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第12話:星空と二人の誓い
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『赤牙』の脅威が明らかになってから数日が過ぎた。町は嵐の前の静けさに包まれていた。バリケードが築かれ見張りが立つなど、張り詰めた緊張感はありつつも、人々は来るべき戦いに備えて静かに日常を送っていた。だが、その静けさは、いつ破られてもおかしくないガラスのように脆い。
連日、義勇団の指揮や住民たちとの対話に追われていたセレスティアは、その夜ようやく訪れた束の間の平穏に、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩むのを感じていた。館の窓から見える町は、家々の窓から漏れる灯りも少なく、静まり返っている。しかし、その静けさがかえって、心の奥底にある不安を増幅させた。この町を守れるだろうか。私に、この重責を担う資格があるのだろうか。王都での失敗が、再び胸を刺す。じっとしていられず、彼女はマントを羽織り、そっと館を抜け出した。ひんやりとした夜気が、火照った頬に心地よかった。ただ少しだけ、この静かな町を歩き、自分の心を確かめたかったのだ。
月明かりが、ぬかるんだ道を銀色に照らしている。セレスティアは誰に会うでもなく、ただゆっくりと歩を進めた。鍛冶場の前を通りかかった時、ふと足を止める。あの日以来、昼夜を問わず響いていた鉄を打つ音は聞こえない。彼も少しは休んでいるのだろうか。そう思った矢先、角を曲がった先で人影が佇んでいるのに気づいた。見慣れた逞しい背中。アルベルトだった。
彼もセレスティアの気配に気づいて振り返る。その顔には驚きと、それから少しの照れが浮かんでいた。
「……あんたか。こんな夜中に見回りか?」
「いいえ、少し夜風にあたりに。あなたこそ、もう眠らないの?」
「ああ。少し考え事だ」
彼はそう言うと、空を見上げた。その横顔は昼間の職人の顔とは違う、どこか物憂げで静かな表情をしていた。言葉が途切れ、二人の間に心地よい沈黙が落ちる。しかしそれは決して気まずいものではなかった。
「……もう少し、歩かないか?」
アルベルトがぽつりとそう尋ねた。私たちは自然な流れで並んで歩き始めた。町の外れにある小高い丘へと向かって。そこはアルベルトが子供の頃によく遊んだ場所だと、以前教えてくれたことがあった。町全体と、そしてその向こうに広がる夜空を、遮るものなく見渡せる特別な場所。
丘の頂上に着いた私たちは、息を呑んだ。そこには、生まれて初めて見るような満天の星空が広がっていた。王都の夜は街の灯りが明るすぎて、これほど多くの星を見ることはできなかった。けれどここには、ただ純粋な闇と、星々の囁きだけがある。天頂を横切るように流れる乳白色の光の帯――天の川。時折すうっと尾を引いて消えていく流れ星。まるでダイヤモンドの粉を黒いベルベットの上に撒き散らしたかのような、圧倒的な美しさだった。
私たちは並んで草の上に腰を下ろした。遠くで秋の虫の声が聞こえる。心地よい夜風が、私たちの髪を優しく撫でていく。言葉は必要なかった。ただこの広大な夜空の下で、同じものを見つめている。その事実だけで心が満たされていくようだった。連日の緊張で強張っていた心が、ゆっくりと解きほぐされていく。この時間が永遠に続けばいいのに。そう思ってしまった。
どれほどの時間が経っただろうか。不意にアルベルトがぽつりと呟いた。
「……なあ、笑うなよ」
「え?」
「俺の夢の話だ」
彼は少し照れくさそうにそっぽを向きながら言った。私は黙って彼の次の言葉を待つ。
「俺の夢はな……別に大したことじゃねえんだ」
彼は言葉を選びながらゆっくりと語り始めた。「この町で自分の家族を持って……。昼間は鍛冶場で鉄を叩いて、夜は家に帰ると『おかえり』って言ってくれる奴がいてさ。飯を食って子供たちの寝顔を見て……。そうやって、この町のみんながただ普通に笑って暮らせるのを、死ぬまで見守ることだ。……それだけなんだ」
そのあまりにもささやかで、そして尊い夢。その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。王都にいた頃の私の夢は何だっただろう。エドワード王子の完璧な妃となり、国母として歴史に名を残すこと。誰からも羨望され、尊敬される完璧な存在になること。そのために私は全てを犠牲にしてきた。自分の感情さえも押し殺して。
けれど、今アルベルトの夢に触れて、私は悟ってしまった。私が追い求めていたものが、どれほど空虚で独りよがりなものだったかということを。(王都ではこんな風に、誰かと肩を並べてただ夜空を見上げるなんてこと、一度もなかった……)私の心の中に静かな声が響く。(私が本当に欲しかったのは、地位や名誉なんかじゃない。ただこんな風に誰かと心を寄せ合って、同じものを見て穏やかに生きていくこと。それだけだったのかもしれない)私自身の本当の願い。それは「この町でこの人たちと穏やかに生きたい」というアルベルトの夢と重なる、新しい夢の形だった。
「……素敵な夢ね」
私がそう言うと、彼は「だから笑うなって言っただろ」とますます顔を赤くして俯いてしまった。その不器用な優しさが愛おしくてたまらない。私はこの人を、この人の夢を、この町を守りたい。心の底からそう思った。
帰り道、丘を下りながら私たちはどちらともなく歩みを緩めていた。この時間が終わってしまうのが名残惜しかった。町の灯りが見えてきた、その時だった。アルベルトが不意に立ち止まった。私もつられて足を止める。
彼は決意を固めたように、まっすぐに私を見つめて言った。その瞳は星の光を映して真剣に揺らめいていた。
「セレスティア」
「なあ。この騒ぎが無事に片付いたら……」
彼は一度言葉を切ると、深く息を吸い込んだ。
「あんたに、ちゃんと伝えたいことがあるんだ」
その言葉の意味を私が悟るのに時間はかからなかった。心臓が大きく高鳴る。驚きと喜びと、そしてこれから始まる戦いの前にそんな約束をしていいのだろうかという、ほんの少しの戸惑い。様々な感情が嵐のように私の中で渦巻いた。けれど私の答えはもう決まっていた。私は言葉を発することができなかった。ただ彼の真剣な瞳を見つめ返し、ゆっくりと、しかし強く一度だけ頷いた。それだけで十分だった。私たちの想いは確かに通い合った。
彼は私の返事を見て、安心したようにふっと息を吐いた。そして、これまで見たこともないような優しい笑顔を見せた。その笑顔を、私はきっと一生忘れないだろう。
嵐の前のあまりにも静かで美しい夜。星空の下で交わしたささやかな夢と、果たされるはずの未来の約束。それが私たちの、幸福の絶頂だった。
連日、義勇団の指揮や住民たちとの対話に追われていたセレスティアは、その夜ようやく訪れた束の間の平穏に、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩むのを感じていた。館の窓から見える町は、家々の窓から漏れる灯りも少なく、静まり返っている。しかし、その静けさがかえって、心の奥底にある不安を増幅させた。この町を守れるだろうか。私に、この重責を担う資格があるのだろうか。王都での失敗が、再び胸を刺す。じっとしていられず、彼女はマントを羽織り、そっと館を抜け出した。ひんやりとした夜気が、火照った頬に心地よかった。ただ少しだけ、この静かな町を歩き、自分の心を確かめたかったのだ。
月明かりが、ぬかるんだ道を銀色に照らしている。セレスティアは誰に会うでもなく、ただゆっくりと歩を進めた。鍛冶場の前を通りかかった時、ふと足を止める。あの日以来、昼夜を問わず響いていた鉄を打つ音は聞こえない。彼も少しは休んでいるのだろうか。そう思った矢先、角を曲がった先で人影が佇んでいるのに気づいた。見慣れた逞しい背中。アルベルトだった。
彼もセレスティアの気配に気づいて振り返る。その顔には驚きと、それから少しの照れが浮かんでいた。
「……あんたか。こんな夜中に見回りか?」
「いいえ、少し夜風にあたりに。あなたこそ、もう眠らないの?」
「ああ。少し考え事だ」
彼はそう言うと、空を見上げた。その横顔は昼間の職人の顔とは違う、どこか物憂げで静かな表情をしていた。言葉が途切れ、二人の間に心地よい沈黙が落ちる。しかしそれは決して気まずいものではなかった。
「……もう少し、歩かないか?」
アルベルトがぽつりとそう尋ねた。私たちは自然な流れで並んで歩き始めた。町の外れにある小高い丘へと向かって。そこはアルベルトが子供の頃によく遊んだ場所だと、以前教えてくれたことがあった。町全体と、そしてその向こうに広がる夜空を、遮るものなく見渡せる特別な場所。
丘の頂上に着いた私たちは、息を呑んだ。そこには、生まれて初めて見るような満天の星空が広がっていた。王都の夜は街の灯りが明るすぎて、これほど多くの星を見ることはできなかった。けれどここには、ただ純粋な闇と、星々の囁きだけがある。天頂を横切るように流れる乳白色の光の帯――天の川。時折すうっと尾を引いて消えていく流れ星。まるでダイヤモンドの粉を黒いベルベットの上に撒き散らしたかのような、圧倒的な美しさだった。
私たちは並んで草の上に腰を下ろした。遠くで秋の虫の声が聞こえる。心地よい夜風が、私たちの髪を優しく撫でていく。言葉は必要なかった。ただこの広大な夜空の下で、同じものを見つめている。その事実だけで心が満たされていくようだった。連日の緊張で強張っていた心が、ゆっくりと解きほぐされていく。この時間が永遠に続けばいいのに。そう思ってしまった。
どれほどの時間が経っただろうか。不意にアルベルトがぽつりと呟いた。
「……なあ、笑うなよ」
「え?」
「俺の夢の話だ」
彼は少し照れくさそうにそっぽを向きながら言った。私は黙って彼の次の言葉を待つ。
「俺の夢はな……別に大したことじゃねえんだ」
彼は言葉を選びながらゆっくりと語り始めた。「この町で自分の家族を持って……。昼間は鍛冶場で鉄を叩いて、夜は家に帰ると『おかえり』って言ってくれる奴がいてさ。飯を食って子供たちの寝顔を見て……。そうやって、この町のみんながただ普通に笑って暮らせるのを、死ぬまで見守ることだ。……それだけなんだ」
そのあまりにもささやかで、そして尊い夢。その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。王都にいた頃の私の夢は何だっただろう。エドワード王子の完璧な妃となり、国母として歴史に名を残すこと。誰からも羨望され、尊敬される完璧な存在になること。そのために私は全てを犠牲にしてきた。自分の感情さえも押し殺して。
けれど、今アルベルトの夢に触れて、私は悟ってしまった。私が追い求めていたものが、どれほど空虚で独りよがりなものだったかということを。(王都ではこんな風に、誰かと肩を並べてただ夜空を見上げるなんてこと、一度もなかった……)私の心の中に静かな声が響く。(私が本当に欲しかったのは、地位や名誉なんかじゃない。ただこんな風に誰かと心を寄せ合って、同じものを見て穏やかに生きていくこと。それだけだったのかもしれない)私自身の本当の願い。それは「この町でこの人たちと穏やかに生きたい」というアルベルトの夢と重なる、新しい夢の形だった。
「……素敵な夢ね」
私がそう言うと、彼は「だから笑うなって言っただろ」とますます顔を赤くして俯いてしまった。その不器用な優しさが愛おしくてたまらない。私はこの人を、この人の夢を、この町を守りたい。心の底からそう思った。
帰り道、丘を下りながら私たちはどちらともなく歩みを緩めていた。この時間が終わってしまうのが名残惜しかった。町の灯りが見えてきた、その時だった。アルベルトが不意に立ち止まった。私もつられて足を止める。
彼は決意を固めたように、まっすぐに私を見つめて言った。その瞳は星の光を映して真剣に揺らめいていた。
「セレスティア」
「なあ。この騒ぎが無事に片付いたら……」
彼は一度言葉を切ると、深く息を吸い込んだ。
「あんたに、ちゃんと伝えたいことがあるんだ」
その言葉の意味を私が悟るのに時間はかからなかった。心臓が大きく高鳴る。驚きと喜びと、そしてこれから始まる戦いの前にそんな約束をしていいのだろうかという、ほんの少しの戸惑い。様々な感情が嵐のように私の中で渦巻いた。けれど私の答えはもう決まっていた。私は言葉を発することができなかった。ただ彼の真剣な瞳を見つめ返し、ゆっくりと、しかし強く一度だけ頷いた。それだけで十分だった。私たちの想いは確かに通い合った。
彼は私の返事を見て、安心したようにふっと息を吐いた。そして、これまで見たこともないような優しい笑顔を見せた。その笑顔を、私はきっと一生忘れないだろう。
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