捨てられ聖女は、隣国で”香りの魔術師”として覚醒しました~冷徹公爵様の心を癒すのは、私だけの調香術です~

YY

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第3話:絶望の森と最初の証明

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城門が閉ざされた後、私はしばらくその場から動けなかった。背後にあるのは、私を拒絶した冷たい石壁。目の前にあるのは、私を呑み込もうと口を開ける、不気味な森の闇。どちらも、私の居場所ではない。ならば、進むしかなかった。私は、心臓の奥底で燃え続ける、小さな炎のような怒りと決意を頼りに、森へと足を踏み入れた。それは、理不尽に追放された者としてのプライド、そして自分の力が本物であることを証明するという、たった一つの執念だった。
一歩入っただけで、空気が変わったのが分かった。重い。まるで湿った鉛の毛布を頭から被せられたように、息がしづらい。喉の奥がひりつき、金属のような甘ったるい腐臭が、肺の奥まで侵食してくる。肌は絶えずちりちりと痒みを訴え、五感が鈍っていくのを感じる。瘴気は、ただの汚れた空気ではない。それは、意志の力すら削り取る、精神的な毒だった。
森の木々は、どれも異様な形にねじくれていた。幹には紫色の苔がまだらに生え、地面からは毒々しい原色のキノコが顔を覗かせている。鳥の声ひとつ聞こえず、ただ不気味な静寂が支配していた。
普通の人間なら、この時点で恐怖に泣き叫んでいたかもしれない。もちろん、私も怖かった。心臓は今にも張り裂けそうだ。だが、それと同時に、私の頭脳は、日本にいた頃よりもずっと冴え渡っていた。
(落ち着いて、私。観察するのよ)
私は、趣味の領域を超えて没頭した、植物学と土壌学の知識を総動員した。
(この空気の重さ、そして植物の色素異常…。瘴気の正体は、おそらくこの土地のエネルギー、日本で言うところの『気』の流れが極端に淀んだもの。そして、土中の特定のミネラルが過剰に溶け出している。あの紫色の苔は、その証拠かもしれない)
足元に、小さな赤い実をつけた低木を見つける。日本の野イチゴによく似ているが、葉の形が微妙に違う。
(これは食べられない。葉脈の走り方が、既知の有毒植物のパターンと一致する)
代わりに、少し離れた場所に生えていた、地味な黒い実を手に取る。これは、故郷の祖母の家でよく見た、食べられる木の実によく似ていた。匂いを嗅ぎ、断面を確かめる。大丈夫、これならいける。
絶望的な状況の中で、自分の知識が「生きるための羅針盤」になる。その事実は、私にかすかな自信を与えてくれた。
森に入って数時間が経った頃だった。
ガサッ、と茂みが大きく揺れる。次の瞬間、そこから飛び出してきたのは、一匹の獣だった。狼に似ているが、体格は一回り大きく、全身の毛は瘴気で焼けただれたように抜け落ちている。血走った赤い両目が、飢えと狂気にぎらついていた。
「――っ!」
息をのむ暇もなく、魔獣が地面を蹴って私に襲いかかってくる。咄嗟に横へ転がり、鋭い爪をかわす。獣の口から漏れる、腐臭を放つ息が顔にかかった。
(速い…!力が違いすぎる!)
恐怖で足がすくむ。だが、その絶体絶命の状況で、私の脳裏に、高校の化学室の光景が閃いた。匂いを打ち消す匂いの実験。そうだ、香りには力がある。
私はポケットを探った。中に入っていたのは、日本から持ってきた最後の一枚のポケットティッシュ。気分転換のために、虫除け効果のあるレモングラスのエッセンシャルオイルを数滴、染み込ませておいたものだ。
腐臭を放つ息が、もう一度私に襲いかかってくる。
(風は、どっちだ…!)
恐怖で凍りつきそうな頬に、わずかな空気の流れを感じ取る。左から、右へ。
(これなら…いける!)
私は魔獣の突進をもう一度かろうじてかわし、その勢いを利用して、獣の風上へと回り込む。そして、懐から取り出したティッシュを、力いっぱい投げつけた。
それは、魔獣に当てるためではない。その進路上に、香りの壁を作るためだ。
風に乗ったレモングラスの、強烈で、爽やかな柑橘系の香りが、獣の鼻先を直撃した。
「ッギャイン!?」
獣は、まるで見えない壁にぶつかったかのように、奇妙な悲鳴を上げて急停止した。瘴気の淀んだ匂いしか知らなかったその嗅覚が、強烈な刺激に混乱しているのだ。獣は頭をブルブルと振り、私への敵意も忘れたかのように、その場から慌てて逃げ去っていった。
後に残されたのは、心臓の激しい鼓動と、レモングラスの香り、そして呆然と立ち尽くす私だけだった。
やがて、安堵のため息が、震える唇から漏れた。
「…やった」
そして、それは確信に変わる。
「やっぱり、私のやり方は間違っていなかった!香りは、この世界でも通用する力なんだ!」
それは、この世界に来て初めて、私が自らの知識と判断で勝ち取った、小さな、しかし何よりも価値のある勝利の瞬間だった。
それから数日間、私は知識を武器に、必死に生き延びた。毒のある植物を避け、食べられる木の実を探し、香りの知識で小さな獣を遠ざけた。
だが、私の体力は、着実に限界へと近づいていた。食料は乏しく、眠りは浅い。そして三日目の午後、冷たい雨が降り始めた。容赦なく体温を奪っていく雨に、私の意識は急速に混濁し始める。
(もう、だめ…)
朦朧としながらも、足を前に進める。その時、木々の隙間から、森のものとは違う、鈍い光が見えた。道だ。最後の力を振り絞り、私は光の方へともつれるように走った。
森を抜けた。確かにそこには、石畳の道があった。だが、私の体は、もう限界だった。安堵した瞬間、糸が切れたように、膝から崩れ落ちる。
遠のく意識の中、リズミカルな蹄の音が聞こえてくる。音が近づき、私の目の前で止まる。泥一つ付いていない上質な革のロングブーツが、かろうじて視界に捉えられた。その足元から、森の瘴気を一瞬で払い去るかのような、清らかな香気が漂ってくる。その香りは、私がこれまで感じたどの香りよりも強く、純粋だった。
「――こんな場所に、これほどの『清浄な気』を持つ者が…?面白い」
低く、理知的で、そして冷徹な響きを持つ声が、頭上から降ってきた。
その声の主が、敵か、味方か。私を「面白い」と評した真意は何なのか。
確かめたいのに、私の意識は、もう深い闇の中へと沈んでいく。
(でも…)
私の心の中には、まだ確かに、あの城門の前で灯した、消えない炎が燃えていた。
(ここで…終わるわけには、いかない…)
それが、私の最後の思考だった。
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