月の雫と地の底の誓い

YY

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第43話:指輪の重み

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王都での戦後処理に関する慌ただしい日々がようやく一段落した。
明日には私たちはこの華やかだが息の詰まる王都を離れ、辺境の私たちの町へと帰還の途につく。そのことを思うだけで私の心は温かい光で満たされるようだった。

出発を明日に控えた穏やかな午後。
私はタイヨウと共に王宮の庭園を散策していた。
「明日には帰れるのね」
私のその弾んだ声にタイヨウも穏やかに微笑み返す。
その時、私はふと足を止めた。
「タイヨウ」
「どうしたんだ、セレスティア?」
私は彼のその真っ直ぐな瞳を見つめ静かに告げた。
「その前にどうしても終わらせなければならないことがあるの」
私のその声に含まれた覚悟の色を彼は瞬時に察してくれた。
「……一人で行かなければならないことか」
「ええ。これは私が私自身の力で終止符を打たなければならない物語だから」
私は実家であるアステル公爵邸へこれから向かうつもりだと彼に告げた。

タイヨウは何も聞かなかった。
ただ静かに頷くと私の手を優しく握った。
「分かった。ここで待っている。どれだけ時間がかかっても君が帰ってくるのを待っているから」
その揺るぎない信頼の言葉が私の最後の恐怖を拭い去ってくれた。

一人馬車に乗り、アステル公爵邸の重厚な門の前に立った時。
私の心は不思議なほど静かだった。
最後にこの門をくぐったのは全てを失い絶望の底にいたあの雨の日。
だが今の私はもうあの頃の無力な令嬢ではない。
私は扉を叩いた。

私を迎えた年老いた執事の驚きに見開かれた瞳。
通された邸内の重く沈んだ空気。
使用人たちの数は明らかに減り、かつてあれほどまでに輝いていたシャンデリアや銀食器もどこかその輝きを失っているようだった。
アステル公爵家のかつての栄華は見る影もなかった。
この家もまたあの日の選択の代価を払い続けているのだ。
その事実が私の胸に静かに突き刺さった。

執事に導かれるままに通されたのはあの因縁の部屋だった。
父の書斎。
私が追放を宣告されたあの場所。重厚な書棚も大きな机も、壁に掛けられた歴代当主の肖像画も全てがあの日のまま。だが部屋の空気はあの時とは比べ物にならないほど重く淀んでいた。

そこに父と母はいた。
その姿を認めた瞬間、私は息を呑んだ。
ほんの数ヶ月。たったそれだけの時間しか経っていないはずなのに。
二人はまるで十年も歳月を重ねたかのようにすっかりと年老いて見えた。

私の姿を見るなり母が駆け寄ってきた。そのかつては気品に満ちていたはずの所作は、今はただ娘に縋り付こうとする老女の痛々しい動きでしかなかった。
彼女は私の手を取りその場に泣き崩れた。
「セレスティア……! お許しください……! よくぞご無事で……ああ、よくぞ……!」
そのしゃくり上げるような嗚咽が静まり返った部屋に響き渡る。
「あの日私たちはエドワード王子に逆らえなかったのです……! 逆らえばアステル公爵家そのものが……!」
それは謝罪であり、惨めな言い訳でもあった。

私はただ黙ってその言葉を聞いていた。
不思議と怒りは湧いてこなかった。
私の視線は泣き崩れる母のその向こう。
暖炉の前に背を向けて佇む父の姿に注がれていた。
彼はあの日と同じ場所に同じように立っている。
だがその背中はかつてのような公爵としての威厳に満ちたものではなかった。ただ深い悔恨と、今さら何も言えないという諦めに打ちひしがれた一人の老人の小さな背中があるだけだった。
彼は一度もこちらを振り返らなかった。
私を見る資格が自分にはないとでも言うように。

私は泣き崩れる母を静かに椅子へと座らせた。
その縋るような視線を穏やかに、しかしどこか遠いものを見るように受け止める。
「お母様。お気持ちは分かりました」
私の声はもう震えてはいなかった。
「ですが」
私はおもろに懐から一つの小さな指輪を取り出した。
あの日父が私の手に無理やり握らせた公爵家の紋章が刻まれたあの指輪。
私はそれを父と母の間にあった重厚なマホガニーのテーブルの上にそっと置いた。
ことり、と。
静まり返った部屋にそのあまりにも小さな音が響き渡る。

「私が本当に知りたかったのはそれだけではありません」
私は背を向けたままの父のその背中に語りかけた。
「……お父様。では、これは一体何だったのですか?」

その問い。
テーブルの上に置かれた小さな指輪が引き金だった。
父の肩がびくりと大きく震えた。
彼が必死に保っていた公爵としての最後の虚勢が音を立てて崩れ落ちていく。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりとこちらへ振り向いた。
その顔は深い深い悔恨に歪んでいた。

「……あれは」
彼の唇からようやく絞り出された声はひどくかすれていた。
「……ただの婚約破棄ではなかったのだ」
彼は全てを告白した。
エドワード王子の要求が私が考えていた以上に悪辣で、アステル公爵家を完全に支配下に置くための周到な罠であったこと。
あの実現不可能な納税額は口実だったこと。もし私たちがそれを支払えなければアステル家の全ての領地と財産は没収され、王子の息のかかった別の貴族家――エラーラのヴァリエール公爵家へと譲渡されるという裏の契約が交わされていたこと。
逆らえば一族郎党全てが破滅する。
そんな絶望的な状況だったのだと。

父はテーブルの上の指輪を見つめた。
「あの指輪は…わしが心の底から信頼する、ただ一人の男にだけ通じる証だ。隣国の商人に身をやつしているが、彼はかつてのアステル家の騎士団長だった男でな。もしお前があの男に指輪を見せれば…彼は、お前を『セレスティア』としては死んだことにし、別人としての新しい身分と、誰にも知られず慎ましく生きていけるだけの資金を与えてくれる手はずになっていた。…それが、わしがお前に用意できた、唯一の『逃げ道』だったのだ」

彼は自らの無力さをさらけ出すように、かぶりを振った。
「公爵としても、わしは無力だった。王子の策略の前に、公然とお前を庇えば一族郎党が反逆の汚名を着せられ取り潰されるのは目に見えていた。父親としても、無力だった。『必ず守る』と、お前の手を握ってやることさえできず、ただ冷たい追放命令を下すことしかできなかった。堂々とお前を守れなかったわしの無力さの象徴…それが、あの指輪なのだ」

彼の声が、自己嫌悪に震える。
「だがな、セレスティア。あれは、愛情などという綺麗なものではないのだ。あれは…わしの、最後の、そして、みっともない我儘だったのだ」
「わしは、お前を完全に見捨てた罪人になるのが怖かった。『最低限の救いは用意した』と、そう思わなければ、自分自身の良心を保てなかったのだ。お前のための救いであると同時に、わし自身の心を守るための、身勝手な言い訳だった」
そして、彼は私を直視できずに俯いた。
「わしは、信じていなかったのだ。お前が、あの地の底から自力で這い上がれるとは、到底な。……本当に信じていたなら、何も渡さず突き放すべきだったのかもしれん。だがそれもできなかった。家の安泰も、父親としての体面も、そして娘の命も…そのどれ一つとして覚悟を決めて選ぶことのできなかった、わしの弱さと卑劣さの塊。それが、あの指輪の本当の正体だ」

彼の告白は終わった。
部屋には母の絶望の嗚咽だけが響き渡っていた。

父のあまりにも痛ましい告白。
部屋には母の絶望の嗚咽だけが響き渡っていた。
私はゆっくりと立ち上がった。
その静かな所作に父の肩がびくりと震える。
私は彼らを見つめた。かつて私の世界の全てであった父と母を。
だが私の瞳にもはや怒りや悲しみはなかった。ただ深い深い理解とほんの少しの哀れみだけがそこにあった。彼らもまた王宮という巨大な権力構造の中でもがき苦しんだ弱き人間だったのだ。

私の視線がテーブルの上の指輪へと落ちる。しかし私はそれに触れなかった。
そして父に向かって静かに告げた。
「お父様の苦しみ、お察しします。ですが私はこの指輪を使いませんでした」
私の声はどこまでも穏やかだった。
「私は地の底で私自身の力で立ち上がりました。かけがえのない仲間を得て失われたはずの未来をこの手で掴みました」
そして私ははっきりと宣言した。
「この指輪はお父様のものです。あなたの無力さと後悔の証。私にはもう必要ありません」
「……私の帰る場所はここではないのです」

私は深く深く一礼した。
それは娘から両親へ捧げるものではない。アステル家の人間として過去の全てのしがらみに別れを告げる最後の儀式だった。
私は踵を返し部屋を後にする。
背後で母の嗚咽が聞こえた。そしてテーブルに置かれた小さな指輪をただ呆然と見つめているであろう父の小さな背中が見えた気がした。

重い扉を開け薄暗い公爵邸を後にする。
外の世界は優しい午後の光に満ちていた。
その光の中に彼がいた。
タイヨウが邸宅の門に寄りかかり、ただ静かに私を待っていてくれた。
私の姿を認めると彼の心配そうな表情がふっと柔らかな笑顔へと変わる。
彼は何も聞かない。ただそこにいてくれる。
私も彼に微笑み返した。それは何の曇りもない全てから解放された心からの笑顔だった。

長かった私の心の旅は今本当に終わったのだった。
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