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撥ねられた男

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「――雑誌に載っているような、ゴージャスなマタニティ・クリニックで産むと、どれくらいの費用がかかるのかしら?」
 心弾ませるように、紗夜さやが言った。
 自宅からほど近い公立病院の産婦人科で、ついさっき、妊娠を告げられたばかりの帰路である。妊娠する心当たりもあり、その兆候もあり、今日、こうして自宅から一番近い総合病院に、夫婦で訪れていた晩秋。――といって、昨今の個人病院の自費診療費の高さが不安で、わざわざ公立の病院を選んだわけではない。最近は産科医の過酷な勤務事情から、個人の産院が減り、入院出産が出来る産科医院が減少しているために、ここが一番近かった、というのが、まず一番の理由である。
 で、二番目が診療費で……。やはり、それも考えておかなくてはならない。家のローンだってあるし、車だって子供が出来たら買い替えたい。教育費用もかかるだろうし、家族が増えたからには、保険だって見直さなくては――。雑誌に載るようなマタニティ・クリニックで出産し、豪華な個室と、有名レストランのような食事メニュー、母乳のケアや体形回復のためのあれこれまで請け負ってもらえれば、そりゃ満足しない妊婦はいないだろうが……。
 郡司秋良ぐんじあきらは、まだ少しも目立っていないおなかに手を当てて、あれこれと途切れることなく話し続ける妻の紗夜の姿を垣間見た。
 幸せだった。
 結婚して半年と経たずに、またこうして幸福を告げられて、次々に歓びが舞い込んで来る今の自分に、この先、不幸が訪れるなど、微塵も思いはしなかった。
 K大学の法医学教室では、まだ下っ端の駆け出しだが、自分が選んだ道を誇りに思っていたし、自分に寄り添ってくれる妻の紗夜のことも、何よりも大切に思っていた。
 そして今は、そのおなかの中に宿る命も……。
 こんな幸福が、一瞬で掻き消えてしまうなど、一体、誰が考えただろうか。
 少し離れた駐車場へと向かい、道路沿いを二人並んで歩いている時だった。
 何の前触れもなく、ドスン、という重い音が響き渡ったかと思うと、黒い影が宙を舞った。
 何が起こったのかは、解らなかった。歩道と車道は完全に分けられていたし、信号や横断歩道はまだ先で――かと言って、車の切れ目を待って道を渡ろうとしている人影もなかったように思う。言うなれば、その男は、いきなり車道の真ん中に現れて、走って来た車に撥ね飛ばされてしまったのだ。
「嘘――。何? 事故?」
 紗夜も、目の前で起こった不意の事故に、信じられない様子で目を瞠っている。
 もちろん、信じられなかったのは郡司秋良にしても同じことで――。紗夜は話に夢中で見ていなかったのかも知れないが、撥ねられた男は、確かに車道を横切っていたわけではなく、唐突に車の前に現れたのだ。……いや、本当に? しゃがみ込んでいたか何かして、気づかなかっただけではないだろうか。
 だが、それならば一体、何のためにしゃがんでいたと言うのだろうか。
 いや、そんな詮索は後でいい。
「救急車を呼ぶから、君は先に帰っていてくれ」
 携帯を操作しながら、郡司は言った。その時、妻の紗夜の方を見て言ったかどうかは覚えていない。チラ、と見たような気もするし、事故の現場の方に気を取られて、少しも振り返っていなかったような気もする。ただ、妊娠が判ったばかりの妻には、こんな現場は見ないでいて欲しい、と思ったことは確かだった。
 郡司の方は死体にはそれなりに慣れているが、誰かが死体になるかも知れない瞬間を目にするのは、子供時代の祖父の死以来、久しぶりのことだった。もちろん、ただの交通事故死なのだから、この遺体がK大学の法医学教室に回って来ることはないだろうが……。
 各地の大学にある法医学教室へ司法解剖のために運ばれて来る遺体は、犯罪性のある死体と決まっている。犯罪性のない死体は、自然死なら病院で死亡診断書が発行されることになるし、変死の場合は東京二十三区なら監察医が死体検案書を書くことになっている。もちろん、この変死という枠には交通事故死も入っていて――。たとえ死亡を確認した医師であろうと、変死体である限り、死亡診断書は書けないのが決まりである。
 そんなことを考えながら119番に事故の状況を告げ、
「その人が飛び出したところは……見ていません」
 肝心の原因に関しては、そう応えることしか出来なかった。見た時には、男は車道にいたのだと――。それだけが事実だったのだから。
 車から降りてきた運転手は、
「急に目の前に現れたんだ! 避けようがなかった!」
 と、呟き半分、叫び半分で訴えていた――が、周囲の視線は冷たかった。
 だが、郡司の目にも、運転手が見たのと同じように見えていたのだ。男は慎重に道路を横切ろうとしていたわけではなく、ましてや運転手がよそ見をしていて気づかなかった訳でもなく、突然、道路の真ん中に現れたのだと――。
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