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第3章:偽りの繁栄と経済戦争
第91話:噂という名の毒と幻の市場
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シーナがフラックスの街の心に疑心暗鬼という名の冷たい毒を注ぎ込んでいるまさに同じ頃、街から数キロ離れた隣町の小高い丘の上で、もう一つの恐るべき奇策がそのベールを脱ごうとしていた。
「…始めますわ」
ルリエルは静かに告げた。彼女の周りにはゴードンとガイが二体の巨大な守護神像のように身を固めている。彼女の足元には王立魔術院の禁書庫から持ち出した古代文献が、風に飛ばされぬよう重石を置かれて広げられていた。そのページに描かれているのは、現代では完全に失われた超大規模な幻術魔法の魔法陣だ。
彼女は目を閉じ、その精神を極限まで集中させる。心に浮かぶのはシーナの故郷ミレット村のあの悲惨な光景、そして診療所で健気に動き回っていた子供たちの笑顔。(もう、あんな顔はさせない)その強い想いが、彼女の魔力をこれまでにないほど増幅させていく。
彼女の唇から紡ぎ出される古代エルフ語の詠唱は、もはや呪文ではなかった。それは世界そのものを創造する神の歌。彼女の足元の魔法陣が眩いばかりの黄金色の光を放ち始めた。
そして、奇跡は起きた。
丘の麓に広がる何もないただの荒れ地。その空間が陽炎のように揺らめいた。揺らめきの中から、まるで蜃気楼のように一つの巨大な「市場」が姿を現したのだ。
それは完璧で、そして理想的な市場だった。清潔な白いテントが整然と立ち並び、その露店には瑞々しい果物や焼きたてのパン、きらびやかな装飾品の数々が溢れんばかりに陳列されている。市場の中心の広場では吟遊詩人が穏やかなリュートの音色を奏で、その周りでは子供たちが屈託のない笑顔で駆け回っていた。行き交う人々は皆穏やかな表情を浮かべ、その活気はどこまでも健康的で平和なものだった。
それはルリエルがその魂のすべてを賭して作り上げた大規模な幻術魔法。ケンジに託された最後の、そして最大の切り札だった。
その唐突に出現した「理想郷」の噂は、ケンジが雇った数人の触れ役によって瞬く間にフラックスの街へもたらされた。
『聞いたかい!? 隣町に新しい市場ができたらしいぜ!』
『ああ! アルタイル商会なんかよりずっと品揃えが良くて値段も安いんだと!』
『何よりあそこの品物は安全らしい! ミレット村の呪いとは無縁の清浄な品物だってよ!』
この噂は、シーナが撒いた「呪い」の噂によって疑心暗鬼の坩堝と化していたフラックス市民の心に唯一の希望として差し込んだ。彼らはもはやアルタイル商会の商品を買うことができない。だが、この街の外に出れば安全で安価な商品が手に入るのだ。
その心理はすぐに集団心理へと発展した。
最初に動いたのは街に閉じ込められていた外部の商人たちだった。彼らは我先にとその荷馬車を新たな市場へと向けた。その動きを見て、市民たちも一斉に動き出す。
「我々も行こう!」
「こんな呪われた街に長居は無用だ!」
それはもはや人の流れではない。決壊したダムから溢れ出す濁流だ。パニックに駆られたフラックスの市民と商人たちが一斉に街の外へ逃げ出し始めた。
ほんの数時間前まであれほど狂乱じみた活気に満ちていたフラックスの大市場。その場所から完全に人影が消えた。露店には山と積まれた商品だけが虚しく残されている。その光景は、まるで繁栄を謳歌していた巨大な都市が一瞬にしてゴーストタウンへと変わり果てたかのようだった。
ケンジは、司令室と化した宿屋の窓から、その光景を静かに見つめていた。彼の視界(UI)には、フラックス市の人口を示す数値が、リアルタイムで減少していく様が映し出されている。
彼の奇策は完璧に成功した。彼は人々の心理を巧みに操り、この街の心臓であったはずの「需要」という名の歯車を完全に破壊してみせたのだ。
その恐るべき現実を、アルタイル商会の本部ビル最上階で、一人の男がただ呆然と見つめていた。リーダー、レプス。彼の完璧だったはずのポーカーフェイスはもはやどこにもない。
コン、コン。
執務室の扉がノックされ、部下が血相を変えて駆け込んでくる。
「申し上げます! 街の商人たちが一斉に我々との契約の破棄を通告してきました!」
「…なんだと…?」
「『呪われた商品を扱う商会とは取引できない』と! 彼らは皆、隣町のあの奇妙な市場へと流れていきます!」
「…黙れ…」
「ですがレプス様! 倉庫に保管していた商品が…! 価値を失い、腐敗を始めています! このままでは我が商会の信用は…! すでに傭兵ギルドからは、滞納している給金の支払いを求める最後通告が…!」
「黙れと言っているッ!!!」
レプスの絶叫。彼が投げつけた高価なインク壺が壁に叩きつけられ、醜い染みを広げた。部下は恐怖に顔を引き攣らせ、慌てて部屋を出ていく。
後に残されたのは一人荒い息を吐くレプスだけだ。彼の琥珀色の瞳には、これまでに見たこともないほどの激しい感情の嵐が吹き荒れていた。彼の目の前には、全資産を記録した在庫リストが広げられている。だが、そこに書かれた天文学的な数字はもはや何の意味もなさない。売れない商品は資産ではない。それはただの負債だ。
(…なぜだ…)
彼は理解できなかった。自分の計画は完璧だったはずだ。世界の「仕様バグ」を利用し、富を独占する。そのあまりにも合理的で、そして美しいシステム。それをなぜ、あの男はいともたやすく破壊することができたのか。
武力ではない。魔法でもない。ただ噂と市場操作という、卑劣で姑息な手段によって。
彼の脳裏に、あのプロジェクトマネージャーの静かな、しかしどこか自分を嘲笑うかのような顔が浮かび上がる。
レプスの整った顔が、初めて怒りと、そしてどうしようもない屈辱によって醜く歪んだ。彼は敗北したのだ。自らが最も得意としていたはずの知略の戦場で。あの異世界から来た得体の知れない男に。完膚なきまでに。
その頃、ケンジたちの司令室では、シーナとルリエルがそれぞれの作戦の成功を報告していた。その顔には疲労の色が濃いが、それ以上に、自らの専門スキルがチームの勝利に大きく貢献したことへの確かな誇りが輝いている。
ケンジはその報告を受けると静かに頷いた。そしてロードマップのフェーズ2の横に力強く書き記す。
【完了(COMPLETE)】
「皆さん、お疲れ様でした。これで我々は敵の手足と、その栄養源を断ち切った。後はその心臓を止めるだけです」
ケンジのその静かな言葉。
それが次なる最終決戦の始まりを告げる合図となった。アルタイル商会はもはや裸の王様。彼らを止める最後の戦いが今始まろうとしていた。
「…始めますわ」
ルリエルは静かに告げた。彼女の周りにはゴードンとガイが二体の巨大な守護神像のように身を固めている。彼女の足元には王立魔術院の禁書庫から持ち出した古代文献が、風に飛ばされぬよう重石を置かれて広げられていた。そのページに描かれているのは、現代では完全に失われた超大規模な幻術魔法の魔法陣だ。
彼女は目を閉じ、その精神を極限まで集中させる。心に浮かぶのはシーナの故郷ミレット村のあの悲惨な光景、そして診療所で健気に動き回っていた子供たちの笑顔。(もう、あんな顔はさせない)その強い想いが、彼女の魔力をこれまでにないほど増幅させていく。
彼女の唇から紡ぎ出される古代エルフ語の詠唱は、もはや呪文ではなかった。それは世界そのものを創造する神の歌。彼女の足元の魔法陣が眩いばかりの黄金色の光を放ち始めた。
そして、奇跡は起きた。
丘の麓に広がる何もないただの荒れ地。その空間が陽炎のように揺らめいた。揺らめきの中から、まるで蜃気楼のように一つの巨大な「市場」が姿を現したのだ。
それは完璧で、そして理想的な市場だった。清潔な白いテントが整然と立ち並び、その露店には瑞々しい果物や焼きたてのパン、きらびやかな装飾品の数々が溢れんばかりに陳列されている。市場の中心の広場では吟遊詩人が穏やかなリュートの音色を奏で、その周りでは子供たちが屈託のない笑顔で駆け回っていた。行き交う人々は皆穏やかな表情を浮かべ、その活気はどこまでも健康的で平和なものだった。
それはルリエルがその魂のすべてを賭して作り上げた大規模な幻術魔法。ケンジに託された最後の、そして最大の切り札だった。
その唐突に出現した「理想郷」の噂は、ケンジが雇った数人の触れ役によって瞬く間にフラックスの街へもたらされた。
『聞いたかい!? 隣町に新しい市場ができたらしいぜ!』
『ああ! アルタイル商会なんかよりずっと品揃えが良くて値段も安いんだと!』
『何よりあそこの品物は安全らしい! ミレット村の呪いとは無縁の清浄な品物だってよ!』
この噂は、シーナが撒いた「呪い」の噂によって疑心暗鬼の坩堝と化していたフラックス市民の心に唯一の希望として差し込んだ。彼らはもはやアルタイル商会の商品を買うことができない。だが、この街の外に出れば安全で安価な商品が手に入るのだ。
その心理はすぐに集団心理へと発展した。
最初に動いたのは街に閉じ込められていた外部の商人たちだった。彼らは我先にとその荷馬車を新たな市場へと向けた。その動きを見て、市民たちも一斉に動き出す。
「我々も行こう!」
「こんな呪われた街に長居は無用だ!」
それはもはや人の流れではない。決壊したダムから溢れ出す濁流だ。パニックに駆られたフラックスの市民と商人たちが一斉に街の外へ逃げ出し始めた。
ほんの数時間前まであれほど狂乱じみた活気に満ちていたフラックスの大市場。その場所から完全に人影が消えた。露店には山と積まれた商品だけが虚しく残されている。その光景は、まるで繁栄を謳歌していた巨大な都市が一瞬にしてゴーストタウンへと変わり果てたかのようだった。
ケンジは、司令室と化した宿屋の窓から、その光景を静かに見つめていた。彼の視界(UI)には、フラックス市の人口を示す数値が、リアルタイムで減少していく様が映し出されている。
彼の奇策は完璧に成功した。彼は人々の心理を巧みに操り、この街の心臓であったはずの「需要」という名の歯車を完全に破壊してみせたのだ。
その恐るべき現実を、アルタイル商会の本部ビル最上階で、一人の男がただ呆然と見つめていた。リーダー、レプス。彼の完璧だったはずのポーカーフェイスはもはやどこにもない。
コン、コン。
執務室の扉がノックされ、部下が血相を変えて駆け込んでくる。
「申し上げます! 街の商人たちが一斉に我々との契約の破棄を通告してきました!」
「…なんだと…?」
「『呪われた商品を扱う商会とは取引できない』と! 彼らは皆、隣町のあの奇妙な市場へと流れていきます!」
「…黙れ…」
「ですがレプス様! 倉庫に保管していた商品が…! 価値を失い、腐敗を始めています! このままでは我が商会の信用は…! すでに傭兵ギルドからは、滞納している給金の支払いを求める最後通告が…!」
「黙れと言っているッ!!!」
レプスの絶叫。彼が投げつけた高価なインク壺が壁に叩きつけられ、醜い染みを広げた。部下は恐怖に顔を引き攣らせ、慌てて部屋を出ていく。
後に残されたのは一人荒い息を吐くレプスだけだ。彼の琥珀色の瞳には、これまでに見たこともないほどの激しい感情の嵐が吹き荒れていた。彼の目の前には、全資産を記録した在庫リストが広げられている。だが、そこに書かれた天文学的な数字はもはや何の意味もなさない。売れない商品は資産ではない。それはただの負債だ。
(…なぜだ…)
彼は理解できなかった。自分の計画は完璧だったはずだ。世界の「仕様バグ」を利用し、富を独占する。そのあまりにも合理的で、そして美しいシステム。それをなぜ、あの男はいともたやすく破壊することができたのか。
武力ではない。魔法でもない。ただ噂と市場操作という、卑劣で姑息な手段によって。
彼の脳裏に、あのプロジェクトマネージャーの静かな、しかしどこか自分を嘲笑うかのような顔が浮かび上がる。
レプスの整った顔が、初めて怒りと、そしてどうしようもない屈辱によって醜く歪んだ。彼は敗北したのだ。自らが最も得意としていたはずの知略の戦場で。あの異世界から来た得体の知れない男に。完膚なきまでに。
その頃、ケンジたちの司令室では、シーナとルリエルがそれぞれの作戦の成功を報告していた。その顔には疲労の色が濃いが、それ以上に、自らの専門スキルがチームの勝利に大きく貢献したことへの確かな誇りが輝いている。
ケンジはその報告を受けると静かに頷いた。そしてロードマップのフェーズ2の横に力強く書き記す。
【完了(COMPLETE)】
「皆さん、お疲れ様でした。これで我々は敵の手足と、その栄養源を断ち切った。後はその心臓を止めるだけです」
ケンジのその静かな言葉。
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