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第14話:赤く染まる月雫
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約束の夜が明けた。しかしそれは、希望に満ちた夜明けではなかった。
夜の闇が白み始める瞬間、町の鐘楼からけたたましい警鐘が鳴り響く。ガン、ガン、ガン。それは町中の人々の心臓を直接叩きつけるかのような、狂気じみた響きだった。
『赤牙』の襲来。
町は一瞬にして覚醒した。眠っていた者たちはベッドから飛び起き、女子供の悲鳴が静寂を引き裂く。しかしパニックは長く続かなかった。私たちが準備してきた数日間が、人々の心に絶望以外のもの――戦う覚悟を植え付けていたからだ。
私はすでに、館の一室を改造した救護所にいた。清潔な布を積み上げ、薬草を種類ごとに並べ、水を準備する。私の手は驚くほど落ち着いて動いていた。領主として冷静でいなければ。巻かれた包帯の一巻き一巻きが、彼の無事を祈る私の小さな祈りだった。
心の中では、ただ一つのことだけを嵐のように繰り返していた。
(アルベルト、どうか、ご無事で――)
やがて町の入り口から、怒号と金属が激しくぶつかり合う甲高い音が聞こえ始めた。戦端が開かれたのだ。
アルベルト率いる義勇団が、バリケードを盾になだれ込んでくる盗賊たちと激突している。数は圧倒的に不利。しかし地の利はあった。狭い入り口では、敵も大軍の利を活かせない。
「持ちこたえて……!」
私は祈るように前線を見守る。時折聞こえるアルベルトの腹の底から響くような声が、私の唯一の支えだった。
しかし、その均衡は長くは続かなかった。
最初に救護所へ運び込まれたのは、義勇団の一人、腕自慢の若い鉱夫だった。彼の肩は、斧で抉られたかのように骨が見えるほど深く裂けている。私が駆け寄ると、彼は血の気の引いた顔で喘ぐように言った。
「……だめだ、奴ら強え……。笑いながら……人を斬りやがる……!」
義勇団は奮戦していた。しかし相手は歴戦の殺戮集団。一人一人の技量も、そして何より人の命を奪うことへの躊躇いのなさが歴然と違っていた。
次々と負傷者が運び込まれてくる。救護所は瞬く間に、血の金属臭と負傷者たちの呻き声で満たされていった。私は必死に癒しの呪文を唱え、傷口を縫合し、薬草を貼り付ける。けれど私の癒しの力は万能ではない。深い傷は、時間をかけて少しずつ塞ぐことしかできなかった。
戦況は絶望的に悪化する。町のあちこちで火の手が上がり、松明を投げ込まれた家が乾いた音を立てて燃え上がっていく。私たちが築き上げた穏やかな日常が、収穫祭で灯した希望の光が、理不尽な暴力によって容赦なく蹂躏されていく。
悲鳴が、怒号が、炎がはぜる音が、悪夢の協奏曲のように響き渡った。
私の心は希望から恐怖へ、そしてじりじりと無力感に焼かれていった。
その時だった。救護所のすぐ外でひときわ大きな絶叫が上がる。バリケードがついに突破されたのだ。
そして炎の向こうから、一人の大男が獣のような雄叫びを上げながら姿を現した。血に濡れた巨大な戦斧を肩に担ぎ、その顔には全てを破壊し尽くすことへの喜悦が浮かんでいる。間違いなく『赤牙』の頭目だ。
彼は数人の手下を引き連れ、他の場所には目もくれず、一直線にこの救護所へと向かってくる。領主である私を、この町の心臓を潰しに来たのだ。
「――させるか!」
その頭目の前に鋼の壁のように立ちはだかる影があった。アルベルトだった。
彼の体はすでにいくつもの傷を負い、息は荒い。しかしその瞳は、炉の炎のように赤く燃え、一切の恐怖を見せていなかった。
「下がってろ、セレスティア!」
それは懇願ではなく、命令だった。私を守るための絶対的な意志。
頭目はアルベルトの姿を認めると、愉快そうに口の端を吊り上げた。
「ほう、鍛冶屋か。死にたがりが一番乗りとはな!」
二人の戦いは、もはや一騎打ちの様相を呈していた。アルベルトが振るう自ら鍛えた大槌と、頭目の戦斧が火花を散らして激突する。
一撃一撃が致命傷になりかねない死闘。私はただ立ち尽くすことしかできなかった。指先は氷のように冷え、声も出ない。
激しい打ち合いの末、アルベルトがついに好機を捉えた。頭目の大振りな一撃を紙一重でかわすと、がら空きになった胴体へ渾身の力で槌を叩き込んだ。
ぐ、と頭目の巨体がよろめく。勝てる。
その一瞬、私の心に強烈な希望の光が差し込んだ。
だが、それは最も残酷な罠だった。
体勢を崩したかに見えた頭目は、その目を少しもアルベルトに向けていなかった。血走った瞳は、まっすぐにアルベルトの背後にいる私を捉えている。
そして、彼はにやりと獣のように笑った。
閃光が走る。頭目の空いていた方の手から、隠し持っていた短剣が私めがけて投げつけられたのだ。
全てがスローモーションになった。世界から音が消える。
銀色の刃が回転しながら私の喉元へと迫ってくるのが、やけにはっきりと見えた。
死。
そう思った。
しかし、その瞬間。
「セレスティアッ!」
アルベルトの絶叫と共に、私の体は信じられないほどの力で横へと突き飛ばされた。
私の絶叫と、何かが肉にめり込む鈍く湿った音が同時に響く。
体勢を崩して地面に倒れ込んだ私が顔を上げる。
そこにはアルベルトが立っていた。
呆然と自分の胸元を見下ろして。
彼の胸の、ちょうど心臓のあたりに、銀色の短剣の柄が深々と突き立っていた。
何が起きたのか、理解できなかった。彼は私を突き飛ばし、そして、私の代わりに――。
アルベルトがゆっくりとこちらを振り返る。その瞳には、驚きと痛みと、そしてなぜ、という幼い子供のような色が浮かんでいた。
彼は何かを言おうとかすかに唇を動かす。しかし、言葉にはならなかった。
彼の膝ががくりと折れる。そして私の目の前で、まるで断ち切られた糸の人形のようにゆっくりと彼は崩れ落ちた。
どす黒い血が彼の胸から溢れ出す。それは彼が着ていた革の仕事着を赤黒く染めていく。
そしてその血は、彼の胸ポケットに大切にしまわれていたはずの、あの小さな瓶にも――。
私たちの約束が、私たちの未来が赤く赤く染まっていく。
まだ息はある。けれどその命の灯火が、急速に消えかけているのが分かってしまった。
「――アルベルトォォォォォォッ!!」
私の絶叫が、燃え盛る町の悲劇の空に木霊した。
夜の闇が白み始める瞬間、町の鐘楼からけたたましい警鐘が鳴り響く。ガン、ガン、ガン。それは町中の人々の心臓を直接叩きつけるかのような、狂気じみた響きだった。
『赤牙』の襲来。
町は一瞬にして覚醒した。眠っていた者たちはベッドから飛び起き、女子供の悲鳴が静寂を引き裂く。しかしパニックは長く続かなかった。私たちが準備してきた数日間が、人々の心に絶望以外のもの――戦う覚悟を植え付けていたからだ。
私はすでに、館の一室を改造した救護所にいた。清潔な布を積み上げ、薬草を種類ごとに並べ、水を準備する。私の手は驚くほど落ち着いて動いていた。領主として冷静でいなければ。巻かれた包帯の一巻き一巻きが、彼の無事を祈る私の小さな祈りだった。
心の中では、ただ一つのことだけを嵐のように繰り返していた。
(アルベルト、どうか、ご無事で――)
やがて町の入り口から、怒号と金属が激しくぶつかり合う甲高い音が聞こえ始めた。戦端が開かれたのだ。
アルベルト率いる義勇団が、バリケードを盾になだれ込んでくる盗賊たちと激突している。数は圧倒的に不利。しかし地の利はあった。狭い入り口では、敵も大軍の利を活かせない。
「持ちこたえて……!」
私は祈るように前線を見守る。時折聞こえるアルベルトの腹の底から響くような声が、私の唯一の支えだった。
しかし、その均衡は長くは続かなかった。
最初に救護所へ運び込まれたのは、義勇団の一人、腕自慢の若い鉱夫だった。彼の肩は、斧で抉られたかのように骨が見えるほど深く裂けている。私が駆け寄ると、彼は血の気の引いた顔で喘ぐように言った。
「……だめだ、奴ら強え……。笑いながら……人を斬りやがる……!」
義勇団は奮戦していた。しかし相手は歴戦の殺戮集団。一人一人の技量も、そして何より人の命を奪うことへの躊躇いのなさが歴然と違っていた。
次々と負傷者が運び込まれてくる。救護所は瞬く間に、血の金属臭と負傷者たちの呻き声で満たされていった。私は必死に癒しの呪文を唱え、傷口を縫合し、薬草を貼り付ける。けれど私の癒しの力は万能ではない。深い傷は、時間をかけて少しずつ塞ぐことしかできなかった。
戦況は絶望的に悪化する。町のあちこちで火の手が上がり、松明を投げ込まれた家が乾いた音を立てて燃え上がっていく。私たちが築き上げた穏やかな日常が、収穫祭で灯した希望の光が、理不尽な暴力によって容赦なく蹂躏されていく。
悲鳴が、怒号が、炎がはぜる音が、悪夢の協奏曲のように響き渡った。
私の心は希望から恐怖へ、そしてじりじりと無力感に焼かれていった。
その時だった。救護所のすぐ外でひときわ大きな絶叫が上がる。バリケードがついに突破されたのだ。
そして炎の向こうから、一人の大男が獣のような雄叫びを上げながら姿を現した。血に濡れた巨大な戦斧を肩に担ぎ、その顔には全てを破壊し尽くすことへの喜悦が浮かんでいる。間違いなく『赤牙』の頭目だ。
彼は数人の手下を引き連れ、他の場所には目もくれず、一直線にこの救護所へと向かってくる。領主である私を、この町の心臓を潰しに来たのだ。
「――させるか!」
その頭目の前に鋼の壁のように立ちはだかる影があった。アルベルトだった。
彼の体はすでにいくつもの傷を負い、息は荒い。しかしその瞳は、炉の炎のように赤く燃え、一切の恐怖を見せていなかった。
「下がってろ、セレスティア!」
それは懇願ではなく、命令だった。私を守るための絶対的な意志。
頭目はアルベルトの姿を認めると、愉快そうに口の端を吊り上げた。
「ほう、鍛冶屋か。死にたがりが一番乗りとはな!」
二人の戦いは、もはや一騎打ちの様相を呈していた。アルベルトが振るう自ら鍛えた大槌と、頭目の戦斧が火花を散らして激突する。
一撃一撃が致命傷になりかねない死闘。私はただ立ち尽くすことしかできなかった。指先は氷のように冷え、声も出ない。
激しい打ち合いの末、アルベルトがついに好機を捉えた。頭目の大振りな一撃を紙一重でかわすと、がら空きになった胴体へ渾身の力で槌を叩き込んだ。
ぐ、と頭目の巨体がよろめく。勝てる。
その一瞬、私の心に強烈な希望の光が差し込んだ。
だが、それは最も残酷な罠だった。
体勢を崩したかに見えた頭目は、その目を少しもアルベルトに向けていなかった。血走った瞳は、まっすぐにアルベルトの背後にいる私を捉えている。
そして、彼はにやりと獣のように笑った。
閃光が走る。頭目の空いていた方の手から、隠し持っていた短剣が私めがけて投げつけられたのだ。
全てがスローモーションになった。世界から音が消える。
銀色の刃が回転しながら私の喉元へと迫ってくるのが、やけにはっきりと見えた。
死。
そう思った。
しかし、その瞬間。
「セレスティアッ!」
アルベルトの絶叫と共に、私の体は信じられないほどの力で横へと突き飛ばされた。
私の絶叫と、何かが肉にめり込む鈍く湿った音が同時に響く。
体勢を崩して地面に倒れ込んだ私が顔を上げる。
そこにはアルベルトが立っていた。
呆然と自分の胸元を見下ろして。
彼の胸の、ちょうど心臓のあたりに、銀色の短剣の柄が深々と突き立っていた。
何が起きたのか、理解できなかった。彼は私を突き飛ばし、そして、私の代わりに――。
アルベルトがゆっくりとこちらを振り返る。その瞳には、驚きと痛みと、そしてなぜ、という幼い子供のような色が浮かんでいた。
彼は何かを言おうとかすかに唇を動かす。しかし、言葉にはならなかった。
彼の膝ががくりと折れる。そして私の目の前で、まるで断ち切られた糸の人形のようにゆっくりと彼は崩れ落ちた。
どす黒い血が彼の胸から溢れ出す。それは彼が着ていた革の仕事着を赤黒く染めていく。
そしてその血は、彼の胸ポケットに大切にしまわれていたはずの、あの小さな瓶にも――。
私たちの約束が、私たちの未来が赤く赤く染まっていく。
まだ息はある。けれどその命の灯火が、急速に消えかけているのが分かってしまった。
「――アルベルトォォォォォォッ!!」
私の絶叫が、燃え盛る町の悲劇の空に木霊した。
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