上 下
271 / 350
Karte.12 性同一性障害の可不可―違和

性同一性障害の可不可―違和 6

しおりを挟む


 LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)を抱える仲間たちが集う其処は、雑居ビルの一角にあり、皆で語らう空間と、奥に更衣室――狭苦しいところだが、どこよりも落ち着ける場所だった。
『 Xセオリー 』
 それがクラブの名前だった。
 もちろん、荘司は、あれから顔を出してはいなかったが……。
『Xセオリー』では、荘司は『梨花りか』と名乗っていた。最初は照れ臭かったが、皆がその名前の方が、荘司などという男っぽい名前よりも似合っている、と言ってくれたので、今ではその名前の方が本来の自分の名前のような気がしていた。
 そこへ通うようになって三カ月――。
 飲食代以外は、月三千円の会費だけで済むので、高校生の荘司――梨花には嬉しい限りだった。クラブに用意してある服は、その部屋で好きに着てもいいが、その内、自分でも気に入った服を買うようになった。手術費用を貯めなくてはならないので、そんなに高いものは買えなかったが、それでも、小さい頃から着たくてたまらなかった女の子の服を、自分で買って身に付けられることが、何よりも幸せで楽しかった。
 何より、そのクラブの会員たちは、小学校、中学校、高校で自分を虐め、変態呼ばわりして来た同級生、上級生たちとは違い、皆、優しくて、自分のことを解ってくれた。そして、梨花も解ってあげられた。
 中には、精神病質な部分が見える人たちもいたが、それでも、そんなことには目を瞑れるほど、そこは解放された空間だったのだ。
 あの日までは――。
 あの日……。
 つい、衝動的に、自分でこの忌まわしい男性生殖器を傷つけてしまった、あの日……。




 寺島圭吾てらしまけいごは、LGBTを抱える『Xセオリー』の会員ではなかったが、そのクラブのスタッフの一人として、会員たちから「圭ちゃん」「圭さん」と呼ばれて、人気があった。カッコイイとか、男前とかいうのではなく、いかにも優しそうな柔和な笑みと、なんでも「うんうん」と聞いてくれる変わらない姿勢が、彼の人気を絶大なものにしていたのだ。
 もちろん、梨花も圭吾に惹かれていた。学校で自分を虐めるクラスメイトたちとはまるで違って、梨花を女の子として接してくれ、本当に自分が生まれながらの女の子であるかのような気分にさせてくれたのだ。
 そして、女の子として、圭吾のことを愛してしまった。
 まだ十七歳の梨花にしてみれば、それはただ真っすぐで賢明な想いだったが、普段、学校や家で自分の気持ちを抑えていたため、『Xセオリー』での自分を抑えることが出来なかった。――いや、「好きだ」と伝えることこそしなかったが、梨花の様子を見ていれば、誰もがその思いに気づいていたに違いない。
 だが、そんな気持ちを秘めていたのは梨花だけでなく……。
 恐らく、『Xセオリー』に通う半数以上の会員が、圭吾に好意を抱いていただろう。
 レズビアン以外――ゲイ、バイ、トランスジェンダー――いや、レズの中にも、圭吾なら……、という会員だっていたかも知れない。二十代半ばと言われればそうも見えるし、三十を過ぎていると言われればそう見える優しい面貌で、自分の望む言葉をかけられ続ければ……。
「圭ちゃん」
 梨花はまだ「圭さん」としか呼べないのに、美野里みのりは圭吾のことをいかにも親しげに「圭ちゃん」と呼んでいて……。
 三つ四つ年上の美野里は、梨花と同じトランスセクシャル――服や化粧だけでなく、性器を含めた体も女になりたいと願う一人だった。美野里がバイトをしてお金を溜めていることは知っていたし、それがホルモン療法と外科的な手術でより女性的な体になるためのものであり、最終的には睾丸やペニスを切除し、女性器を形成する性別適合手術の費用のためであることも、知っていた。だから、美野里が、
「ついに、体も女になれるのよ」
 と、言っているのを聞いても、「ああ、そうなんだ」と思っただけで――そりゃ、少しは羨ましかったが――いや、本当は美野里よりも自分の方が可愛いから、女になったら絶対に圭吾に振り向いてもらえると思っていた。
 それが――。
「圭ちゃんがね、紹介してくれたの」
 その言葉を聞いた時、なぜ自分ではダメだったのだろう、と目の前が急速に暗転し、頭の中にぐるぐると様々な思いが渦巻いた。
 ――圭吾が、美野里に……。
 もちろん、梨花はまだ高校生で、美野里は二十歳を過ぎた大人だったのだから、冷静に考えれば当然のことだったのだが、あの時は、まるで、圭吾と美野里が二人で結婚式を上げてしまうような気さえして、ただただショックを受けてしまったのだ。
 手には、小さなケーキフォークを握っていた。『Xセオリー』で注文した、可愛らしいケーキセットについていたものである。だから――。たまたま、そんなものを手にしていたから、だったかも知れない。
 どうしても、自分の体についている、この恥ずかしいモノが我慢できなかった。
 トイレで――震える手で、突き刺した。
 怖くて、痛くて、貫けなかった。それでも、貫くまで気が治まらなかった。
 一突きの傷だけで済んだのは、フォークを持ったままトイレに入る梨花の姿を不審に思った叔父――ここでは『志野』と名乗っている――が、不審に思って様子を見に来たためだった。
 そして、すぐに病院に連れて行かれて……。いや、抵抗し、どうしても行かなくてはならないのなら服を着替える、と言い張って、少し時間はかかってしまったが。
 傷口が膿んで、腐り落ちてしまえばいいのに――本気でそう考えていた。
 こんなモノ、ただ恥ずかしくて仕方がないだけのモノなのに……。
 トイレでの出来事だったので、皆に知られる騒ぎにはならなかったが、もう『Xセオリー』に顔を出すことは出来なくなってしまった。誰かが知っているかも知れない、と思うと怖かったし――いや、それ以上に、真剣に自分の悩みを聞いてくれ、専門的なアドバイスをもらえる主治医が出来たことで、今はそちらに比重が傾いていたのだ。
 日本で手術を受けることが出来れば、海外で受けるよりも、金銭的にも精神的にも言葉の面でも――何から何まで安心だし、信頼できる。無論、海外と比べて経験値も対応可能な病院も少ないことは承知しているが。
 それでも――。
 それでも、あの青年精神科医は、梨花の不安をすべて取り除いてくれるほどに優しく、素敵な人だった……。


しおりを挟む

処理中です...