万聖節悲哀話【完結】

竹比古

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失恋話 Ⅲ

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「可愛い子だったんだ」
 ビルは言った。
 酒のせいだけでなく、目が赤い。
「庭に車が出してあるだろう? おれは今日、その車にあの子を乗せてやるつもりだったんだ」
 そう言って、ビルは、グイ、っとウイスキーを飲み干し、また、グラスの中へと注ぎながら、取り憑かれたように喋り始めた。
「おれは小さい頃から恵まれていて、一流の生活、一流の教育、一流の身のこなし……何でも不自由なく持っていた。あの車もそうだ。九月の始めに買い替えたばかりなんだよ。――知ってるだろ? 前の車も悪くなかったが、今の車の方がずっと気に入っている。その車に、汚い手で触ろうとしていたガキがいたんだ。まだ買い替えたばかりの頃だよ。おれは、仕事の付き合いもあって、たくもない個展に連れ出されていた。それでも、買ったばかりのあの車に乗って出掛けることができて、ちょっと気分が良くなっていたんだ。だが、その気分の良さも、その薄汚いガキのせいで吹き飛んだ。おれはすぐに、
『何をしているんだっ!』
 って、そのガキを怒鳴りつけてやったよ。まだ小さい子供なんだ。近くで見ると、思っていたよりもずっと小さくて、何もそんなデカイ声で怒鳴ることはなかったな、って、後悔したんだ。だけど、前にも車に傷をつけられたことがあったから、おれも甘い顔はしなくて――。覚えているだろう? 白のベンツに乗っていた時だ」
「ああ」
 ぼくが応えると、ビルはまたウイスキーを、グイ、っと煽り、息苦しそうに噎せ返った。
 多分、ぼくが腕の時計を垣間見たことにも気づいていなかっただろう。
「おれは、そのガキもてっきり車にイタズラをしに来たんだと思って、優しい言葉で追い払うこともせず、思いっきりきつい視線で睨みつけてやったんだ。小さな子供といっても、この街じゃあ、そんな子供がマリファナやコカインをやってることなんて珍しくもないからな。――だけど、そのガキは、おれが睨みつけるのを見ても逃げもせず、へへェ、と頭を掻いて笑ったんだ。こいつは脳みそが足りないんじゃないか、って思ったよ。おれが子供の頃なんか、大の大人に上から睨みつけられたら、怖くなって走って逃げたさ。最近のガキは、そんなことじゃ逃げないんだ。それどころか、
『このくるま、ぴかぴかだね。すごくきれいだね』
 って、でっかい目をキラキラさせて言うんだ。ハッ、とするほどに可愛い顔をしてさ。アクアマリン、ってあるだろ? その宝石みたいにきれいなブルーの瞳で、髪は眩しいくらいの赤毛で――。ああ、この子はきっと、大きくなったら金髪になるんだろうな、って思ったよ」
 そこまで言って、ビルは思い出すように瞳を閉じ、しばらく自分の時間に浸っていた。
 ぼくは、といえば、帰ってしまう訳にも行かず、仕方なく冷蔵庫から氷を取り出し、水割りを作って飲み始めた。話がすぐには終わりそうにない、と諦めたのだ。
「そのガキはさァ……」
 と、ビルがまた話を始める。
「そのガキは、とんでもない馬鹿なんだよ。人に怒られてる、ってことが解っていないんだ。普通なら、車の持ち主が戻って来た時点で、ああ、自分はもうこの車から離れなくちゃならないんだな、って判断するだろ? だけど、そのガキは離れないんだ。汚い手でベタベタ触ろうものなら、また怒鳴りつけて追い払ってやろうと思ったけど、触りもせずに、ただ眺めているだけなんだ。――で、おれも無下に追い払うことも出来なくて、さっき怒鳴りつけたことも、何だか酷く悪いことをしたような気がして――いや、本当は悪いなんてこれっぽっちも思っていなかったかも知れないけど、とにかく、おれが悪者になるのは厭だったから、
『車が好きなのか?』
 って、聞きたくもないことを訊いてやったんだよ。そうしたら、とびきりの笑顔でうなずくんだ。でも、その後すぐに、照れるようにはにかんで、本当は、こんな凄い車を見るのは初めてで、珍しくて見ていた、って言うんだ。そんなこと言われなくても、おれには最初から解っていたさ。薄汚れた、見窄らしい浮浪児みたいなガキが、黒塗りの高級車になんか乗ったことがあるはずないんだからさ。もちろん、近くで見たことだってないだろう。おれは心の底から、そのガキを馬鹿にしたよ。バワリーにいる貧困層の白人の子だろう、と。このまま大きくなったって、学校にも行かず、ドラッグに溺れて、ギャングか麻薬中毒者ジャンキーになるだけの子供なんだ。人間のクズだよ」
 吐き捨てるように言っておきながら、ビルは、こぶしが白くなるほどに、きつく指を結んでいた。



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