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柴田が去ってしまったので、薄暗い倉庫で北条と二人きりになってしまった。
人の気配のない倉庫はしんと静まり返り、廃墟のような不気味さ感じる。
柴田が消えた途端に落ち着きのなくなった健吾に気付き、「もう一つだけ用を済ませたら、すぐに出よう」と北条が告げた。
もう一つって?と健吾が首を傾げていると、驚かせないように北条がそっと腕を伸ばしてきた。
そのまま抱き寄せられ、健吾は大きな体にすっぽりと包み込まれる。
突然のことに少し驚いたものの、北条と密着するのもだんだん慣れてきて、心は落ち着いている。
それどころか、北条の腕の中におさまっているのはとても心地よく、安心できた。
「俺が怖いか?」
北条の問いに「怖くないよ」と答えると、ご褒美のように背中をポンポンと叩かれる。
「最初に会った時、俺を見て身構えただろう?普通、男は男に対してそんな反応はしない。この人は体の大きい男が怖いんだなと、その時思った。襲った相手は、大きな男だったんだな?」
北条の言葉に3日前の忌まわしい記憶が甦り、健吾の体がぶるりと大きく震える。
思い出したくなくて、記憶を消し去りたくて、思わずすがるように北条の背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。
「森本さん、俺の匂いを覚えてくれ。俺は身辺警護につくときは必ず、同じトワレしかつけない。何故だかわかるか?」
北条の肩口に額を押し付け、心を落ち着かせるように深く息を吸うと、今まで意識していなかった北条のトワレの香りが鼻孔をくすぐった。
「暗闇で襲われても、俺は必ずそばにいて助ける。だけど、暗闇で抱きすくめられたり、上から覆いかぶさった相手が俺だと判断できなければ、恐怖でパニックに陥る可能性が高い」
違うか?と聞かれて、違わない、と頷く。
北条は、健吾が暗闇で襲われたことを聞かされて知っているのだろう。
今の精神状態で暗闇に放り込まれでもしたら、冷静でいられるわけがない。
暗闇で触れた相手が誰だか分らなかった場合、パニックに陥ることはまず間違いなかった。
「人間は視覚に頼りがちだが、他の感覚だって意外と敏感だ。俺の匂い、声、体温、気配を記憶していれば、たとえ暗闇でも、そばにいるのが俺だとわかるようになる」
北条のスキンシップの多さは、自分の気配と匂いを警護対象者に覚えさせるためなのだろうか。
腰を抱かれた時は、男相手にここまでするものなのかと不審に思ったのだが、そういった理由があったのならば納得できる。
でも、と、ふとひっかかりを覚えて、「あのさ」と口を挟む。
「もしかして北条さん、毎回警護する相手全員をこうやって抱きしめて説明してるの?若い女の子相手ならラッキーだけど、太って脂ぎってるおじさんとか相手でやだなーって思っても、いちいち頑張ってやってるの?」
うっかりその様子を想像する。
かわいい女の子相手ならいい。おばちゃんも許容範囲。けれど禿げてる肥満のおじさんとハグ……。
いくら仕事の為でも、健吾だったらちょっと嫌だ。ボディガードって大変な仕事なんだな。
健吾がそう言うと、北条の気配がびきりと凍り付いた。
「っ!!痛いっ!!!痛い痛い!!」
大きなため息が聞こえたかと思ったら、いきなりこめかみに激しい痛みを覚えた。
北条が、顔を顰めながらげんこつで健吾のこめかみをグリグリと挟んでいる。
「俺が真面目に話してるのに、どうしてそういうくだらない事を思いつくんだ?茶化して楽しいか?」
「ごめんっ!ごめんなさいってば!茶化してません!ちょっと疑問に思っただけだよ!許して!」
あまりの痛さに涙目で許しを請うと、北条は仕方ないといったように手を離し、やれやれと苦笑をこぼしながら健吾の乱れた髪をやさしく手ぐしで整えた。
「女性には基本的にしない。訴えられても困るし、それに大抵の女性は、男性よりも嗅覚をはじめとする他の感覚が優れてるんだ。勘がいいというか……女性はしばらく一緒にいれば、自然に俺の匂いや気配を覚える」
そうなんだ、と、健吾はふむふむと頷く。
確かに、女性は勘が鋭い。脳幹の太さに男女で違いがあって、周囲の状況を脳内に取り込んで判断する能力に長けているからだと聞いたことがある。
「普通は男にもしないな。森本さんは特殊ケースだ」
グリグリされたこめかみをさすりながら、「特殊ケース?」と聞き返す。
「男が警護対象な時は暗殺や銃殺の対象であることが多いから、まず警護方法が違う。森本さんは特定の誰かに命を狙われ、しかもそれが自宅で起きてる。女性の身に起きるストーカー殺人のケースに近い。犯人は今度も森本さんを直接害しようとするだろう」
北条の言葉に、健吾の体が不安にふるりと震える。
「怖がらなくていい。そのために俺がいるんだろう?」
大丈夫、必ず守るから、と北条の手がやさしく健吾の顔に触れた。
長い指の背が、目尻からこめかみを伝った先ほどの涙の跡を辿っていく。
必ず守ると言い切った北条から、健吾はふと目を反らした。
信頼関係を築かないといけない相手であるはずの北条に、隠している事がある。
その後ろ暗さから滲み出る不安が、これから先、北条と健吾の間に溝を生むのではないだろうか。
直接目撃した清文だけが知っている、他には明かされていない、隠されたあの日の出来事。
襲われた後、意識を失った健吾は病院に運ばれ、手当てを受けた。
状況を見て性的暴行は未遂だったと判断した清文は、医者にも警察にもその事実を話さなかった。健吾もまた、清文が口をつぐんでくれた事実を隠し通した。
だから警察や事務所は、殺害予告が出ていたこともあり、健吾が襲われて殺されかけたのだと思っている。
ゴシップ情報はどこから漏れるかわからない。
殺害予告という、話題にはのぼるが誰もがすぐに忘れてしまうような、話題にのぼることで逆に知名度が上がって人気が出るような、襲われてもうすっぺらい同情をかうだけのそんな事件に比べて、強姦というダークなイメージがつきまとう事件の被害者だと取り上げられてしまったら、最悪の場合仕事を失うことも考えられた。
日本という国は、性的犯罪の被害者に誠実ではない。
しかし、健吾は清文の判断に感謝したものの、これでいいのだろうかとずっと迷っている。
事実を隠しているという罪の意識にさいなまれ、それがさらに不安のループを生み出している事をわかっていながら、それでも誰かに打ち明ける勇気は湧いてこなかった。
健吾の命を守るために身を挺してくれる北条に、事実を隠したままでいいのだろうか。
健吾の目が迷いに揺れたのを見て、どうした?と北条が手を止めた。
強姦されそうになったと言ったら、この男はどう思うのだろう。
男のくせに抵抗できなかったのか、と軽蔑するだろうか。
保身の為に事実を隠した健吾を汚いと思うだろうか。
殺されるわけではないとわかれば、警護の仕事を外れる事になるのだろうか。
考えれば考えるほど、北条に明かしてよいものなのかどうか、判断がつかなくなる。
健吾が口をつぐんでいると、目尻に滑らせていた北条の指が頬を伝って唇に降りて、スッと指の背で撫でていく。
泣いている相手をなだめるような甘さを伴う行為に、健吾は戸惑って目を伏せた。
そんな風にしてもらえるほど、自分は綺麗な人間じゃない。
北条は今は健吾に触れてくれるが、男に凌辱されそうになったと聞いたら、この手を引くのではないだろうか。
「嫌なら別に言う必要ないが……何を聞いても俺は別に変らないぞ?」
健吾が言い出しにくい何かを告げようか迷っている事を、この男はとっくに悟っているのだろう。
触れていた健吾の下唇をきゅっと指先でつまみながら、北条がやさしく笑う。
「俺は森本さんを守ると決めてる。初めて会った時からもう決めてた気がするな。やつれ果ててる姿がかわいそうで見ていられなかった。そばについてやれたらこんな顔はさせないのに、と思った」
あまりこういう事はないんだ、と微笑み、今度は健吾の頬にそっと手を添える。
「こういう仕事をしてても、心から守りたいと思う相手に出会えることは滅多にない。どこかで仕事だと割り切ってしまう。俺は、森本さんに出会えたことに感謝してる」
だから安心していい、と北条は言う。
そのまま顔を両手できゅっと包まれ、戻ろうか、と促された。
踵を返す北条の袖を、気づけばつかんで引き止めていた。
今言わなければ、もう二度と口にできない。
そう思い、叫ぶように「俺、レイプされそうになったんだ」と告白する声は、ひどく震えていた。
北条が虚を突かれたように、動きを止める。
「家のドアを開けたらなんか変で、そしたら電気が消えて、男に圧し掛かられた」
北条が何か言いかけるのをさえぎり、早口でまくし立てる。
そうしないと言えなくなると思った。
「ズボン脱がされて、顔にナイフ押し付けられて、騒いだら殺すって……」
「森本さ……」
「下の写真撮られて、尻の穴舐められて、そしたらあいつがっ……」
最後まで言い切れなくて、ひゅっと音を立てて息を吸い込む。
言わなければ……今すぐ言わなければと思うのに、声が出てこない。
「健吾、もういい。止めろ」
唸るように低い北条の声にさえぎられたかと思うと、いきなり、背中がしなるほど強く抱きすくめられた。
はっとして体を強張らせるが、鼻先をかすめる北条のオードトワレの香りと、大きくて温かなものに包まれる安心感に急激に体から力が抜けていく。
「悪かった。もう言わなくていい」
もうわかったから、と、落ち着かせるように耳元でゆっくりと北条が囁く。
脱力した健吾は、自分で立っていることができずにかくりと膝から崩れ、北条に抱え上げられて、力なく抱き着いた。
「……俺、汚い?黙ってたこと軽蔑する?」
話したことが正しかったかどうか自信が持てず、言うべきではなかったかもしれないという後悔の念と、軽蔑されたかもしれないという思いで、胸が潰れそうな程苦しい。
「アメリカでレイプ犯罪が多いのは知ってるか?被害にあうのは女性だけじゃない。男性被害者も多いんだ。男はなにかと上下つけたがるし、相手を自分の下に位置づけするのに、レイプは一番手っ取り早い手段なんだ」
難なく健吾を抱き上げながら、北条は子供相手にするように、額をこつんと健吾にぶつけた。
「女性被害者にも男性被害者にも、等しくケアプログラムが組まれる。意にそぐわない相手に性行為を強要されると、自分は汚れたと感じるんだ。レイプは心の殺人とも言われてる。誰にも話せず、今まで一人で辛かっただろう」
北条の唇が寄せられ、そのままそっとこめかみにキスをされた。
健吾が驚いて顔を向けると、やさしく微笑む北条と鼻先がこすれあった。
「健吾はひどく庇護欲をそそるな。迷子になってる小さな子供みたいだ」
男にされるなんてまっぴらごめんなはずなのに、北条が何度もこめかみや頬にキスを落とすのが心地いい。
外国暮らしが長いからなのか、キスがすごく自然で嫌味がない。
何度もされているうちに幼い頃に戻ったような気持ちになり、恥ずかしいのと同時に、甘やかされているという幸福感で満たされていた。
途端にどっと疲労が押し寄せ、健吾のまぶたがとろんと落ちてくる。
北条のキスには、催眠効果があるのかもしれない。
「北条さん……なんか俺、すごく眠い……」
逆らえないほどの強烈な眠気にくらりと視界が揺れる。
なんとか声を絞り出して眠いことだけ伝えると、北条は今度は瞼にキスを落とす。
北条にキスをされると、自分は汚れてなんていないと思えてホッとした。
「蒼馬だ、健吾」
ぐらぐらと世界が歪みはじめ、思わず目を閉じると、耳に北条の心地よい声が届いた。
「……蒼馬?」
そうだ、と北条が頷く気配がする。
「このまま眠っていい。ずっと寝てないだろう?そばを離れないから、少し眠れ」
そう言われたのを最後に、健吾の意識は急激に現実から遠ざかっていく。
ことん、と頭を北条の肩にもたせ掛け、その後の記憶はほとんどない。
けれど意識が途切れたあとも、体が心地よくゆらゆらと揺れているのを、夢の中で感じていた。
人の気配のない倉庫はしんと静まり返り、廃墟のような不気味さ感じる。
柴田が消えた途端に落ち着きのなくなった健吾に気付き、「もう一つだけ用を済ませたら、すぐに出よう」と北条が告げた。
もう一つって?と健吾が首を傾げていると、驚かせないように北条がそっと腕を伸ばしてきた。
そのまま抱き寄せられ、健吾は大きな体にすっぽりと包み込まれる。
突然のことに少し驚いたものの、北条と密着するのもだんだん慣れてきて、心は落ち着いている。
それどころか、北条の腕の中におさまっているのはとても心地よく、安心できた。
「俺が怖いか?」
北条の問いに「怖くないよ」と答えると、ご褒美のように背中をポンポンと叩かれる。
「最初に会った時、俺を見て身構えただろう?普通、男は男に対してそんな反応はしない。この人は体の大きい男が怖いんだなと、その時思った。襲った相手は、大きな男だったんだな?」
北条の言葉に3日前の忌まわしい記憶が甦り、健吾の体がぶるりと大きく震える。
思い出したくなくて、記憶を消し去りたくて、思わずすがるように北条の背中に腕を回してぎゅっと抱きついた。
「森本さん、俺の匂いを覚えてくれ。俺は身辺警護につくときは必ず、同じトワレしかつけない。何故だかわかるか?」
北条の肩口に額を押し付け、心を落ち着かせるように深く息を吸うと、今まで意識していなかった北条のトワレの香りが鼻孔をくすぐった。
「暗闇で襲われても、俺は必ずそばにいて助ける。だけど、暗闇で抱きすくめられたり、上から覆いかぶさった相手が俺だと判断できなければ、恐怖でパニックに陥る可能性が高い」
違うか?と聞かれて、違わない、と頷く。
北条は、健吾が暗闇で襲われたことを聞かされて知っているのだろう。
今の精神状態で暗闇に放り込まれでもしたら、冷静でいられるわけがない。
暗闇で触れた相手が誰だか分らなかった場合、パニックに陥ることはまず間違いなかった。
「人間は視覚に頼りがちだが、他の感覚だって意外と敏感だ。俺の匂い、声、体温、気配を記憶していれば、たとえ暗闇でも、そばにいるのが俺だとわかるようになる」
北条のスキンシップの多さは、自分の気配と匂いを警護対象者に覚えさせるためなのだろうか。
腰を抱かれた時は、男相手にここまでするものなのかと不審に思ったのだが、そういった理由があったのならば納得できる。
でも、と、ふとひっかかりを覚えて、「あのさ」と口を挟む。
「もしかして北条さん、毎回警護する相手全員をこうやって抱きしめて説明してるの?若い女の子相手ならラッキーだけど、太って脂ぎってるおじさんとか相手でやだなーって思っても、いちいち頑張ってやってるの?」
うっかりその様子を想像する。
かわいい女の子相手ならいい。おばちゃんも許容範囲。けれど禿げてる肥満のおじさんとハグ……。
いくら仕事の為でも、健吾だったらちょっと嫌だ。ボディガードって大変な仕事なんだな。
健吾がそう言うと、北条の気配がびきりと凍り付いた。
「っ!!痛いっ!!!痛い痛い!!」
大きなため息が聞こえたかと思ったら、いきなりこめかみに激しい痛みを覚えた。
北条が、顔を顰めながらげんこつで健吾のこめかみをグリグリと挟んでいる。
「俺が真面目に話してるのに、どうしてそういうくだらない事を思いつくんだ?茶化して楽しいか?」
「ごめんっ!ごめんなさいってば!茶化してません!ちょっと疑問に思っただけだよ!許して!」
あまりの痛さに涙目で許しを請うと、北条は仕方ないといったように手を離し、やれやれと苦笑をこぼしながら健吾の乱れた髪をやさしく手ぐしで整えた。
「女性には基本的にしない。訴えられても困るし、それに大抵の女性は、男性よりも嗅覚をはじめとする他の感覚が優れてるんだ。勘がいいというか……女性はしばらく一緒にいれば、自然に俺の匂いや気配を覚える」
そうなんだ、と、健吾はふむふむと頷く。
確かに、女性は勘が鋭い。脳幹の太さに男女で違いがあって、周囲の状況を脳内に取り込んで判断する能力に長けているからだと聞いたことがある。
「普通は男にもしないな。森本さんは特殊ケースだ」
グリグリされたこめかみをさすりながら、「特殊ケース?」と聞き返す。
「男が警護対象な時は暗殺や銃殺の対象であることが多いから、まず警護方法が違う。森本さんは特定の誰かに命を狙われ、しかもそれが自宅で起きてる。女性の身に起きるストーカー殺人のケースに近い。犯人は今度も森本さんを直接害しようとするだろう」
北条の言葉に、健吾の体が不安にふるりと震える。
「怖がらなくていい。そのために俺がいるんだろう?」
大丈夫、必ず守るから、と北条の手がやさしく健吾の顔に触れた。
長い指の背が、目尻からこめかみを伝った先ほどの涙の跡を辿っていく。
必ず守ると言い切った北条から、健吾はふと目を反らした。
信頼関係を築かないといけない相手であるはずの北条に、隠している事がある。
その後ろ暗さから滲み出る不安が、これから先、北条と健吾の間に溝を生むのではないだろうか。
直接目撃した清文だけが知っている、他には明かされていない、隠されたあの日の出来事。
襲われた後、意識を失った健吾は病院に運ばれ、手当てを受けた。
状況を見て性的暴行は未遂だったと判断した清文は、医者にも警察にもその事実を話さなかった。健吾もまた、清文が口をつぐんでくれた事実を隠し通した。
だから警察や事務所は、殺害予告が出ていたこともあり、健吾が襲われて殺されかけたのだと思っている。
ゴシップ情報はどこから漏れるかわからない。
殺害予告という、話題にはのぼるが誰もがすぐに忘れてしまうような、話題にのぼることで逆に知名度が上がって人気が出るような、襲われてもうすっぺらい同情をかうだけのそんな事件に比べて、強姦というダークなイメージがつきまとう事件の被害者だと取り上げられてしまったら、最悪の場合仕事を失うことも考えられた。
日本という国は、性的犯罪の被害者に誠実ではない。
しかし、健吾は清文の判断に感謝したものの、これでいいのだろうかとずっと迷っている。
事実を隠しているという罪の意識にさいなまれ、それがさらに不安のループを生み出している事をわかっていながら、それでも誰かに打ち明ける勇気は湧いてこなかった。
健吾の命を守るために身を挺してくれる北条に、事実を隠したままでいいのだろうか。
健吾の目が迷いに揺れたのを見て、どうした?と北条が手を止めた。
強姦されそうになったと言ったら、この男はどう思うのだろう。
男のくせに抵抗できなかったのか、と軽蔑するだろうか。
保身の為に事実を隠した健吾を汚いと思うだろうか。
殺されるわけではないとわかれば、警護の仕事を外れる事になるのだろうか。
考えれば考えるほど、北条に明かしてよいものなのかどうか、判断がつかなくなる。
健吾が口をつぐんでいると、目尻に滑らせていた北条の指が頬を伝って唇に降りて、スッと指の背で撫でていく。
泣いている相手をなだめるような甘さを伴う行為に、健吾は戸惑って目を伏せた。
そんな風にしてもらえるほど、自分は綺麗な人間じゃない。
北条は今は健吾に触れてくれるが、男に凌辱されそうになったと聞いたら、この手を引くのではないだろうか。
「嫌なら別に言う必要ないが……何を聞いても俺は別に変らないぞ?」
健吾が言い出しにくい何かを告げようか迷っている事を、この男はとっくに悟っているのだろう。
触れていた健吾の下唇をきゅっと指先でつまみながら、北条がやさしく笑う。
「俺は森本さんを守ると決めてる。初めて会った時からもう決めてた気がするな。やつれ果ててる姿がかわいそうで見ていられなかった。そばについてやれたらこんな顔はさせないのに、と思った」
あまりこういう事はないんだ、と微笑み、今度は健吾の頬にそっと手を添える。
「こういう仕事をしてても、心から守りたいと思う相手に出会えることは滅多にない。どこかで仕事だと割り切ってしまう。俺は、森本さんに出会えたことに感謝してる」
だから安心していい、と北条は言う。
そのまま顔を両手できゅっと包まれ、戻ろうか、と促された。
踵を返す北条の袖を、気づけばつかんで引き止めていた。
今言わなければ、もう二度と口にできない。
そう思い、叫ぶように「俺、レイプされそうになったんだ」と告白する声は、ひどく震えていた。
北条が虚を突かれたように、動きを止める。
「家のドアを開けたらなんか変で、そしたら電気が消えて、男に圧し掛かられた」
北条が何か言いかけるのをさえぎり、早口でまくし立てる。
そうしないと言えなくなると思った。
「ズボン脱がされて、顔にナイフ押し付けられて、騒いだら殺すって……」
「森本さ……」
「下の写真撮られて、尻の穴舐められて、そしたらあいつがっ……」
最後まで言い切れなくて、ひゅっと音を立てて息を吸い込む。
言わなければ……今すぐ言わなければと思うのに、声が出てこない。
「健吾、もういい。止めろ」
唸るように低い北条の声にさえぎられたかと思うと、いきなり、背中がしなるほど強く抱きすくめられた。
はっとして体を強張らせるが、鼻先をかすめる北条のオードトワレの香りと、大きくて温かなものに包まれる安心感に急激に体から力が抜けていく。
「悪かった。もう言わなくていい」
もうわかったから、と、落ち着かせるように耳元でゆっくりと北条が囁く。
脱力した健吾は、自分で立っていることができずにかくりと膝から崩れ、北条に抱え上げられて、力なく抱き着いた。
「……俺、汚い?黙ってたこと軽蔑する?」
話したことが正しかったかどうか自信が持てず、言うべきではなかったかもしれないという後悔の念と、軽蔑されたかもしれないという思いで、胸が潰れそうな程苦しい。
「アメリカでレイプ犯罪が多いのは知ってるか?被害にあうのは女性だけじゃない。男性被害者も多いんだ。男はなにかと上下つけたがるし、相手を自分の下に位置づけするのに、レイプは一番手っ取り早い手段なんだ」
難なく健吾を抱き上げながら、北条は子供相手にするように、額をこつんと健吾にぶつけた。
「女性被害者にも男性被害者にも、等しくケアプログラムが組まれる。意にそぐわない相手に性行為を強要されると、自分は汚れたと感じるんだ。レイプは心の殺人とも言われてる。誰にも話せず、今まで一人で辛かっただろう」
北条の唇が寄せられ、そのままそっとこめかみにキスをされた。
健吾が驚いて顔を向けると、やさしく微笑む北条と鼻先がこすれあった。
「健吾はひどく庇護欲をそそるな。迷子になってる小さな子供みたいだ」
男にされるなんてまっぴらごめんなはずなのに、北条が何度もこめかみや頬にキスを落とすのが心地いい。
外国暮らしが長いからなのか、キスがすごく自然で嫌味がない。
何度もされているうちに幼い頃に戻ったような気持ちになり、恥ずかしいのと同時に、甘やかされているという幸福感で満たされていた。
途端にどっと疲労が押し寄せ、健吾のまぶたがとろんと落ちてくる。
北条のキスには、催眠効果があるのかもしれない。
「北条さん……なんか俺、すごく眠い……」
逆らえないほどの強烈な眠気にくらりと視界が揺れる。
なんとか声を絞り出して眠いことだけ伝えると、北条は今度は瞼にキスを落とす。
北条にキスをされると、自分は汚れてなんていないと思えてホッとした。
「蒼馬だ、健吾」
ぐらぐらと世界が歪みはじめ、思わず目を閉じると、耳に北条の心地よい声が届いた。
「……蒼馬?」
そうだ、と北条が頷く気配がする。
「このまま眠っていい。ずっと寝てないだろう?そばを離れないから、少し眠れ」
そう言われたのを最後に、健吾の意識は急激に現実から遠ざかっていく。
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