捨てられ聖女は、隣国で”香りの魔術師”として覚醒しました~冷徹公爵様の心を癒すのは、私だけの調香術です~

YY

文字の大きさ
8 / 32

第8話:氷解の兆し

しおりを挟む
翌朝。
ユリウスは、瞼を射抜く光の鋭さで、意識を覚醒させた。
窓のカーテンの隙間から差し込む、朝の陽光。普段であれば、その光ですら、彼のずきずきと痛む頭には不快な刺激でしかなかった。だが、今朝は違った。
(…痛くない)
彼は、ゆっくりと体を起こした。待っていたのは、毎朝彼を迎える、頭蓋の内側から締め付けるような、あの鉄の輪のような痛みではない。そこにあるのは、ただ、静寂。澄みきって、静まり返った、湖面のような思考の静けさ。
(悪夢も…見ていない)
夜中に、あの「事件」の日の光景にうなされて飛び起きることもなかった。朝まで一度も目覚めることなく、深く眠ったのは、一体何年ぶりのことだろうか。十年か、あるいは、それ以上か。
ユリウスは呆然として、自分の額にそっと手を当てた。信じられない、という思いが、彼の全身を支配する。昨夜の、あの女が調合した、香。まさか、本当に。
彼は、侍従を呼ぶためのベルを、性急に鳴らした。
控え室で、判決を待つ罪人のような心地で待機していた私は、侍女に呼ばれ、公爵の執務室へと向かった。昨夜、眠りにつくことはできただろうか。もし、何の効果もなかったら。あるいは、逆に体調を崩していたら。考えれば考えるほど、心臓が冷たくなっていく。
執務室の前に立つと、中から、いつも通りの、静かで低い声がした。
「入れ」
私は意を決して、中へと入った。
ユリウス公爵は、机に向かい、書類に目を通していた。その横顔は、いつもと変わらぬ、氷のように冷たい無表情。私の心臓は、絶望で凍りついた。
(…やはり、だめだったんだ)
私が、この館から追い出されるまでの猶予は、あと数時間もないだろう。
だが、彼が顔を上げた時、私は気づいた。彼の目の下にいつも巣食っていた、深い隈が、今日は薄らいでいることに。そして、そのアイスブルーの瞳が、昨日までとは比べ物にならないほど、澄んでいることに。
彼は、感謝の言葉を口にすることはなかった。賞賛も、労いも。
その代わりに、彼は私に、科学者のような、鋭く探求するような視線を向けた。
「…説明しろ」
静かだが、有無を言わさぬ、命令だった。
「昨夜の香りに、何を入れた。その作用機序(メカニズム)を、私が理解できるように、論理的に説明しろ」
彼は、この奇跡のような現象を、感情ではなく、理屈で理解しようとしているのだ。
その瞬間、私の恐怖は、霧散した。代わりに、胸の奥から、専門家としての、静かで熱い喜びが込み上げてくる。この人は、私の知識を、ただの「おまじない」ではなく、「技術」として、正面から向き合おうとしてくれている。
私は、この世界に来て初めて、背筋を伸ばし、淀みなく語り始めた。
「はい、公爵様。昨夜、お使いいただいたお香は、四種類の植物の香りを、特定の比率で調合したものです」
私の声は、もう震えていなかった。
「まず、基調となる香りは、白檀、サンダルウッドです。この香りに含まれる主成分のサンタロールには、中枢神経を鎮静させる効果があり、思考の過活動、いわゆる『心のノイズ』を鎮めます」
「次に、中心となる香りは、乳香、フランキンセンス。その名の通り、古来より教会などで使われてきた、神聖な香りです。その香りは、精神の深い部分に働きかけ、過去のトラウマによって生まれた、古い悲しみや心の傷を浄化する作用があると、私の故郷では伝えられています」
「そして、それらの効果を助けるために、神経の緊張を直接的に緩和するカモミールと、気分の落ち込みを和らげる柑橘系のベルガモットを、補助的に、ごく少量だけ加えました」
「これら四つの力が合わさることで、単に眠りを誘うのではなく、心の根本的な原因に働きかけ、安らぎをもたらすのです。これが、昨夜の香りの…作用機序です」
私は、魔法の話をしているのではない。薬学と、心理学と、そして植物学に基づいた、一つの体系的な技術の話をしていた。
ユリウスは、腕を組み、黙って私の説明を聞いていた。その表情は変わらない。だが、彼の瞳の奥で、何かが大きく変わっていくのを、私は確かに感じていた。
彼は理解したのだ。
この女は、ただの難民ではない。幸運に恵まれただけの、魔女でもない。
自分の知らない、全く新しい知識体系を持つ、本物の「技術者」なのだと。その価値は、まだ計り知れない。
長い沈黙の後、彼は、すっと立ち上がった。
そして、執務室の壁に掛けられた、広大な公爵領の地図の前へと歩いていく。
その行動は、彼の興味が、もはや彼自身の個人的な問題にはないことを、示していた。
彼は、地図の一点を指さし、私に尋ねた。その声には、先ほどまでの冷たさは消え、新たな可能性を探るような、熱がこもっていた。
「リーナ」
初めて、彼は私の新しい名前を、はっきりと呼んだ。
「お前のその知識、他の問題にも応用できるか?
例えば…北の鉱山を蝕む、この瘴気。あるいは、西の農作物を枯らす、原因不明の害虫…」
彼の視線は、もう私を「庇護対象の女」としては見ていなかった。未知の技術を持つ、「価値ある人材」として、その可能性を問うていた。
彼は、地図から私へと向き直る。そして、力強い声で、私に新しい未来を告げた。
「今日この時から、お前は私の直属の技術者として働くことを命じる。研究に必要なものは、全て与えよう」
それは、命令でありながら、私にとっては、何よりの福音だった。
この異世界に来て初めて、私が、私自身の力で勝ち取った、確かな「居場所」と「役割」が与えられた瞬間だった。
私の本当の物語は、この氷の公爵の下で、今、ようやく始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王家を追放された落ちこぼれ聖女は、小さな村で鍛冶屋の妻候補になります

cotonoha garden
恋愛
「聖女失格です。王家にも国にも、あなたはもう必要ありません」——そう告げられた日、リーネは王女でいることさえ許されなくなりました。 聖女としても王女としても半人前。婚約者の王太子には冷たく切り捨てられ、居場所を失った彼女がたどり着いたのは、森と鉄の匂いが混ざる辺境の小さな村。 そこで出会ったのは、無骨で無口なくせに、さりげなく怪我の手当てをしてくれる鍛冶屋ユリウス。 村の事情から「書類上の仮妻」として迎えられたリーネは、鍛冶場の雑用や村人の看病をこなしながら、少しずつ「誰かに必要とされる感覚」を取り戻していきます。 かつては「落ちこぼれ聖女」とさげすまれた力が、今度は村の子どもたちの笑顔を守るために使われる。 そんな新しい日々の中で、ぶっきらぼうな鍛冶屋の優しさや、村人たちのさりげない気遣いが、冷え切っていたリーネの心をゆっくりと溶かしていきます。 やがて、国難を前に王都から使者が訪れ、「再び聖女として戻ってこい」と告げられたとき—— リーネが選ぶのは、きらびやかな王宮か、それとも鉄音の響く小さな家か。 理不尽な追放と婚約破棄から始まる物語は、 「大切にされなかった記憶」を持つ読者に寄り添いながら、 自分で選び取った居場所と、静かであたたかな愛へとたどり着く物語です。

竜王に嫁いだら、推しの半竜皇子の継母になりました〜冷酷な夫には興味ありませんが、闇落ち予定の皇子は私が全力で幸せにします!〜

せりもも
恋愛
転生したのは、web小説の世界だった。物語が始まる前の時間、隣国の竜王へ嫁ぐ薄幸の王女、デジレに。 結婚相手である竜王ワッツァは、冷酷非道で人間を蔑む恐ろしい竜人だ。彼はデジレを、半竜(半分竜で半分人間)である息子の養育係としかみていない。けれどその息子バートラフこそ、前世の「わたし」の最オシだった。 この世界のバートラフはまだ5歳。懸命に悪ガキぶっているけど、なんてかわいいの!? 小説のバートラフは、闇落ちして仲間の騎士たちに殺されてしまうけど、そんな未来は、絶対に許さないんだから!  幼いバートラフに対する、愛情いっぱいの子育ての日々が始まる。やがて彼の成竜への通過儀礼を経て、父の竜王は、デジレに対して執着を見せ始める。 ところが、竜と人間の戦争が始まってしまう。おとなになったバートラフは人間側につき、聖女の騎士団に入った。彼は、父の竜王に刃を向けられるのか? そして、転生者デジレに与えられたスキル「プロットを破断する者」を、彼女はどう発動させるのか。

【完結】人々に魔女と呼ばれていた私が実は聖女でした。聖女様治療して下さい?誰がんな事すっかバーカ!

隣のカキ
ファンタジー
私は魔法が使える。そのせいで故郷の村では魔女と迫害され、悲しい思いをたくさんした。でも、村を出てからは聖女となり活躍しています。私の唯一の味方であったお母さん。またすぐに会いに行きますからね。あと村人、テメぇらはブッ叩く。 ※三章からバトル多めです。

【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?

旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】 佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。 新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。 「せめて回復魔法とかが良かった……」 戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。 「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」 家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。 「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」 そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。 絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。 これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。

追放聖女の薬草店~光らない無能と言われた私の治癒力は、最強騎士団長の呪いにだけ効くようです。辺境で始める溺愛スローライフ~

黒崎隼人
恋愛
「君の力だけが、俺を救ってくれる」 派手な光を放つ魔法が使えず、「光らない無能」として国を追放された聖女エリナ。 彼女は辺境の村で廃屋を買い取り、念願だった薬草店をオープンする。 相棒の精霊獣ポポと共にスローライフを始めたある嵐の夜、店の前に倒れていたのは、国の最強騎士団長ゼフィルだった。 「黒竜の呪い」に侵され、あらゆる魔法を受け付けない彼の体。 しかし、エリナの持つ「細胞そのものを活性化させる」地味な治癒力だけが、彼の呪いを解く唯一の鍵で……!? 無能扱いされた聖女と、余命わずかの最強騎士。 二人が辺境で紡ぐ、温かくて幸せな再生と溺愛の物語。

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

「女のくせに強すぎて可愛げがない」と言われ婚約破棄された追放聖女は薬師にジョブチェンジします

紅城えりす☆VTuber
恋愛
*毎日投稿・完結保証・ハッピーエンド  どこにでも居る普通の令嬢レージュ。  冷気を放つ魔法を使えば、部屋一帯がや雪山に。  風魔法を使えば、山が吹っ飛び。  水魔法を使えば大洪水。  レージュの正体は無尽蔵の魔力を持つ、チート令嬢であり、力の強さゆえに聖女となったのだ。  聖女として国のために魔力を捧げてきたレージュ。しかし、義妹イゼルマの策略により、国からは追放され、婚約者からは「お前みたいな可愛げがないやつと結婚するつもりはない」と婚約者破棄されてしまう。  一人で泥道を歩くレージュの前に一人の男が現れた。 「その命。要らないなら俺にくれないか?」  彼はダーレン。理不尽な理由で魔界から追放された皇子であった。  もうこれ以上、どんな苦難が訪れようとも私はめげない!  ダーレンの助けもあって、自信を取り戻したレージュは、聖女としての最強魔力を駆使しながら薬師としてのセカンドライフを始める。  レージュの噂は隣国までも伝わり、評判はうなぎ登り。  一方、レージュを追放した帝国は……。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

処理中です...