月の雫と地の底の誓い

YY

文字の大きさ
15 / 46

第15話:英雄と無力な神様

しおりを挟む
私の絶叫は、燃え盛る町の喧騒に虚しく吸い込まれていった。
「アルベルト! 目を開けて、アルベルト!」
私は崩れ落ちた彼の上半身を必死で抱き起こす。胸からおびただしい血が流れ出し、私のドレスを、手を、赤黒く染めていく。生温かい感触と鉄錆の匂いが、悪夢を現実に引きずり下ろす。
「いや……嘘よ……! 約束したじゃない……!」
癒しの力を。早く。
私は震える両手を彼の傷口にかざした。淡い月の光にも似た魔力が手のひらから溢れ出す。これまでどんな傷でも塞いできた、私の唯一の希望。
けれど、その必死の光は、彼の胸に開いた深い闇にただ吸い込まれていくだけだった。まるで命そのものが癒やされることを拒んでいるかのように、私の魔法は傷口に触れることさえできず、ただ霧散していく。焼け石に水ですらない。私の癒しの力は、彼の死の前ではあまりに無力だった。私は、神様なんかじゃなかった。

「……セレ……ティア……」
不意に彼が、かすれた声で私の名を呼んだ。
見れば、彼の瞳が薄く開かれている。もう私をはっきりと捉えてはいないようだったが、必死に焦点を合わせようとしていた。
「喋らないで! 大丈夫、大丈夫だから……! 私が、必ず助けるから!」
「……約束……」
彼は何かを言おうとする。約束。焼きたてのパンに塗って一緒に食べるはずだった、あのジャム。彼の胸ポケットで、血に染まりひび割れた瓶から、甘い香りと血の匂いが混じり合って立ち上る、果たされぬ約束。彼の震える手が、その胸元を弱々しく掴もうとして、滑り落ちた。
「……あんたの……作ったもん……食いたかった、な……」
そして彼は、力なく、本当に力なく、微笑んだ。
それは、私が今まで見たどの彼の笑顔よりも優しい微笑みだった。
その微笑みを最後に、彼の瞳からすうっと最後の光が消えた。握っていた手から力が抜け落ち、だらりと地面に垂れる。
「……あ……ああ……あああああああああああっ!」
言葉にならない叫びが私の喉から迸った。
アルベルトが、死んだ。
私の腕の中で。私の、せいで。

その瞬間だった。
まるで天が裂けたかのような凄まじい閃光が、戦場を白く染め上げた。空気がビリビリと震え、神聖とも冒涜的とも言えるほどの魔力の圧力が広場を支配する。
何事かと顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
閃光の中心、アルベルトの亡骸を抱く私のすぐそばに、一人の青年が音もなく立っていた。
黒い髪、黒い瞳。あの日大神殿に召喚された異世界の勇者、タイヨウ。

彼は眼下に広がる地獄のような惨状――燃え盛る家々、倒れた住民、そしてアルベルトの亡骸を抱きしめて泣き叫ぶ私を見て、その表情を凍らせた。
次の瞬間、彼の全身からこれまで感じたことのないほど凄まじい怒りのオーラが迸った。それは冷たく静かで、しかし全てを破壊し尽くさんとする絶対的な憤怒。
彼の姿がブレた。
そう見えた時には、彼はすでに私を嘲笑っていた盗賊団の頭目の前に立っていた。
頭目が驚愕に目を見開く暇もなかっただろう。
タイヨウが振るった剣は音さえも置き去りにした。ただ一閃。それだけで、頭目の巨体はまるで紙のように真っ二つに分かたれていた。

それは、殲滅だった。
義勇団が命を懸けて必死に食い止めていた盗賊たちが、まるで虫けらのように次々と斬り伏せられていく。
それは戦いですらなかった。あまりにも一方的な殺戮。生き残っていた義勇団の一人が、その光景を前に「俺たちの死闘は…この男にとっては…」と絶望に喘いだ。
タイヨウの剣が振るわれるたび、光の斬撃が走り、数人の盗賊がまとめて吹き飛ぶ。彼の動きは人間の目では追うことさえできず、ただ彼が通り過ぎた後に夥しい数の死体が転がっているだけだった。
なぜ。
なぜ、今になって。
その圧倒的な力をただ呆然と見つめながら、私の心には悲しみとは違う、どす黒い感情がマグマのように湧き上がっていた。
なぜもっと早く来てくれなかったのだ。
あなたが、あと少しでも早くここにいれば、アルベルトは死なずに済んだのに。

戦いは本当に一瞬で終わった。
あれほど町を蹂躙していた盗賊団は、タイヨウが現れてからわずか数分で完全に沈黙した。
戦場には不気味なほどの静寂が戻る。生き残った住民たちは、そのあまりに神がかった、そして悪魔的でさえある光景に声も出せずに立ち尽くしていた。救世主の到来を喜ぶべきか、その圧倒的な力を恐れるべきか、誰にも分からなかった。

タイヨウは血一滴浴びていない剣を静かに鞘に納めた。
そしてゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。灰と血の舞う中を、彼は静かに、ためらうような足取りで進んでくる。
彼の顔から先ほどの氷のような怒りは消え、今はただ深い深い悔恨の色が浮かんでいた。彼は私の前に立つと、心の底から悔やむように声を絞り出した。

「すまない……。間に合わなかった」

その謝罪の言葉が引き金だった。
私の心の中でかろうじて保たれていた最後の理性の糸が、ぷつりと切れた。
私はアルベルトの冷たくなっていく亡骸を強く抱きしめたまま顔を上げた。憎悪に燃える瞳で、目の前の英雄を、神様を睨みつけた。

「間に合わなかった……?」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく乾いていた。
「そうね、間に合わなかったわ。あなたは間に合わなかった! この人が死ぬまで、あなたはどこで何をしていたの!?」
絶望が激情へと変わる。捌け口のなかった悲しみと無力感が、理不尽な怒りとなって彼へと向かう。

(私は信じていた。いつか、人々が私の力に頼らずとも、自分たちの手で未来を築ける日が来ることを。私の癒しの力は、あくまでその手助けにすぎないのだと。領主として、みんなが自分の足で立てるように導くことが私の役目だと、そう信じていた。そして、アルベルトがその未来を一緒に創ってくれると信じていたのに……!)

「その力は何!?」
私は叫んだ。
「今更現れて敵を全滅させて……! それで英雄のつもり!? 救世主のつもり!?」
「……っ」
「あなたの力は死んだ後にしか間に合わないの!? 死体の数を増やすためだけにここに来たの!? あなたは何も救えなかったじゃない! この人も、この町も、私の心も! あなたは何一つ救えなかった!!」

私の言葉が刃となって彼に突き刺さるのが分かった。彼はまるで自分自身が斬りつけられたかのように苦痛に顔を歪め、一歩後ずさる。

「誰も救えないのなら……」
私は最後の、最も残酷な言葉を彼に叩きつけた。

「その力に、何の意味があるの!?」

タイヨウは何も言い返せなかった。
彼はただその場に立ち尽くす。その瞳には、彼自身の無力さへの絶望と、私の言葉によって深く刻みつけられた癒えることのない傷の色が、暗く揺らめいていた。

英雄と無力な神様。
私たちの間には、決定的で、あまりにも冷たい断絶が生まれてしまった。
燃え落ちる家々を背景に愛する者の亡骸を抱く私と、世界を救う力がありながらたった一つの命さえ救えなかった英雄が、ただ静かに対峙していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

【完結】剣聖と聖女の娘はのんびりと(?)後宮暮らしを楽しむ

O.T.I
ファンタジー
かつて王国騎士団にその人ありと言われた剣聖ジスタルは、とある事件をきっかけに引退して辺境の地に引き籠もってしまった。 それから時が過ぎ……彼の娘エステルは、かつての剣聖ジスタルをも超える剣の腕を持つ美少女だと、辺境の村々で噂になっていた。 ある時、その噂を聞きつけた辺境伯領主に呼び出されたエステル。 彼女の実力を目の当たりにした領主は、彼女に王国の騎士にならないか?と誘いかける。 剣術一筋だった彼女は、まだ見ぬ強者との出会いを夢見てそれを了承するのだった。 そして彼女は王都に向かい、騎士となるための試験を受けるはずだったのだが……

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

婚約破棄上等!私を愛さないあなたなんて要りません

音無砂月
ファンタジー
*幸せは婚約破棄の後にやってくるからタイトル変更 *ジャンルを変更しました。 公爵家長女エマ。15歳の時に母を亡くした。貴族は一年喪に服さないといけない。喪が明けた日、父が愛人と娘を連れてやって来た。新しい母親は平民。一緒に連れて来た子供は一歳違いの妹。名前はマリアナ。 マリアナは可愛く、素直でいい子。すぐに邸に溶け込み、誰もに愛されていた。エマの婚約者であるカールすらも。 誰からも愛され、素直ないい子であるマリアナがエマは気に入らなかった。 家族さえもマリアナを優先する。 マリアナの悪意のない言動がエマの心を深く抉る

処理中です...