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第2章:赤いタスクと二つの正義
第58話:敗者の務め
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風鳴りの山での激闘から数日が過ぎた。
王城の一室は、英雄の凱旋を祝うための華やかな謁見の間ではなく、陽光さえも入り込むのをためらうかのように静まり返った、簡素な医療棟の個室だった。空気を満たすのは、薬草を煎じたわずかに苦い匂いと、清潔なリネンの匂い。それは、彼の心を覆う重い空気と不思議と調和しているかのようだった。
勇者ガイは、その部屋で、一人静かに椅子に腰掛けていた。
視線の先には、白い寝台の上で未だ意識の戻らない仲間の一人。ワイバーンの尾の一撃を受け、砕けた鎧がその身に食い込んだ騎士だ。彼の顔は蒼白で、浅く苦しげな呼吸を繰り返すたび、その胸がわずかに上下する。その小さな動きが、ガイの胸を鋭くえぐり、自身の無力さをこれでもかと突きつける。
ガイは濡らした布を桶の水で絞ると、騎士の熱に浮かされた額をそっと拭った。
その手つきは、聖剣を握る英雄のそれとは似ても似つかない。力強く自信に満ちたものではなく、どこまでも優しく、そして自らの過ちに対する懺悔の念に満ちていた。彼の表情から、民衆を熱狂させる輝くような笑顔は完全に消え失せている。金色の髪は輝きを失い力なく肩にかかり、琥珀色の瞳はかつての自信を失い、深い苦悩と答えの見つからない問いを抱えたまま、ただ虚空を彷徨っていた。
英雄の仮面は砕け散った。そこにいたのは、自らの独善的な行動によって仲間を死の淵へ追いやった、ただの無力な一人の青年だった。
(…俺が、間違っていたのか…?)
その問いが、この数日間、彼の頭の中を呪いのように反響している。
彼は自らの戦いを振り返っていた。
民衆の喝采。国王からの期待。そして聖剣に選ばれた者としての絶対的な使命感。彼はそれらすべてを双肩に背負い、常に「最短」で「最大」の成果を出すことだけを考えてきた。「災厄」は速やかに、そして完全に取り除く。それが民衆の不安を払拭し、希望を与えるための唯一の「正義」だと信じて疑わなかった。
だが結果はどうだ。
彼の正義は、母親であるワイバーンの怒りを買い、仲間たちを危険に晒し、そして自分自身も無力に打ち破られた。彼の脳裏に焼き付いて離れない、あの屈辱的な光景。
絶望的な状況の中、突如として現れたあの男、ケンジ。
彼の指揮のもと、統率の取れた動きで戦場を再構築していくあのパーティ。
攻撃ではなく攪乱と支援に徹したエルフの魔術師。負傷者の救出を神業のような速さで成し遂げた盗賊の女。そして、自らの命を賭して、この俺を守り抜いたドワーフの戦士。
彼らの戦い方は、ガイの知るどの英雄譚とも違っていた。
そこには華々しい一騎当千の武勇も、世界を揺るがすような奇跡の魔法もない。ただ冷徹なまでの状況分析。緻密に計算され尽くした役割分担。そして、リーダーへの揺るぎない信頼。彼らは「個の武力」ではなく、「組織の知略」で、あの狂乱したワイバーンを完全に制圧してみせたのだ。
(…あれが、本当の、強さ…?)
ガイは濡れた布を強く握りしめた。
騎士の苦しげな寝息が静かな部屋に響く。その音が、まるで自らの正義の脆さを嘲笑っているかのように聞こえてならなかった。敗北の味は、彼の心に鉛のように重く沈み込んでいた。
静まり返った病室の重い沈黙を破ったのは、扉の向こう、廊下から聞こえてくる数人の騎士たちの声だった。ひそやかだが、彼らが内に秘める興奮を隠しきれない声。
「聞いたか?風鳴りの山のワイバーンの件だ。討伐したわけじゃないらしい」
「ああ。なんでも、あのもう一人の勇者殿…ケンジ殿の指揮で、巣ごと安全な場所に移設したとか…」
「馬鹿な、そんなことが可能なのか!?あの狂乱の化け物を殺さずに…!?」
「ああ。信じられんが、事実だ。彼のパーティの連携はもはや伝説級だったらしい。特にあのドワーフの戦士…。ガイ様の窮地をたった一人で救ったというじゃないか」
「英雄とは、必ずしも、最も輝かしい剣を持つ者とは限らないんだな…」
その何の悪意もない、ただ純粋な称賛の言葉。
それらが一つまた一つと鋭い棘となって、ガイの砕け散ったプライドに深く突き刺さっていく。ガイは固く目を閉じた。騎士たちの声が、まるで自らの敗北を断罪する天からの声のように聞こえてならなかった。
彼は自らの戦いを、そしてケンジという男のあの不可解な戦い方を、頭の中で何度も反芻していた。
民衆の喝采。王都の大通りを歩けば、誰もが彼の名を呼び、その輝かしい姿に希望を見出す。彼はその期待に応えることこそが勇者の務めだと信じていた。聖剣を高く掲げ、力強い言葉で民衆の不安を打ち払う。その姿は、まさしく物語に描かれる光の勇者そのものだった。彼は自分がその「象徴」であり続けることに誇りを感じていた。希望とは誰かに見せることで、初めてその価値を持つものだと信じて疑わなかった。
その裏側で、あの男――ケンジは何をしていた?
ガイは王城での競合プレゼンの光景を思い出す。
ケンジは民衆の熱狂や貴族たちの期待といった曖昧なものには一切興味を示さなかった。彼が口にしたのは「リスク」「リソース」「KPI」といった無機質で無味乾燥な、誰も理解できない言葉の羅列。広げた羊皮紙には英雄譚ではなく、ただ緻密で、どこか冷徹ささえ感じさせる無数の計画(プラン)が書き込まれているだけだった。
あの時、ガイはそんな彼を心のどこかで見下していた。「なんと夢のない、つまらない男だろう」と。
だが現実はどうだった。
自分の光り輝く「正義」は、狂乱したワイバーンの前で無力に砕け散った。
彼の地味で誰にも理解されない「計画」は、その絶望的な状況の中から仲間を、そして自分さえも救い出す、唯一の道筋を示してみせたのだ。
ガイの脳裏に、あの戦場の光景が再び蘇る。
自分はただ正面から、力任せにワイバーンを討ち果たそうとしていた。だがケンジは違った。
彼はワイバーンがなぜ狂乱しているのか、その「原因」と向き合っていた。仲間たちの心が恐怖と不信でバラバラになった時、彼はその「痛み」と向き合っていた。
そうだ。
俺は民衆の喝采という目に見える「希望」に応えようとしていた。だが、あいつは、その裏側にある誰にも見えない「リスク」や「不安」と、たった一人で向き合い続けていたのだ。
華やかな舞台の上で光を浴びることだけが勇者の務めではない。
その舞台が崩れ落ちないように。その舞台の上で誰もが傷つかないように。
誰にも見えない舞台の裏で、地味で泥臭い無数の準備を重ね、あらゆる危険を想定し、そのすべてを管理下に置く。それこそが、あの男の戦い方だったのだ。
廊下から聞こえてくる騎士たちの称賛の声が遠のいていく。
静寂が再び病室を支配する。ガイはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もはや焦りも困惑もなかった。ただ、自らの正義がいかに脆く、そして独善的なものであったかを認めざるを得ない、深く深い絶望の色だけが浮かんでいた。
彼は自らの喉を強く噛みしめた。口内に広がる鉄の味。
それは屈辱の色だった。そして同時に、彼の心の中に、これまで生まれて一度も感じたことのない、奇妙な感情が芽生え始めていた。
あの冴えない、ただの男だと思っていたケンジというプロジェクトマネージャーに対する感情。
それは、恐怖でも、怒りでもない。
自らの手で決して成し得なかった奇跡を目の当たりにした、敗者が勝者に対して抱く、畏敬の念とでも言うべき感情だった。
王城の一室は、英雄の凱旋を祝うための華やかな謁見の間ではなく、陽光さえも入り込むのをためらうかのように静まり返った、簡素な医療棟の個室だった。空気を満たすのは、薬草を煎じたわずかに苦い匂いと、清潔なリネンの匂い。それは、彼の心を覆う重い空気と不思議と調和しているかのようだった。
勇者ガイは、その部屋で、一人静かに椅子に腰掛けていた。
視線の先には、白い寝台の上で未だ意識の戻らない仲間の一人。ワイバーンの尾の一撃を受け、砕けた鎧がその身に食い込んだ騎士だ。彼の顔は蒼白で、浅く苦しげな呼吸を繰り返すたび、その胸がわずかに上下する。その小さな動きが、ガイの胸を鋭くえぐり、自身の無力さをこれでもかと突きつける。
ガイは濡らした布を桶の水で絞ると、騎士の熱に浮かされた額をそっと拭った。
その手つきは、聖剣を握る英雄のそれとは似ても似つかない。力強く自信に満ちたものではなく、どこまでも優しく、そして自らの過ちに対する懺悔の念に満ちていた。彼の表情から、民衆を熱狂させる輝くような笑顔は完全に消え失せている。金色の髪は輝きを失い力なく肩にかかり、琥珀色の瞳はかつての自信を失い、深い苦悩と答えの見つからない問いを抱えたまま、ただ虚空を彷徨っていた。
英雄の仮面は砕け散った。そこにいたのは、自らの独善的な行動によって仲間を死の淵へ追いやった、ただの無力な一人の青年だった。
(…俺が、間違っていたのか…?)
その問いが、この数日間、彼の頭の中を呪いのように反響している。
彼は自らの戦いを振り返っていた。
民衆の喝采。国王からの期待。そして聖剣に選ばれた者としての絶対的な使命感。彼はそれらすべてを双肩に背負い、常に「最短」で「最大」の成果を出すことだけを考えてきた。「災厄」は速やかに、そして完全に取り除く。それが民衆の不安を払拭し、希望を与えるための唯一の「正義」だと信じて疑わなかった。
だが結果はどうだ。
彼の正義は、母親であるワイバーンの怒りを買い、仲間たちを危険に晒し、そして自分自身も無力に打ち破られた。彼の脳裏に焼き付いて離れない、あの屈辱的な光景。
絶望的な状況の中、突如として現れたあの男、ケンジ。
彼の指揮のもと、統率の取れた動きで戦場を再構築していくあのパーティ。
攻撃ではなく攪乱と支援に徹したエルフの魔術師。負傷者の救出を神業のような速さで成し遂げた盗賊の女。そして、自らの命を賭して、この俺を守り抜いたドワーフの戦士。
彼らの戦い方は、ガイの知るどの英雄譚とも違っていた。
そこには華々しい一騎当千の武勇も、世界を揺るがすような奇跡の魔法もない。ただ冷徹なまでの状況分析。緻密に計算され尽くした役割分担。そして、リーダーへの揺るぎない信頼。彼らは「個の武力」ではなく、「組織の知略」で、あの狂乱したワイバーンを完全に制圧してみせたのだ。
(…あれが、本当の、強さ…?)
ガイは濡れた布を強く握りしめた。
騎士の苦しげな寝息が静かな部屋に響く。その音が、まるで自らの正義の脆さを嘲笑っているかのように聞こえてならなかった。敗北の味は、彼の心に鉛のように重く沈み込んでいた。
静まり返った病室の重い沈黙を破ったのは、扉の向こう、廊下から聞こえてくる数人の騎士たちの声だった。ひそやかだが、彼らが内に秘める興奮を隠しきれない声。
「聞いたか?風鳴りの山のワイバーンの件だ。討伐したわけじゃないらしい」
「ああ。なんでも、あのもう一人の勇者殿…ケンジ殿の指揮で、巣ごと安全な場所に移設したとか…」
「馬鹿な、そんなことが可能なのか!?あの狂乱の化け物を殺さずに…!?」
「ああ。信じられんが、事実だ。彼のパーティの連携はもはや伝説級だったらしい。特にあのドワーフの戦士…。ガイ様の窮地をたった一人で救ったというじゃないか」
「英雄とは、必ずしも、最も輝かしい剣を持つ者とは限らないんだな…」
その何の悪意もない、ただ純粋な称賛の言葉。
それらが一つまた一つと鋭い棘となって、ガイの砕け散ったプライドに深く突き刺さっていく。ガイは固く目を閉じた。騎士たちの声が、まるで自らの敗北を断罪する天からの声のように聞こえてならなかった。
彼は自らの戦いを、そしてケンジという男のあの不可解な戦い方を、頭の中で何度も反芻していた。
民衆の喝采。王都の大通りを歩けば、誰もが彼の名を呼び、その輝かしい姿に希望を見出す。彼はその期待に応えることこそが勇者の務めだと信じていた。聖剣を高く掲げ、力強い言葉で民衆の不安を打ち払う。その姿は、まさしく物語に描かれる光の勇者そのものだった。彼は自分がその「象徴」であり続けることに誇りを感じていた。希望とは誰かに見せることで、初めてその価値を持つものだと信じて疑わなかった。
その裏側で、あの男――ケンジは何をしていた?
ガイは王城での競合プレゼンの光景を思い出す。
ケンジは民衆の熱狂や貴族たちの期待といった曖昧なものには一切興味を示さなかった。彼が口にしたのは「リスク」「リソース」「KPI」といった無機質で無味乾燥な、誰も理解できない言葉の羅列。広げた羊皮紙には英雄譚ではなく、ただ緻密で、どこか冷徹ささえ感じさせる無数の計画(プラン)が書き込まれているだけだった。
あの時、ガイはそんな彼を心のどこかで見下していた。「なんと夢のない、つまらない男だろう」と。
だが現実はどうだった。
自分の光り輝く「正義」は、狂乱したワイバーンの前で無力に砕け散った。
彼の地味で誰にも理解されない「計画」は、その絶望的な状況の中から仲間を、そして自分さえも救い出す、唯一の道筋を示してみせたのだ。
ガイの脳裏に、あの戦場の光景が再び蘇る。
自分はただ正面から、力任せにワイバーンを討ち果たそうとしていた。だがケンジは違った。
彼はワイバーンがなぜ狂乱しているのか、その「原因」と向き合っていた。仲間たちの心が恐怖と不信でバラバラになった時、彼はその「痛み」と向き合っていた。
そうだ。
俺は民衆の喝采という目に見える「希望」に応えようとしていた。だが、あいつは、その裏側にある誰にも見えない「リスク」や「不安」と、たった一人で向き合い続けていたのだ。
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その舞台が崩れ落ちないように。その舞台の上で誰もが傷つかないように。
誰にも見えない舞台の裏で、地味で泥臭い無数の準備を重ね、あらゆる危険を想定し、そのすべてを管理下に置く。それこそが、あの男の戦い方だったのだ。
廊下から聞こえてくる騎士たちの称賛の声が遠のいていく。
静寂が再び病室を支配する。ガイはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もはや焦りも困惑もなかった。ただ、自らの正義がいかに脆く、そして独善的なものであったかを認めざるを得ない、深く深い絶望の色だけが浮かんでいた。
彼は自らの喉を強く噛みしめた。口内に広がる鉄の味。
それは屈辱の色だった。そして同時に、彼の心の中に、これまで生まれて一度も感じたことのない、奇妙な感情が芽生え始めていた。
あの冴えない、ただの男だと思っていたケンジというプロジェクトマネージャーに対する感情。
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