何か》を感じて、春名を前にそう言ったのだ。
 予知――というほど確かなものではないのだが、人々が《虫の知らせ》と呼ぶような、どこか頼りなく曖昧な気持ち……そんな感覚が、ふと心に過って引っ掛かった。
 第六番目の感覚、とでも云うのだろうか。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を超えた、プラスαの感覚――。
 元々、そういった《1=1+α》の能力を有していたこともあって、時折、ふっと過るのだ。
「お陰でこうして用心できる」
 軽く片目を瞑って、春名は言った。
 だから、大丈夫なのだと――。
 春名が用心しているのだから、もう仁が心配するようなことは何もないのだと――。
 そう思っても……。
 どこか不安が拭いきれない朝の始まりで……。


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