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Karte.9 民俗学の可不可―奇習

民俗学の可不可―奇習 25

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 電話が鳴った。
「――え? 結婚しない? なんで?」
 電話の相手はぶっきらぼうに、「何だっていいだろ」みたいなことを吐き捨てたが、何かに腹を立てているようであることは感じ取れた。
「じゃあ、あいつはフリーなんだな?」
 その言葉に相手は、「ああ」と、うなずいた。
 それさえ聞ければ問題はない。
 各家への赤飯は間に合わなくて配られないだろう、ということだったが、こんな小さな村では配られる以前に皆知っていて、あんなものは形に過ぎない。
「ラッキー」
 電話を切り、少年は込み上げる性欲に、股間を握った。
「夜までもたないって、これじゃ」
 何しろ若いのだから、人並み以上に性欲がある。頭の中は、セックスと女の体のことで一杯で、今、抜いたからといって、夜、役立たずになる、ということもない。
「祭りに行かずに残っててよかった。帰って来れない奴らは残念だな」
 早速、ズボンを開いて、自慰に耽る。
「ああ、サラサ……。サラサ……っ!」
 あっと言う間に昇りつめ、屹立した欲望が快楽に満ちた。
 そして、それは彼一人だけではなかった。
 他の動物と違い、年中発情期の人間は、いつも強烈な欲望に飢えている。
 風俗も何もないこんな田舎町では、尚更に……。




「どうかしたのか?」
 そう春名に訊かれ、
「何だか……。いえ、村の人たち、ぼくたちが今夜『離れ』に泊めてもらう、ってことを知ってるんですよね?」
「夜這のことか?」
「先生と旅行に出ると、ロクなことがないですから」
 まさかとは思うが、母屋の方から流れて来る赤飯の匂いと、さっき春名と話していた奇習のことを踏まえて、仁は、早々に打ち消しておきたい言葉を口にした。
 もちろん、春名は大笑いをし、
「忍び込んで来る奴がいたとしても、すぐ気付くだろ」
 もっともである。
 仁一人ならともかく(?)、春名も共に居るのだから。
「彼女は――」
 言いかけた時、離れの外に近づいて来る足音が聞こえ、仁はそれ以上の言葉を呑みこんだ。
 足音の快活なテンポからしても、今、話題に出そうとしていたサラサのものだろう、と予測がつく。
「入ってもいい?」
 声もどこか弾んでいて、晴れやかな空を見上げるようで。
 仁の無神経な言葉で――もとい、女心を解さない言葉で嫌な思いをさせてから、何か気の晴れることがあったのだろうか。
 仁には覚えがないのだから、そんなこととは関係なく、何かいいことがあっただけかも知れない。彼女くらいの年の女の子なら、友だちとお喋りをするだけでも、気がまぎれることもあるだろうから。
「どうぞ」
 春名が返事をするが早いか、サラサが離れに飛び込んで来た。
「私、今、桂一郎さんのところに行って、結婚を断って来たの!」
 と、溌剌とした言葉を口にしたかと思うと、
「私、仁さんのことが好きみたい!」
 澄み切った青空のような瞳で、続けて言った。
「へ?」
「え……?」
 二人して惚けた顔になってしまったのも、無理はない。
 何しろ、彼女とは数時間前に出会ったばかりだったのだから。
 もちろん、恋が時間でないことも知っているし、人を好きになるのに特別な状況は必要ない、ということも解っていたが。それでも、ここまで大胆で明るい告白は初めてで、二人はただ驚かされるしかなかったのだ。
 先に口を開いたのは、春名だった。
「出ていようか?」
 気を利かせての問いかけである。
 だが、サラサは、
「ううん! もう言っちゃったし、二人っきりにされると、返って話せなくなりそうだし」
 どうやら、桂一郎との結婚を断った後の高揚感で、怖いものなしになっているらしい。
「あの、ぼくは……」
 確かにサラサは可愛いし、仁と違って快活で、惹かれる部分はたくさんある。
 それでも仁は、ずっとここにいられるわけでもないし、春名がいなければ……また、色々なものが視え、聞こえるようになるかも知れない。
 いや、そんなことは関係ない。春名以上に仁のことを理解し、共に居たいと思える人間がサラサか、と問われれば、それは……。
 仁が返答に困っていると、
「いいの。まだ中学生だし、大学に入ったらきっと東京に出て――ううん、寮制の高校に入って、この町を出るの。その決心がついたから、私、今、ものすごく心が軽くて――。いつか私が行くのを待っててね! 必ず行くから」
 サラサは淀みのない口調で一気に言うと、また、嬉しそうに笑顔を作った。
 何と言っていいのか判らなかったが、春名も口を挟まなかったので、
「……うん」
 仁はやっと、それだけを言った。
 これでは、どちらが年上だか判らない。――いや、恋の上では、サラサの方が間違いなくしっかりしていただろう。そう思っていたのだ、その時は、まだ……。
 サラサが少女マンガのような恋愛に憧れていることなど、仁は知りもしなかったのだから。
 まるで、この村の奇習から目を逸らすように……。


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