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第9話:「香りの魔術師」の工房
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翌日の午後、私はユリウス公爵に連れられ、城の西棟にある一室の前に立っていた。そこは、長い間使われていなかったのだろう、重い樫の扉には埃が積もり、訪れる者を拒むかのように静まり返っている。
「ここだ」
ユリウスが鍵を回すと、軋むような音と共に、扉が開かれた。中に足を踏み入れた瞬間、私の鼻をくすぐったのは、様々なハーブが混じり合った、懐かしい香りだった。
部屋の中は、薄暗く、埃っぽかった。だが、目が慣れてくるにつれて、私は息をのんだ。
そこは、私にとって、宝の山だった。
高い天井からは、乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされている。壁一面には、無数の小さな引き出しが備え付けられた棚があり、一つ一つに、植物の名前が記された古いラベルが貼られていた。そして、部屋の中央には、調合のための、どっしりとした石の作業台。窓が大きく、午後の陽光がたっぷりと差し込んでいるため、植物を育てるのにも最適だろう。
忘れられた、古い薬草庫。しかし、それは、専門家がその技術を振るうには、十分すぎるほどの設備が整った、完璧なアトリエだった。
「今日から、ここがお前の工房だ」
ユリウスは、部屋の入り口に佇み、私の反応を観察するように言った。
「必要なものがあれば、リストにして侍女長に提出しろ。予算の範囲内で、最大限の支援を約束する」
その言葉に、私は胸がいっぱいになった。
(私の…工房…)
生まれて初めて与えられた、自分だけの城。誰にも邪魔されず、誰に遠慮することもなく、自分の知識と技術を、心ゆくまで探求できる場所。
とてつもないプレッシャーと共に、体の芯から、静かで熱い興奮が湧き上がってくるのを感じた。私は、埃のかぶった石の作業台に、そっと指で触れる。ひんやりとした石の感触が、これが夢ではないことを、私に告げていた。
「ありがとうございます、公爵様…!必ず、ご期待に…」
私が感謝の言葉を言い終える前に、ユリウスは、すっと私の隣にやってきた。そして、ドン、という鈍い音と共に、分厚い書類の束と、一つの木箱を、作業台の上に置いた。
私の胸の興奮は、一瞬で、緊張へと変わった。
「早速だが、お前に最初の任務を与える」
彼の声には、もう昨日までの、私を試すような響きはなかった。それは、一人の専門家に対する、対等な依頼者の声だった。
「領地西部の農作物を枯らす、『銀葉病』の対策だ」
彼は、木箱を開けてみせた。中に入っていたのは、数本の、枯れた小麦の穂。その名の通り、葉や茎が、まるで錆びた銀のように、不気味な色に変色し、力なく萎びている。
「原因不明のこの病害により、今年の収穫は三割減が見込まれている。領民の生活に直結する、喫緊の課題だ」
彼の真剣な口調から、これが、私の能力を試すための、極めて重要な任務であることが、ひしひしと伝わってきた。私の答え一つで、多くの民の生活が左右される。その責任の重さに、私はゴクリと喉を鳴らした。
ユリウスが、私にさらに詳しい説明をしようとした、その時だった。
「――公爵様」
工房の開かれた扉の前に、筆頭侍従のゲルハルトが、硬い表情で立っていた。
「少し、よろしいでしょうか」
ユリウスは、私に「少し待っていろ」と目配せすると、ゲルハルトと共に、工房の外へと出ていった。
扉は、完全には閉められなかった。ほんの数センチ開いたその隙間から、二人のひそやかな、しかし緊迫した会話が、私の耳に届いてしまった。
「旦那様、正気でございますか!」
ゲルハルトの声には、焦りと、抑えきれない非難の色が混じっていた。
「領の命運を左右するこの一大事を、あの素性の知れぬ女に委ねるなど、危険すぎます!もし失敗すれば、どう責任をお取りになるおつもりです!」
その言葉の一つ一つが、鋭い矢のように、私の胸に突き刺さる。そうだ、これが、この館の、ほとんどの人間が抱いている本音なのだ。ユリウス公爵が、どれだけ私を信頼してくれようと、他の者たちにとっては、私はまだ、得体の知れない、胡散臭い異邦人でしかない。
私は、ユリウスがどう答えるのか、息を殺して耳を澄ませた。
彼の答えは、短く、そして、氷のように冷徹だった。
「私は、結果で判断する。出自や偏見は、我が領地の発展を妨げるだけだ」
その声には、微塵の揺らぎもなかった。それは、彼の揺るぎない統治者としての哲学。その言葉に、私は胸が熱くなるほどの感謝を感じると同時に、背筋が凍るような思いがした。
結果で判断する。
つまり、私がこの任務で結果を出せなければ、その瞬間、私の価値は「ゼロ」になる。ユリウスが私を守るための盾も、この居場所も、全てを失うのだ。
やがて、ユリウスとゲルハルトは去っていった。
広大な工房に、私一人だけが取り残される。窓から差し込む陽光が、宙を舞う無数の埃を、きらきらと照らし出していた。
私は、先ほどまでの興奮が嘘のように冷めていくのを感じながら、作業台の前に戻った。そして、山積みの報告書の一冊を手に取り、ゆっくりとページをめくり始める。
何時間、そうしていただろうか。報告書を読み込み、被害状況の推移を頭に叩き込む。そして、私はおもむろに、木箱の中から、銀色に枯れた小麦の穂を一本、慎重に取り出した。
私はそれを、ただ眺めるのではない。私の最も信頼する感覚器――鼻へと、そっと近づけた。
目を閉じ、意識を集中させる。
(…匂いは、弱い)
だが、確かに、そこには異質な匂いが存在した。
カビのような、湿った土のような匂い。腐敗が始まった、有機物の匂い。
そして、その奥に、何か。
ツン、と鼻の奥を刺すような、微かな、金属の匂い。
私は、ゆっくりと目を開けた。その瞳に、専門家としての、鋭い光が宿る。
唇が、無意識に、言葉を紡いでいた。
「これ、ただの病気じゃない…」
これは、自然発生した病害などではない。もっと悪質な、何者かの「意思」が介在している可能性すらある。
私の最初の任務は、想像以上に、根が深い問題なのかもしれない。
私は、銀色の穂を強く握りしめ、この難題に挑む決意を、静かに、しかし固く、固めた。
「ここだ」
ユリウスが鍵を回すと、軋むような音と共に、扉が開かれた。中に足を踏み入れた瞬間、私の鼻をくすぐったのは、様々なハーブが混じり合った、懐かしい香りだった。
部屋の中は、薄暗く、埃っぽかった。だが、目が慣れてくるにつれて、私は息をのんだ。
そこは、私にとって、宝の山だった。
高い天井からは、乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされている。壁一面には、無数の小さな引き出しが備え付けられた棚があり、一つ一つに、植物の名前が記された古いラベルが貼られていた。そして、部屋の中央には、調合のための、どっしりとした石の作業台。窓が大きく、午後の陽光がたっぷりと差し込んでいるため、植物を育てるのにも最適だろう。
忘れられた、古い薬草庫。しかし、それは、専門家がその技術を振るうには、十分すぎるほどの設備が整った、完璧なアトリエだった。
「今日から、ここがお前の工房だ」
ユリウスは、部屋の入り口に佇み、私の反応を観察するように言った。
「必要なものがあれば、リストにして侍女長に提出しろ。予算の範囲内で、最大限の支援を約束する」
その言葉に、私は胸がいっぱいになった。
(私の…工房…)
生まれて初めて与えられた、自分だけの城。誰にも邪魔されず、誰に遠慮することもなく、自分の知識と技術を、心ゆくまで探求できる場所。
とてつもないプレッシャーと共に、体の芯から、静かで熱い興奮が湧き上がってくるのを感じた。私は、埃のかぶった石の作業台に、そっと指で触れる。ひんやりとした石の感触が、これが夢ではないことを、私に告げていた。
「ありがとうございます、公爵様…!必ず、ご期待に…」
私が感謝の言葉を言い終える前に、ユリウスは、すっと私の隣にやってきた。そして、ドン、という鈍い音と共に、分厚い書類の束と、一つの木箱を、作業台の上に置いた。
私の胸の興奮は、一瞬で、緊張へと変わった。
「早速だが、お前に最初の任務を与える」
彼の声には、もう昨日までの、私を試すような響きはなかった。それは、一人の専門家に対する、対等な依頼者の声だった。
「領地西部の農作物を枯らす、『銀葉病』の対策だ」
彼は、木箱を開けてみせた。中に入っていたのは、数本の、枯れた小麦の穂。その名の通り、葉や茎が、まるで錆びた銀のように、不気味な色に変色し、力なく萎びている。
「原因不明のこの病害により、今年の収穫は三割減が見込まれている。領民の生活に直結する、喫緊の課題だ」
彼の真剣な口調から、これが、私の能力を試すための、極めて重要な任務であることが、ひしひしと伝わってきた。私の答え一つで、多くの民の生活が左右される。その責任の重さに、私はゴクリと喉を鳴らした。
ユリウスが、私にさらに詳しい説明をしようとした、その時だった。
「――公爵様」
工房の開かれた扉の前に、筆頭侍従のゲルハルトが、硬い表情で立っていた。
「少し、よろしいでしょうか」
ユリウスは、私に「少し待っていろ」と目配せすると、ゲルハルトと共に、工房の外へと出ていった。
扉は、完全には閉められなかった。ほんの数センチ開いたその隙間から、二人のひそやかな、しかし緊迫した会話が、私の耳に届いてしまった。
「旦那様、正気でございますか!」
ゲルハルトの声には、焦りと、抑えきれない非難の色が混じっていた。
「領の命運を左右するこの一大事を、あの素性の知れぬ女に委ねるなど、危険すぎます!もし失敗すれば、どう責任をお取りになるおつもりです!」
その言葉の一つ一つが、鋭い矢のように、私の胸に突き刺さる。そうだ、これが、この館の、ほとんどの人間が抱いている本音なのだ。ユリウス公爵が、どれだけ私を信頼してくれようと、他の者たちにとっては、私はまだ、得体の知れない、胡散臭い異邦人でしかない。
私は、ユリウスがどう答えるのか、息を殺して耳を澄ませた。
彼の答えは、短く、そして、氷のように冷徹だった。
「私は、結果で判断する。出自や偏見は、我が領地の発展を妨げるだけだ」
その声には、微塵の揺らぎもなかった。それは、彼の揺るぎない統治者としての哲学。その言葉に、私は胸が熱くなるほどの感謝を感じると同時に、背筋が凍るような思いがした。
結果で判断する。
つまり、私がこの任務で結果を出せなければ、その瞬間、私の価値は「ゼロ」になる。ユリウスが私を守るための盾も、この居場所も、全てを失うのだ。
やがて、ユリウスとゲルハルトは去っていった。
広大な工房に、私一人だけが取り残される。窓から差し込む陽光が、宙を舞う無数の埃を、きらきらと照らし出していた。
私は、先ほどまでの興奮が嘘のように冷めていくのを感じながら、作業台の前に戻った。そして、山積みの報告書の一冊を手に取り、ゆっくりとページをめくり始める。
何時間、そうしていただろうか。報告書を読み込み、被害状況の推移を頭に叩き込む。そして、私はおもむろに、木箱の中から、銀色に枯れた小麦の穂を一本、慎重に取り出した。
私はそれを、ただ眺めるのではない。私の最も信頼する感覚器――鼻へと、そっと近づけた。
目を閉じ、意識を集中させる。
(…匂いは、弱い)
だが、確かに、そこには異質な匂いが存在した。
カビのような、湿った土のような匂い。腐敗が始まった、有機物の匂い。
そして、その奥に、何か。
ツン、と鼻の奥を刺すような、微かな、金属の匂い。
私は、ゆっくりと目を開けた。その瞳に、専門家としての、鋭い光が宿る。
唇が、無意識に、言葉を紡いでいた。
「これ、ただの病気じゃない…」
これは、自然発生した病害などではない。もっと悪質な、何者かの「意思」が介在している可能性すらある。
私の最初の任務は、想像以上に、根が深い問題なのかもしれない。
私は、銀色の穂を強く握りしめ、この難題に挑む決意を、静かに、しかし固く、固めた。
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