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第2章:赤いタスクと二つの正義
第48話:信頼の脆弱性
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作戦当日の空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。だが、風鳴りの山に一歩足を踏み入れると、その穏やかさは幻だったかのように消え失せる。ゴウ、と岩肌を削る風が絶え間なく響き、山そのものが、巨大な獣のように呻いている。空気は魔力乱流によって重く淀み、肌をピリピリと刺す。一歩進むごとに、見えざる圧力に抗うかのように全身の筋肉が強張った。
ワイバーンの巣を眼下に見下ろす、切り立った崖の中腹。そこは、現地調査の末にケンジが導き出した、作戦を実行するための唯一無二の最適解だった。ここならば巣全体を視認でき、万が一の際には複数の撤退経路を確保できる。
「…各員、最終ポジションを確認してください」
ケンジの冷静な声が、風音に混じって響く。彼の顔にいつもの穏やかな笑みはなく、プロジェクトの成否を一身に背負うマネージャーとしての、極限の集中力がみなぎっていた。手にした羊皮紙の作戦計画書と、眼下の巣を何度も見比べ、あらゆる不測の事態を脳内でシミュレーションしている。
そのケンジを守るように、最も風の強い崖の先端に立つのはゴードンだった。彼は巨大な盾を地面に突き立て、その身体はまるで大地に根を張った古木のように微動だにしない。兜の奥の瞳は、ワイバーンの巣が吐き出す不吉な気配だけを、じっと睨みつけている。彼の心は静かだった。ケンジの論理を信じると決めた。だが、これから始まる作戦の要が、彼が最も忌み嫌う「感情」に委ねられているという事実が、心の奥底に鉛のような重りを沈めていた。
少し離れた岩陰には、シーナが影のようにその身を潜ませている。彼女は二本の短剣を逆手に持ち、全身をバネのようにしならせていた。いつでも飛び出せるように、いつでもこの場から離脱できるように。プロとしての彼女の感覚が、この作戦の異常なまでの危険性を告げていた。「仲間を信じる心」。そんな曖昧で不確かなものが、本当にこの絶望的な状況を覆せるのか。彼女の唇に浮かぶのは、自嘲と、そしてわずかな期待が入り混じった、不敵な笑みだった。
そして、その陣形の中心。
三人に守られるようにして、ルリエルが静かに立っていた。彼女は目を閉じ、風に煽られて乱れる銀色の髪を、ただそのままにさせている。その顔は蒼白で、これから自らが成そうとすることの重圧に、か細い肩が微かに震えていた。
「…準備、できましたわ」
ルリエルが目を開ける。その翡翠の瞳には、不安を押し殺した、強い決意の光が宿っていた。
ケンジは、仲間たちの顔を一人ずつ見回した。ゴードンの覚悟、シーナの緊張、そしてルリエルの決意。それぞれの感情が、この作戦の燃料となる。彼は深く頷いた。
「―――作戦開始(プロジェクト・スタート)」
ケンジの静かな、しかし有無を言わせぬ号令。
それを合図に、ルリエルがゆっくりと両腕を天に掲げた。彼女の唇から、古代エルフ語の、祈りのように美しい詠唱が紡がれ始める。最初は風音にかき消されそうなほどか細い囁きだったが、それは次第に力を増し、周囲の魔力乱流と共鳴するかのように、凛とした響きを帯びていった。
彼女の足元に、青白い光で描かれた複雑な魔法陣が浮かび上がる。杖の先端に埋め込まれた宝石がまばゆい光を放ち始め、風鳴りの山に満ちる淀んだ魔力が、まるで光に引き寄せられる蝶のように、彼女の元へと収束していく。
そして、魔法は仲間たちの心にも干渉を始めた。
ゴードンの心に宿る「守護」の意志が、シーナの心に潜む「警戒」の感覚が、そしてケンジの心にある「成功」への確信が、目に見えない光の糸となってルリエルへと流れ込んでいく。それは、彼らの魂そのものを燃料とする、あまりにも繊細で、そして強大な魔法の始まりだった。
眼下のワイバーンの巣の上空に、集まった魔力が形を結び始める。空間が陽炎のように揺らめき、そこに、ワイバーンが最も安心できる場所が構築されていく。それは、シーナが命がけで偵察した、巣の内部そのものだった。
苔むした岩に差し込む朝日。滴る水滴の音。巣の中央で、母親の背中に寄り添う小さな子供たち。あまりにも完璧な幻影に、ゴードンもシーナも、一瞬だけ息をのんだ。
ケンジの視界(UI)に表示されていた魔力乱流のグラフが、まるで嵐が凪いだかのように、緩やかな安定曲線を描き始めている。
【プロジェクト進捗:フェーズ1、正常に進行中】
その無機質な文字が、これ以上ないほどの希望に見えた。作戦は成功する。このままいけば、誰も傷つくことなく、この困難なプロジェクトを完了させることができる。誰もが、そう信じかけた、その瞬間だった。
ピシッ。
最初に、その不協和音に気づいたのは、誰だったか。
完璧に構築されていた幻影の、その表面に、まるで薄いガラスに走った一本の亀裂のように、黒い線が走った。
「…ッ!?」
詠唱を続けていたルリエルの顔が、苦痛に歪む。魔法陣に流れ込む仲間たちの精神エネルギーに、微かだが、無視できないノイズが混じり始めたのだ。
そのノイズの源は、二人。
ゴードンの心だった。
彼の心は、目の前の光景を信じようとすればするほど、過去のトラウマという名の分厚い氷に閉ざされていった。
(…そうだ。あの時も、こうだった)
彼の脳裏に、妹が死んだあのダンジョンの光景が蘇る。リーダーが「いける!」と叫んだ時、仲間たちの顔には、今と同じような、根拠のない希望と高揚感が浮かんでいた。誰もが、成功だけを信じて疑わなかった。
(この幻術も、同じではないのか…?)
その疑念が、ゴードンの心に冷たい影を落とす。この作戦は、あまりにも「感情」という不確かなものに依存しすぎている。もし、ワイバーンがこの幻に騙されなかったら? ケンジ殿の計画は完璧だ。だが、その土台は、あまりにも脆い、人間の心ではないのか。
彼が仲間を守りたいと願うがゆえの、誠実な迷い。だが、その迷いこそが、ルリエルの魔法を内側から蝕む、最も強力な毒となっていた。
そして、シーナの心だった。
彼女のプロとしての冷徹な思考が、この作戦の致命的な脆弱性を弾き出していた。
(…綺麗なもんだ。だが、所詮は絵に描いた餅さ)
彼女は、この幻術が崩壊した後のことを考えていた。一度歯車が狂えば、この寄せ集めのパーティなど、一瞬で崩壊する。
(…あの男に渡した金で手に入れた「切り札」。それを使う時が、来るかもしれないな…)
彼女は懐に忍ばせた、あの黒曜石の護符の冷たい感触を確かめる。それは、仲間を信じきれない彼女が、自分一人が生き残るために用意した、最後の保険だった。その、仲間を裏切る可能性を秘めた思考が、第二の毒となって、ルリエルの精神を苛んだ。
二人の抱いた、あまりにも人間的な、そして誠実な迷い。それが、ルリエルの魔法陣に流れ込む精神エネルギーを、温かい光から、冷たいノイズへと変質させていった。
バヂッ!
幻影に走った亀裂が、蜘蛛の巣のように広がっていく。完璧だったはずの巣の幻影が、まるで壊れた映像のように激しく揺らぎ、明滅を始めた。
「…ッ、ああ……!」
「誰かの…迷いが…私の魔力を……乱して、いるッ!」
凄まじい魔力の逆流が、ルリエルを襲う。仲間たちの疑念が、増幅された負のエネルギーとなって、彼女の精神を直接殴りつけるかのようだった。頭が割れるように痛み、全身の血が逆流するような感覚。視界が真っ赤に染まる。
「ルリエルさん!?」
ケンジの叫び声が、遠くで聞こえる。だが、彼女にはもう、それに答える余裕はなかった。
幻影の亀裂から、黒い霧が漏れ出し始めた。それは、ワイバーンが吐き出す不吉な気配そのものだった。
空気が裂けるような音。
巣の奥から、低く唸る何かが反応した。
ワイバーンの巣を眼下に見下ろす、切り立った崖の中腹。そこは、現地調査の末にケンジが導き出した、作戦を実行するための唯一無二の最適解だった。ここならば巣全体を視認でき、万が一の際には複数の撤退経路を確保できる。
「…各員、最終ポジションを確認してください」
ケンジの冷静な声が、風音に混じって響く。彼の顔にいつもの穏やかな笑みはなく、プロジェクトの成否を一身に背負うマネージャーとしての、極限の集中力がみなぎっていた。手にした羊皮紙の作戦計画書と、眼下の巣を何度も見比べ、あらゆる不測の事態を脳内でシミュレーションしている。
そのケンジを守るように、最も風の強い崖の先端に立つのはゴードンだった。彼は巨大な盾を地面に突き立て、その身体はまるで大地に根を張った古木のように微動だにしない。兜の奥の瞳は、ワイバーンの巣が吐き出す不吉な気配だけを、じっと睨みつけている。彼の心は静かだった。ケンジの論理を信じると決めた。だが、これから始まる作戦の要が、彼が最も忌み嫌う「感情」に委ねられているという事実が、心の奥底に鉛のような重りを沈めていた。
少し離れた岩陰には、シーナが影のようにその身を潜ませている。彼女は二本の短剣を逆手に持ち、全身をバネのようにしならせていた。いつでも飛び出せるように、いつでもこの場から離脱できるように。プロとしての彼女の感覚が、この作戦の異常なまでの危険性を告げていた。「仲間を信じる心」。そんな曖昧で不確かなものが、本当にこの絶望的な状況を覆せるのか。彼女の唇に浮かぶのは、自嘲と、そしてわずかな期待が入り混じった、不敵な笑みだった。
そして、その陣形の中心。
三人に守られるようにして、ルリエルが静かに立っていた。彼女は目を閉じ、風に煽られて乱れる銀色の髪を、ただそのままにさせている。その顔は蒼白で、これから自らが成そうとすることの重圧に、か細い肩が微かに震えていた。
「…準備、できましたわ」
ルリエルが目を開ける。その翡翠の瞳には、不安を押し殺した、強い決意の光が宿っていた。
ケンジは、仲間たちの顔を一人ずつ見回した。ゴードンの覚悟、シーナの緊張、そしてルリエルの決意。それぞれの感情が、この作戦の燃料となる。彼は深く頷いた。
「―――作戦開始(プロジェクト・スタート)」
ケンジの静かな、しかし有無を言わせぬ号令。
それを合図に、ルリエルがゆっくりと両腕を天に掲げた。彼女の唇から、古代エルフ語の、祈りのように美しい詠唱が紡がれ始める。最初は風音にかき消されそうなほどか細い囁きだったが、それは次第に力を増し、周囲の魔力乱流と共鳴するかのように、凛とした響きを帯びていった。
彼女の足元に、青白い光で描かれた複雑な魔法陣が浮かび上がる。杖の先端に埋め込まれた宝石がまばゆい光を放ち始め、風鳴りの山に満ちる淀んだ魔力が、まるで光に引き寄せられる蝶のように、彼女の元へと収束していく。
そして、魔法は仲間たちの心にも干渉を始めた。
ゴードンの心に宿る「守護」の意志が、シーナの心に潜む「警戒」の感覚が、そしてケンジの心にある「成功」への確信が、目に見えない光の糸となってルリエルへと流れ込んでいく。それは、彼らの魂そのものを燃料とする、あまりにも繊細で、そして強大な魔法の始まりだった。
眼下のワイバーンの巣の上空に、集まった魔力が形を結び始める。空間が陽炎のように揺らめき、そこに、ワイバーンが最も安心できる場所が構築されていく。それは、シーナが命がけで偵察した、巣の内部そのものだった。
苔むした岩に差し込む朝日。滴る水滴の音。巣の中央で、母親の背中に寄り添う小さな子供たち。あまりにも完璧な幻影に、ゴードンもシーナも、一瞬だけ息をのんだ。
ケンジの視界(UI)に表示されていた魔力乱流のグラフが、まるで嵐が凪いだかのように、緩やかな安定曲線を描き始めている。
【プロジェクト進捗:フェーズ1、正常に進行中】
その無機質な文字が、これ以上ないほどの希望に見えた。作戦は成功する。このままいけば、誰も傷つくことなく、この困難なプロジェクトを完了させることができる。誰もが、そう信じかけた、その瞬間だった。
ピシッ。
最初に、その不協和音に気づいたのは、誰だったか。
完璧に構築されていた幻影の、その表面に、まるで薄いガラスに走った一本の亀裂のように、黒い線が走った。
「…ッ!?」
詠唱を続けていたルリエルの顔が、苦痛に歪む。魔法陣に流れ込む仲間たちの精神エネルギーに、微かだが、無視できないノイズが混じり始めたのだ。
そのノイズの源は、二人。
ゴードンの心だった。
彼の心は、目の前の光景を信じようとすればするほど、過去のトラウマという名の分厚い氷に閉ざされていった。
(…そうだ。あの時も、こうだった)
彼の脳裏に、妹が死んだあのダンジョンの光景が蘇る。リーダーが「いける!」と叫んだ時、仲間たちの顔には、今と同じような、根拠のない希望と高揚感が浮かんでいた。誰もが、成功だけを信じて疑わなかった。
(この幻術も、同じではないのか…?)
その疑念が、ゴードンの心に冷たい影を落とす。この作戦は、あまりにも「感情」という不確かなものに依存しすぎている。もし、ワイバーンがこの幻に騙されなかったら? ケンジ殿の計画は完璧だ。だが、その土台は、あまりにも脆い、人間の心ではないのか。
彼が仲間を守りたいと願うがゆえの、誠実な迷い。だが、その迷いこそが、ルリエルの魔法を内側から蝕む、最も強力な毒となっていた。
そして、シーナの心だった。
彼女のプロとしての冷徹な思考が、この作戦の致命的な脆弱性を弾き出していた。
(…綺麗なもんだ。だが、所詮は絵に描いた餅さ)
彼女は、この幻術が崩壊した後のことを考えていた。一度歯車が狂えば、この寄せ集めのパーティなど、一瞬で崩壊する。
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彼女は懐に忍ばせた、あの黒曜石の護符の冷たい感触を確かめる。それは、仲間を信じきれない彼女が、自分一人が生き残るために用意した、最後の保険だった。その、仲間を裏切る可能性を秘めた思考が、第二の毒となって、ルリエルの精神を苛んだ。
二人の抱いた、あまりにも人間的な、そして誠実な迷い。それが、ルリエルの魔法陣に流れ込む精神エネルギーを、温かい光から、冷たいノイズへと変質させていった。
バヂッ!
幻影に走った亀裂が、蜘蛛の巣のように広がっていく。完璧だったはずの巣の幻影が、まるで壊れた映像のように激しく揺らぎ、明滅を始めた。
「…ッ、ああ……!」
「誰かの…迷いが…私の魔力を……乱して、いるッ!」
凄まじい魔力の逆流が、ルリエルを襲う。仲間たちの疑念が、増幅された負のエネルギーとなって、彼女の精神を直接殴りつけるかのようだった。頭が割れるように痛み、全身の血が逆流するような感覚。視界が真っ赤に染まる。
「ルリエルさん!?」
ケンジの叫び声が、遠くで聞こえる。だが、彼女にはもう、それに答える余裕はなかった。
幻影の亀裂から、黒い霧が漏れ出し始めた。それは、ワイバーンが吐き出す不吉な気配そのものだった。
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