捨てられ聖女は、隣国で”香りの魔術師”として覚醒しました~冷徹公爵様の心を癒すのは、私だけの調香術です~

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第19話:香りの要塞

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数十本の剣が一斉に抜き放たれ、冬の陽光を浴びた切っ先が冷たい輝きを放つ。睨み合う二つの騎士団の間には、今にも触れれば爆ぜそうな、鋭い緊張が張り詰めていた。
その爆発寸前の沈黙を破ったのは、ユリウスの静かで、鋼のように硬質な声だった。「剣を、収めよ」。
彼は自らの護衛騎士たちに手で合図を送る。騎士たちは一瞬戸惑ったものの、主君の命令に従い、一糸乱れぬ動きで剣を鞘へと戻した。
その冷静な態度に気圧されたのは、アステル王国の騎士たちだ。リーダーである子爵は怒りに顔を赤くし、剣を強く握りしめている。ユリウスは、その子爵をまるで路傍の石でも見るかのように冷たい瞳で見つめた。
「子爵。お前の首がまだ胴の上にあるのは、私が無益な血を好まないからだ。その幸運に感謝するがいい」
その言葉は、絶対的な強者の揺るぎない自信に満ちていた。
「三日やる。三日後の日の出までに、全軍、我が領内から完全に退去しろ。さもなくば、お前たちを我が領土を侵す侵略者として、一片の慈悲もなく排除する」
それは最後通告だった。子爵は屈辱に唇を噛み締めていたが、ユリウスの背後に控える歴戦のグレゴール隊長と、その部下たちの殺気だった視線に、ここで戦うことの無謀さをようやく理解したようだった。
「…覚えていろ、ヴァルテンベルク公!」
彼は捨て台詞を吐くと、不承不承、部下たちに剣を収めさせた。そして町の入り口から数キロ離れた平原に陣を構えるため退いていく。嵐が去った後の凪のような静けさが町に戻った。
だが、問題が先延ばしにされただけで、解決したわけではないことは誰の目にも明らかだった。
その夜、領主の館は臨時の作戦司令部と化していた。ユリウスは、私を当然のようにグレゴール隊長や他の騎士たちが集まる作戦会議の席へと招き入れた。
「三日後に奴らが大人しく引き返すとは思えん。おそらく、総攻撃を仕掛けてくるだろう。我々も迎撃の準備を…」
グレゴール隊長が地図を広げながらそう進言した時、ユリウスは静かに私の方へと視線を向けた。
「リーナ」
その声に、会議室にいた全員が私に注目する。
「戦いを避け、彼らをこの土地から退ける策は、あるか?」
彼の瞳に宿るのは、私という一人の人間に対する純粋な信頼だった。庇護すべき存在としてではなく、対等な戦友として見られている。その事実に胸が高鳴ると同時に、背筋が凍りついた。もし失敗すれば、この信頼を裏切るだけでなく、領民も、勇敢な騎士たちも、皆を危険に晒すことになる。その重圧に、私は一度言葉を飲み込んだ。
それでも、私はまっすぐに彼の瞳を見つめ返し、はっきりと頷いた。
「直接的な攻撃はできません。ですが、彼らをこの町から『追い出す』ことは可能です」
私の工房と化した館の一室。そこに鉱山町の詳細な地図を広げ、私はユリウスとグレゴール隊長の二人を前に、自らの作戦を説明した。
「私の作戦は、この町を、見えない『香りの要塞』で包囲するというものです」
私は地図の上に、風向きを計算した三つの地点を示すように、数本の羽根ペンを置いていく。
「硫黄と薬草を発酵させた忌避香は、匂いで本能を叩く。三方を囲み、南へ逃がす。それだけです」
グレゴール隊長は顔をしかめた。「匂い、だと?それで大軍が退くものか。もし失敗すれば、奴らの笑いものになるだけでは済まないぞ」
「この谷の風向きは常に東から西へ向かう」ユリウスがグレゴールを制するように口を開いた。「それが不変であることは、古くからの言い伝えにもある。彼女は、それを最大限に利用するつもりだ」
グレゴールは私を疑わしげに見つめたが、ユリウスの言葉に反論はしなかった。
それは、血を流さずして敵の戦意と、戦うための能力そのものを奪う、心理的な兵器だった。
「…なるほど。敵を不快な匂いの壁で三方から囲い込み、唯一、無臭で安全に感じられる『浄化香』の道へと、追い立てる、というわけか」
ユリウスの言葉に、私は頷いた。「はい。パニックに陥った人間は、本能的に安全な場所へと逃げようとします。私たちは、その逃げ道をこちらが望む方向へとコントロールするのです」
軍略の常識からはかけ離れた奇策。だが、私の澱みない説明と、その瞳に宿る絶対的な自信に、グレゴール隊長もユリウスも、ただ黙って聞き入っていた。
私はもう、香りの専門家であるだけではない。香りを武器として、地形と、風と、そして人の心理までもを計算し、戦場を支配しようとする一人の指揮官と化していた。
二日後の、月も隠れる新月の夜。作戦は静かに実行に移された。
ユリウスが最も信頼する身軽な騎士たちが、闇に紛れて町の外へと散っていく。彼らの背中には、私が調合した二種類の練り香が、ずっしりと詰まった袋が背負われていた。
騎士の一人が、設置地点へ向かう途中、敵の斥候と危うく鉢合わせしかけた。木の葉を踏まぬよう、そっと身を潜める。心臓の鼓動が、自分の耳元で激しく鳴っているのが聞こえた。闇の中でじっと足音が過ぎるのを待つ。幸い、斥候は気づかず通り過ぎていった。彼は深く息を吐き、再び任務に戻る。
彼らは、私が作成した配置図通りに敵の陣地を大きく迂回し、音もなく香炉を地面に設置していく。見えない要塞の礎石が、一つ、また一つと静かに築かれていった。
そして、運命の三日目の朝が来た。
東の空が鋼色に染まり始める。夜明けと共に、この谷にいつものように東から西へと向かう冷たい風が吹き始めた。
敵の陣地から、鬨(とき)の声が上がる。しびれを切らした子爵が、総攻撃の命令を下したのだ。五十を超える騎士団が砂塵を巻き上げ、町へと突撃してくる。
その光景を、私とユリウスは町を見下ろす小高い丘の上から静かに見つめていた。
ユリウスが私の目を見て静かに頷く。それが、合図だった。
私は懐から取り出した小さな手鏡の角度を変え、太陽の光を反射させた。遠く離れた、町の物見櫓にいる見張りの騎士へと送る、作戦開始の合図だ。
次の瞬間、世界から音が消えたかのように感じられた。否、全てを覆い尽くす強烈な悪臭が、風に乗ってアステル王国の騎士団を襲ったのだ。腐った卵が喉の奥で爆ぜた。吐き気が込み上げ、視界の端が白く滲む。
騎士たちの顔は瞬時に、驚愕から苦悶へと変わる。
「う、ぐっ…!なんだ、この匂いは!?」
「逃げろ…!逃げ…!」
指揮官である子爵の顔からは、怒りよりも先に、理解不能な事態への怯えが滲み出ていた。必死に剣の柄を握りしめ、嘔吐をこらえようとするが、その試みは無駄に終わる。叫ぼうとした声は、かすれた呻きとなって喉から漏れた。兵士たちも次々と馬上で嘔吐し、統率を失っていく。鋭敏な嗅覚を持つ馬はさらに酷かった。パニックに陥り、いななきながら暴れ狂い、乗り手を振り落としていく。
「ど、どっちだ!?町はどっちだ!?」
「分からん!目が、回る…!」
方向感覚を失った騎士たちが互いにぶつかり合い、陣形は完全に崩壊した。香りは見えない壁となり、彼らを閉じ込めていた。
その地獄のような光景を、私とユリウスは丘の上から、ただ静かに見下ろしていた。
私は息を飲んだ。――やった。
血を流さずして敵を無力化する、私の見えない香りの要塞が、今、完璧に機能したのだ。だが、その成功に歓喜する心の一方で、人間を本能で支配したことへの胸騒ぎが、私の奥底でざわめいていた。
丘の上に冷たい風が吹き抜けた。腐臭は徐々に薄れつつあったが、南の地平線に揺れる旗が、なぜか西風に逆らって揺れていた。
ユリウスは静かに、その旗を睨みつけていた。
香りの要塞は、今や私の武器だ。この町を、そしてこの人たちを守るために。私は決意を新たにした。しかし、同時に理解した。この戦いはまだ、終わっていない。
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