秘密はいつもティーカップの向こう側~王子様のアップルパイ~

天月りん

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第六話 誰かのためのアップルパイ

 翠さんとの共同開発――というのは大変おこがましい表現で、実際は翠さんの手本を見ながら俺が手を動かして工程をなぞる――を繰り返し、ついに学園祭用のアップルパイは完成した。

「うっわ美味しいっ! 想定してたより何倍もすごいな。食べ歩きに向いているし、見た目も個性的だ。やったね藤宮くん!」

 若槻先生はニマニマと顔を綻ばせ、取り巻きの女子学生たちも「このパイを作れるようになるの!?」と目を輝かせている。
 調理の経験があれば再現可能なレシピではあるが、一応の指導は必要だろうと、若槻先生は翠さんの一日入構許可を取った。というわけで九月も大詰めのその日、ローズメリーのメンバーも一堂に会した製菓教室が大学調理室で開かれた。

「みなさん初めまして、桂木翠です」
「は、はじめまして!」
「わぁ……素敵な店主さん」

 いつものお仕着せに着替えた翠さんが微笑むと、生徒たちはポッと頬を染めて頭を下げた。おとぎ話から飛び出したような衣装と立ち姿に、完全にノックアウトされた模様だ。
 けれどいざ作業が始まると、さすがは上級生。調理学研究室の四年生たちは、翠さんに手ほどきを受けつつ、正確な手つきで作業をこなす。食品学研究室の先輩方は製作工程を動画に収め、要点を細かくメモしていった。
 俺も先輩方に混ざってパイを焼いた。見本というのは建前で、本来部外者であるローズメリー組の試食分を焼いたのだ。食いしん坊な白石さんはフィリングを味見して、「美味しい!」とほっぺたを押さえた。オリーさんと顔を合わせるのはローズメリーでの会議以来だが、情報漏洩の罰は既に亜嵐さんが下してくれたので、この日はいつも通り接することができた。

「このリンゴ秋映っていうの? 色はすごいけど美味しいね。スーパーに売ってるなら買ってみたいかも」

 白石さんがリンゴを手に取ると、亜嵐さんは胡乱げな視線を向けた。

「買うのは結構だが。美緒、ちゃんと皮を剥けるのか? まさか皮ごと丸かじりではあるまいな?」
「ムキーッ! それくらいでき……多分なんとかなるもんっ! キッチンごと破壊する師匠には絶対言われたくないっ!!」

 いつも通りの師弟漫才に、全員が声を上げて笑う。若槻先生だけは「え? キッチン破壊ってどういうこと?」と首を傾げたが、無数の地雷を察したようでそれ以上突っ込んでこなかった。
 調理を終えて後片付けまで済ませたタイミングで、振り返りの質疑応答タイムが設けられた。先輩たちの質問に、翠さんが丁寧に答えていく。その中には、何度も作った俺では見過ごすような内容もあった。やはりさすがは上級生だと、俺は改めて感心した。
 質疑応答がひと通り終わり、いよいよ試食タイムとなった。文化祭当日は、焼き立てを提供するわけではない。それを見越して冷めた状態を食べる必要があったのだ。
 全員で一斉にパイにかじりつく。ザクっとした生地はバターの香りが豊かだし、加熱したリンゴの煮汁も落ち着いて抜群に美味い。

「こんな美味しいパイを考えてもらったんだもの、当日も気合入れて焼かなきゃ」
「そうだね。私、家でも練習するよ」
「協力ありがとう、みんな。展示の方も、この味に負けないクオリティにしようね」
「はい!」
「文化祭本番が今から楽しみだね~!」

(……ああ、俺も再来年はこんなふうになれるんだ)

 王子様を囲む会の真の姿に、胸が熱くなる。視界の端ではオリーさんが、やる気満々の先生と研究生たちを見て、眩しそうに目を細めている。

「It’s brilliant! これぞ青春のあるべき姿だよね。明後日にはイギリスに帰らなきゃだけど、うーん、十月後半ならスケジュールを工夫すれば何とか……」
「オリーさん、もしかして学園祭に来ようとしてます?」

 いつだって神出鬼没――祭りとなれば尚更だ――な男に問うと、金髪碧眼の色男は俺に向けてムチュっと投げキッスを寄越した。

「もちろんじゃないか! こんな面白そうなイベント、私が見過ごすと思う?」
「貴様何をした!? 湊、振り払え! あぁあ、ペッしなさいっ!」

 すぐさま亜嵐さんが飛んできて、俺の頬をペチペチと払って口をこじ開けようとする。なんとか宥めようとするも、俺が投げキッスを受け入れたと勘違いしたのか、亜嵐さんはますますムキになった。そんな俺たちの様子を、先生たちは目を点にして眺めている。
 ……いやもう、釈明のしようがない。こんなときウェストフィールド家の従兄弟たちを収められるのは、この世でただひとりだけ。俺は頼みの綱にヘルプの視線を送った。
 
「了解よ、藤宮くん。うふふ、二人とも? いい大人なんですから場を弁えないとね? 藤宮くんを困らせちゃダメじゃない」

 ボコンボコンボコンボコン。
 プラスチックのトレーを両手に掲げた翠さんが、オリーさんと亜嵐さんの頭を連打する。もちろん軽くだし口調は穏やかだが、目の奥が笑っていない。

「あっあっ、やめて翠! ごごご、ごめんなさいっ!」
「私に謝ったってしょうがないでしょう?」
「As you say! ごめんね藤宮くんっ!」
「オリーのせいで申し訳ない、湊」
「アラン~! 私だけ悪者にしないでぇ~!」

 ……どうやら本番は、大変賑やかになりそうだ。大人になっても本気で叱られる男たちを眺めながら、俺は「ははは……」と引きつった空笑いを浮かべた。

 ***

 カレンダーが進み、いつまでも続く残暑にやっと陰りが見えてきたある日。四限目の授業が休講になったので、俺はローズメリーに顔を出すことにした。
 秋分はとうに過ぎていて、午後三時を回ると太陽は西に傾き始める。メタセコイアの階段を上りレトロな街並みを抜け、見慣れたドアの前に立つ。流線形の装飾が洒落た金属のハンドルに手を伸ばし、俺はぐいと力を込めた。

 チリン。

「こんにちは」
「あら藤宮くん、いらっしゃい。こんな時間にどうしたの?」
「授業が休みになったんです」

 翠さんは一瞬目を見開いたものの、すぐに口元を綻ばせて「どうぞ」と迎え入れてくれた。

「そうそう亜嵐さん、今出かけているのよ。夕飯までには帰ってくるはずだけれど」
「知ってます、メッセージをもらったので。それまで待つように言われたんですけど、いいですか?」

 つまりそれは、ここで亜嵐さんと夕食をとるということだ。瞬時にそれを理解した翠さんは、目を細めて「もちろんよ」と頷いた。

「汗をかいてるわね、アイスティーにしましょう。ケーキはいかが?」
「いただきます」

 ショーケースの前にしゃがんで中を覗き込む。そこには定番のヴィクトリア・サンドウィッチと、季節のアップルパイが行儀よく並んでいた。ローズメリーのアップルパイはラフパフ生地なのだと、レシピ開発のときに教えてもらった。リンゴのコンポートにはレーズンも入っていて、これはこれで大変美味い。よし、今日はこれにしよう。

「えっと、ア」
「アップルパイをひとつ、テイクアウトで」

 重なった声に驚いて隣を見ると、黒づくめの人物がショーケースの脇に立っていた。

(……あれ、この人)

 記憶の淵から男の姿が浮かび上がる。翠さんの料理を食べたのに無表情だった客だ。あのとき亜嵐さんは二度目の来店だと言っていたが、俺としては翠さんの料理に不満でもあるのかと少なからずムッとしたのだ。
 そんなことを思い出しつつ見上げていると、男性は黒縁の眼鏡をクイッと上げて瞳を眇めた。

「すまない、君の注文を邪魔してしまったな」
「あ、いえ」
「だが申し訳ないが、そのアップルパイは俺に譲ってもらえないだろうか」

 男の視線がショーケースのアップルパイへ移る。ラスト一ピースのパイは、どこか所在なげだ。男性客は躊躇いを含んだ声で、再度訊ねてきた。

「やはりダメ、だろうか」
「いえいえ、どうぞ! 俺は次の機会で十分ですから!」
「そうか、ありがとう」

 眼鏡の奥、冴えた黒い瞳がほんの少し和らいだ。
 一連のやり取りを見ていた翠さんは、行き先が決まったパイを手早く包装した。黒づくめの男性は小さな箱を受け取り、「今日のサンドウィッチも美味しかったです」と言って店を出て行った。

「藤宮くん、ごめんなさいね」

 ドアベルの余韻が収まってから、翠さんはカウンターからひょこっと顔を出した。申し訳ないとばかりに、眉がハの字に下がっている。

「ヴィクトリア・サンドウィッチでもいいかしら?」
「もちろんです!」

 先週末から、ヴィクトリア・サンドウィッチのジャムはブドウになった。ボルドー色のジャムは、春のイチゴや夏のラズベリーとは違った滋味がある。亜嵐さん曰く、ブドウは本当に短期間の限定品だそうで、それを「でいい」なんて言えるはずもない。

「今の人、常連になったんですね」

 テーブルにアイスティーとケーキが運ばれてきたタイミングで問うと、翠さんは「ええ」と言って頷いた。

「初めていらっしゃったときは、コーヒーを注文されたのだけれど。紅茶も気に入っていただけたみたいでよかったわ」
「ローズメリーでコーヒー!?」

 思わず声がひっくりかえる。慌てて口を押え、俺は想像を巡らせた。今でこそ俺はここが紅茶専門店だと承知しているが、何も知らない人が普通の喫茶店のつもりで入店したのなら、そのオーダーになるのもあり得ない話ではない。

「きっとびっくりしたでしょうね」

 アップルパイを持ち帰った男の姿を思い出す。……確かに、紅茶よりもブラックコーヒーが似合いそうだ。

「いつも何を飲むんですか? あっ、こんなこと聞いちゃダメか」
「ふふっ、その程度ならいいんじゃない? アップルパイも譲ったんだし。ダージリンよ」
「ダージリン……へぇ」

 ダージリンといえば「紅茶のシャンパン」と呼ばれる茶葉だ。芳醇な香りが特徴で、ストレートでも美味しくいただける。……くらいは知っているが、実際に利き茶ができるのかといえばそうでもなく、亜嵐さん受け売りの知識である。だが今はそれも一旦脇に置いて、黒づくめの男と高級茶葉――なんとなく納得である。
 ブドウジャムとバタークリームのマリアージュ、そしてそれを受け止めるスポンジを堪能して、俺は一杯目のアイスティーを飲み干した。

 ***

「おや。先日はどうも」
「あっ、こんにちは」

 その後もローズメリーに行くと、何度か黒づくめの男と出くわした。といっても目が合えば挨拶する程度で、初見のムッツリした人物像が更新されることはなかった。しかしローズメリーの常連になったという一点だけで、悪人ではないとラベリングするには十分だった。

「ランチ時によく見かけるな。大抵はサンドウィッチだが、昨日はイングリッシュ・ブレックファーストを食べていた」

 昼時に一階へ降りる亜嵐さんも、頻繁に目撃しているそうだ。そして退店時には決まって――

「アップルパイをテイクアウトしていくんだ」
「やっぱり」

 俺は腕を組んで「うーん」と唸った。

「好き、なんですかね?」
「どうだろうな。稀にだが、夕方に来てサンドウィッチを二人分買って帰ることもある。来客用……いや、家族がいるのではないか? ただ、その場合もパイはひとつだ」

 繁華街のショッピングセンター。エスカレーター横のベンチに座り、俺と亜嵐さんは推理に興じている。トイレに行った白石さんを待っているのだが、なかなか帰ってこない。おそらく混んでいるのだろう。イベント会場でもそうだが、女性トイレは長蛇の列がデフォルトだ。

「二人分のサンドウィッチにひとつのパイ……シェアしてる? でもそんなことするなら、二つ買えばいいだけですよね。であれば黒づくめには一味がいて、謎の人物Xの好物ってことでしょうか?」
「お客さまのことだからな、当然翠さんはペラペラしゃべらないが。私が観測した限りではな、ワトスン君。あの御仁は店でスイーツを食べないのだ」
「となるとやっぱり、パイは共犯者が……」

 名探偵と助手による推理もいよいよ深まってきた、そのとき。

「おっまたせ~!」

 手を振りながら白石さんが現れたので、俺と亜嵐さんは探偵ごっこを一旦打ち切ることにした。

 ***

「え~? 不思議な常連さん?」
「うん、そうなんだ」

 ショッピングセンター内の専門店で購入した食材を抱えて、俺たちは石畳の道を歩いている。ローズメリーで使うものではない。亜嵐さんが記事の参考にと揃えたもので、これで花びら餅や椿餅を作るのだ。調理を担当するのは亜嵐さん――ということは当然なくて。店が一段落したら翠さんが作ってくれることになっている。

「ふぅん。でもローズメリーって、元々色んな人が来るじゃない?」
「それはそうだが」

 確かに白石さんの言う通りである。横浜という立地もあって、客層は老若男女どころか国籍すら様々だ。店で囁かれる会話は日本語も英語も、それ以外の言語だって混じっている。

「黒づくめのミステリアスな男性客か。雰囲気はありそうだけど、それだけ翠さんのお茶と料理が魅力的ってことよ」

 チリリン!

 店の前に到着すると、一番小さい袋を持っていた白石さんが扉を開けてくれた。亜嵐さん、俺の順番で入る。そして――

「あっ」
「おや」

 二人掛けのテーブルに、今一番ホットな男が座っていた。

「何なに、どうしたの? あっ、まさか今日も来てる? お~、どれどれ――……は?」

 男性を一目見た途端、白石さんがピタリと動きを止めた。と思いきや、肩と両ひざがプルプルカクカクと震え始める。

「美緒、どうした?」
「あ、あわっ、あわわわわ……っ」

 白石さんの頬が紅潮し、言葉にならない声が開いた口からボロボロと漏れ落ちる。

「白石さん!? 一体何が」
「挙動不審もすぎるだろう!?」
「ううう、嘘でしょ!? だ、だって、あああ、あれ、ささささ作家の、しし塩谷潤しおやじゅんじゃないのーっ!! フギャーーーーッス!?!?」

 今にも気絶せんばかりの白石さんの絶叫が、静かな店内に響き渡った。
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