熾星

熾星

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現代文学 完結 短編
 午前一時、大学近くの女性専用シェアハウスは、エアコンの低い音だけが響いていた。森下莉香から一枚の写真が送られてきた。ホテルのスイートルームらしいベッドの上で、彼女は片方の肩を露わにし、鎖骨のあたりには生々しい赤い痕が残っていた。  背後の男の顔は写っていなかった。けれど、画面の端に映った手首だけで、私は十分だった。そこに巻かれていた白檀の腕輪念珠を、私は知っていた。  あれは、私が神宮寺怜央に贈ったものだった。  東京・港区の旧財閥系一族、神宮寺家の後継者。神宮寺家は老舗の不動産開発会社を中核に、近年は医療・介護施設への投資も広げていた。怜央はその跡取りとして、著名な卒業生であり、大学の有力なスポンサーでもある人物として、たびたび私たちの大学に顔を出していた。
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小説 40 位 / 226,617件 現代文学 1 位 / 9,511件
文字数 14,062 最終更新日 2026.07.13 登録日 2026.07.13
ホラー 完結 短編
 夫の若い秘書が、社内チャットに一枚の自撮り写真を誤って投稿した。本当は若手社員だけで作った私的なLINEグループに送るつもりだったのだろう。けれど彼女は、うっかり会社のLINE WORKSの雑談チャンネルに投稿してしまった。写真の背景は、私と怜司の寝室だった。彼女は私のシルクのナイトウェアを着て、私が使っていたドレッサーの前に立っている。胸元は大きく開いていた。  添えられていた言葉は、たった二行だった。 【怜司さんが、奥さんは今いないって】 【今夜、この寝室は私のもの】  チャンネルは数秒だけ静まり返り、それから既読の数が一気に増えていった。誰かが意味ありげなスタンプを送り、別の誰かが冗談めかして、とうとう奥さんの座に収まったのかと聞いた。彼女が着ているナイトウェアが高価なものだと気づき、もう高梨家の主寝室に入り込んだのかと茶化す者もいた。  桐谷莉奈は、すぐにもう一言付け加えた。 【怜司さん、今夜はずいぶん元気。でもずっと寒いって言ってて、私を抱いて離してくれない】  私は黙って、そのメッセージが一つずつ浮かび上がるのを見ていた。怜司が寒がるのは当然だった。だって、私はずっと彼の背中に張りついているのだから。私の遺体は、彼によって主寝室のウォークインクローゼットの奥に作られた壁の中へ封じ込められて、もう三ヶ月になる。  そこは、世田谷区にあるリフォーム済みの一戸建てだった。結婚後、怜司が購入した家だ。ここなら静かで、人目も少なく、私たちはやり直せる。そう言っていた。隣家とは塀と庭を挟んでいて、主寝室は二階にある。深夜の作業音も、水漏れの修繕だと言えば、誰も深くは聞かなかった。だから彼は私を殺したあと、ウォークインクローゼットの奥を石膏ボードで塞ぎ、継ぎ目をパテで埋め、その上から新しい壁紙を貼った。  壁紙の糊とパテの匂いは、まだ完全には抜けていない。壁の内側は冷たく、息苦しい。私は毎晩、彼の首筋にぴたりと貼りついて息を吹きかけていた。寒くないはずがなかった。
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文字数 14,928 最終更新日 2026.07.13 登録日 2026.07.13
恋愛 連載中 短編
憧れていた男子に自分から近づいてみて、藤崎恵はようやく気づいた。  本当に不安にさせられるのは、拒まれることそのものとは限らないのだと。  同じクラスの犬塚亮太を好きになってから、女子学生会館で同じフロアに住む白石琴音は、いつも隣でやわらかく忠告してきた。 「男の人って、あんまり信用しすぎないほうがいいよ」  亮太がLINEで「キャンパスを少し歩かないか」と誘ってくれば、琴音は「そういう誘い方って、ちょっと曖昧で怖いよね」と言った。  亮太が腕時計を贈ってくれたときも、琴音は「まだ始まったばかりなのに、そういうものを渡すなんて、少し気持ちが急ぎすぎてる気がする」と眉を下げた。  何度も聞かされるうちに、恵も少しずつ自分の気持ちを疑うようになっていた。  けれどある日、彼女は見てしまった。  亮太と琴音が図書館裏の小道を回り込み、監視カメラの死角へ入っていくところを。  ふたりは陰に隠れた途端、待ちきれないように互いの服の裾へ手を差し入れていた。
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文字数 31,844 最終更新日 2026.07.10 登録日 2026.07.10
ミステリー 完結 ショートショート
 今日は大晦日だった。  東京では珍しく雪が降っていた。細かな白い粒が、港区の高層マンションの外に並ぶ街灯の下で、夜の底に薄い灰をかぶせたように舞っている。  遠くの寺から除夜の鐘が聞こえ始めたころ、陽翔はまだ窓辺に張りついていた。神社の参道の先に見える灯りを指さし、初詣の屋台を見に行きたいと何度もせがんでいた。  部屋の中は暖房がよく効いていて、年越しそばのつゆの匂いがまだ残っている。テレビでは年越し番組が流れ、芸人たちの笑い声が明るすぎるほど響いていた。  私は陽翔に赤いダウンジャケットを着せ、手編みの赤いニット帽をかぶせた。特撮ヒーロー柄のその帽子は、縁が少しだけ歪んでいる。それでも陽翔は、世界でいちばんかっこいい帽子だと言ってくれていた。 「ママ、甘酒飲みたい」 「子どもでも飲めるやつだけね。勝手に走っちゃだめ。パパの手、ちゃんとつないで」  蓮司は玄関で黒いダウンを羽織り、陽翔のマフラーを整えていた。顔を上げて私を見ると、目尻に少しだけ笑みを残した。 「大丈夫。温かいのを一杯買って、すぐ戻る」 「ママも待っててね!」  陽翔は小さな手を伸ばして、私とハイタッチをした。  私は笑って、父子がエレベーターへ向かうのを見送った。扉が閉まる直前、陽翔は隙間から手を振っていた。  鐘の音が、ひとつ、またひとつと夜に沈んでいく。  私は窓辺に寄り、下を見下ろした。神社へ向かう人の流れはそれほど多くない。雪のせいで、街全体が奇妙なほど静まり返っていた。  十分ほど経ったころだった。  コンビニ脇の路地から蓮司が出てくるのが見えた。  ひとりだった。  陽翔の手を引いていない。  蓮司は雪の中に立ち、うつむいて煙草に火をつけた。  心臓が、凍ったように縮んだ。  私はスリッパも履き替えず、コートだけつかんで部屋を飛び出した。エレベーターは氷づけにされたみたいに遅い。階数表示がひとつ下がるたび、手のひらから熱が抜けていった。
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文字数 14,122 最終更新日 2026.07.10 登録日 2026.07.10
ミステリー 完結 短編
三十歳の誕生日の夜、夫の久我怜司は、伊豆の海沿いにある別荘で盛大な誕生日パーティーを開いてくれた。  けれど、私が目を閉じて願い事をし、ろうそくを吹き消した瞬間、別荘中の明かりが一斉に落ちた。  再び照明がついたとき、さっきまで私にグラスを掲げて祝福していた招待客たちは、まるで化け物でも見るような目で私を見ていた。 「何なの、この女。久我さんと白石さんの婚約披露の席に勝手に入り込んでくるなんて」  リビングの大型モニターに流れていた文字も、「佐倉澪さん、お誕生日おめでとう」から、「久我怜司&白石莉奈 ご婚約おめでとうございます」に変わっていた。  私は混乱したまま怜司の袖をつかんだ。けれど、彼の母親だという千鶴子に頬を叩かれ、床に倒された。彼女は精神科病院の診断書のコピーを私の顔に投げつけ、私は妄想癖のあるストーカーだと、冷たい声で周囲に告げた。  親友の森下遥でさえ、電話の向こうで小さく笑った。 「澪、また具合が悪くなったの? 大学を出てからずっと独り身だったじゃない。夫なんて、どこにいるの?」  その瞬間、私はようやく理解した。  彼らが私を忘れたのではない。  この世界に信じ込ませようとしているのだ。  佐倉澪という人間は、最初から存在していなかったのだと。
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小説 66 位 / 226,617件 ミステリー 2 位 / 5,340件
文字数 19,118 最終更新日 2026.07.10 登録日 2026.07.10
ホラー 完結 短編
私は、夫の不倫現場を押さえようとしていた妻だった。  その夜、池袋北口にある古びたビジネスホテルの一室で、私は夫の久我涼介と、大学時代からの友人だった白石莉奈がベッドの上で毛布にくるまっているのを見た。莉奈がルームサービスと勘違いしてドアを開けた瞬間、私はその隙間から部屋へ踏み込んだ。室内には香水と酒の匂いが混ざって残り、テレビは消えているのに、ベッドサイドの照明だけが妙に眩しかった。  用意していた言葉は、喉の奥で全部つかえた。  私が口を開くより先に、浴室の鏡から白い手が伸びてきた。赤いワンピースを着た女が、鏡の中から這い出してくる。長い髪は床まで垂れ、顔の半分以上を覆い隠し、伸びた爪がタイルを引っかいて耳障りな音を立てていた。  その冷たい手が私の肩に触れた瞬間、目の前に歪んだ文字が浮かび上がった。 【不憫すぎる妻、終了のお知らせ! このあと女幽霊に憑依されて飛び降り、死後はクズ夫が五千万円の保険金を受け取り、不倫相手と結婚式!】 【涼介が契約したのは高額の傷害保険。受取人は最初が母親、そのあとこっそり莉奈も追加済み!】 【泣いてる場合じゃない、逃げて!】  ベッドの上で顔を歪め、今にも私を殴ろうとしている男を見た瞬間、なぜか悲鳴は出なかった。怖くないわけではない。けれど恐怖より先に、身体の芯が冷えるような怒りがこみ上げてきた。  私は女幽霊の冷たい手首をつかみ、誰もいない空間へ向かって笑った。 「ねえ、赤いお姉さん。取引しない?」 「先に私へ憑いて、あの最低な二人を片づけさせて。終わったら、私の命であなたのノルマを達成していいから」
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小説 1,557 位 / 226,617件 ホラー 20 位 / 8,401件
文字数 15,752 最終更新日 2026.07.10 登録日 2026.07.10
恋愛 完結 短編
 神代家は不動産管理会社、商業ビル、高級マンション、いくつかの別邸を所有している。私は普段、メディアに顔を出すことがほとんどない。多くの人が知っているのは、私が神代不動産管理株式会社の代表取締役社長だということくらいで、神代家の本当の資産規模までは知られていなかった。  海外投資ファンドの代表を迎えるため、私は神奈川県葉山町にある海辺の別邸を一棟、非公開のまま残していた。そこは賃貸にも売却にも出していない、特別な客人を迎えるためだけの家だった。内装工事が終わったあと、私は管理用の鍵を夫の蓮司に預け、定期的な換気と設備点検を頼んでいた。  その日、私は急きょ、その別邸で大切な客を迎えることになった。玄関の扉を開けた瞬間、出迎えたのは管理担当者でも、家政婦でもなかった。シルクのガウンを羽織り、巻き髪の女が、コンビニで買った菓子を手にしたまま、まるで女主人のように玄関口にもたれていた。  女は私を上から下まで眺めた。 「ねえ、そこの人。コンビニで生理用品を二つ買ってきて」 「あと、キッチンにある薬膳スープも持ってきて。こぼしたら、ただじゃおかないから」  私は彼女の足元にある来客用スリッパを見て、それから背後のリビングへ視線を向けた。ソファには女物のショールがかけられ、ローテーブルには飲みかけのワイングラスが置かれている。玄関の棚には、蓮司がよく使っていたライターまで置かれていた。  胸の奥に浮かんだ冷たさを、私は無理やり押し込めた。 「ここは私の家です」 「今日は大切なお客様をお迎えする予定があります。別邸の管理担当者を呼んでください」  女の顔色が変わった。彼女は一歩前に出て、まるで私こそが勝手に入り込んだ部外者であるかのように、鋭い声を出した。 「あんたの家? 鏡を見てから言ったら?」 「こんなところに貧乏くさい女が来て、オーナーのふり?」 「よく見なさいよ。この家の女主人は私なの」  庭で松の手入れをしていた庭師が、騒ぎを聞きつけて剪定ばさみを手に近づいてきた。彼は私を一瞥し、うんざりしたような目を向けた。どうやら、この女が別邸で人に命令する光景に、すっかり慣れているらしい。 「今回ばかりは、あなたのほうが悪いですよ」 「こちらの方は、黒瀬さんが一番大切にしている方です。管理会社の人間もみんな知っています。誰も失礼なことはしません」  私は玄関に立ったまま、指先をゆっくり握りしめた。  蓮司は、住み込みの家政婦を手配するという名目で、私の葉山の別邸に女を住まわせていた。  それだけではない。  彼はその女を、私の家で堂々と女主人の顔ができるほど、甘やかしていた。
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小説 3,808 位 / 226,617件 恋愛 2,063 位 / 65,926件
文字数 13,341 最終更新日 2026.07.10 登録日 2026.07.10
ホラー 完結 短編
竈の上で、火の絶えない大鍋が煮え立っていた。その白く濁った汁の中から、まだ煮崩れていない女の手が浮かび上がる。大吾は鍋のそばに立ったまま、ゆっくりとこちらを振り返った。薄暗い灯りに照らされた顔は、眼球がぎょろりと突き出し、口の端からよだれを垂らしていた。 「怜奈、起きたのか。まだ肉が煮えきってないんだよ。今食べると、酸っぱいんだ」  私はその場に崩れ落ち、悲鳴が漏れないよう両手で口を押さえた。鍋の中の切断された手には、見覚えのある銀の指輪がはまっていたからだ。それは隣の佳代さんが、昨日「実家の母の具合が悪いから帰る」と言っていたとき、たしかに指にはめていたものだった。そしてその瞬間、村中の人間に待ち望まれていた腹の中の「御子」が、腹の皮越しに私を強く噛んだ。
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小説 1,218 位 / 226,617件 ホラー 15 位 / 8,401件
文字数 15,360 最終更新日 2026.07.10 登録日 2026.07.10
恋愛 完結 短編
付き合っていた頃、僕は美玲に一つだけ話したことがある。 「もし、いつか僕のことを好きじゃなくなったら、言葉で言わなくていい。深緑のマフラーを贈ってくれたら、それで分かるから」  冗談ではなかった。子どもの頃、父にはずっと外に女がいた。母をマンションの上階から飛び降りるところまで追い詰めたその女は、首に深緑のスカーフを巻いていた。母が白い布をかけられて運ばれていく時、その女は人混みの後ろで、かすかに笑っていた。  結婚三周年の記念日。佐伯美玲が僕に贈ったのは、深緑のマフラーだった。
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小説 7,592 位 / 226,617件 恋愛 3,422 位 / 65,926件
文字数 15,415 最終更新日 2026.07.09 登録日 2026.07.09
恋愛 完結 短編
午前三時、篠原蒼真は飲み会の個室で結婚式の招待状を配っていた。  その場にいたのは、蒼真がこの数年で東京のテック業界で知り合った人たちばかりだった。酔いの回った誰かが、彼が私の前に招待状を差し出すのを見て、すぐに笑いながら茶化した。 「え、花嫁本人にも招待状? お前ら、そういう遊び方するんだ」  けれど次の瞬間、皆が招待状を開き、そこに印刷された新郎新婦の写真を見た途端、笑い声はぴたりと止まった。  写真の中の花嫁は、私ではなかった。  蒼真が昔から「妹のような存在」と呼んでいた女、佐伯莉央だった。  私は少しも驚かなかった。ただバッグから祝儀袋を取り出し、彼の前にそっと置いた。 「式には出ないわ。二百五十円だけど、私からの祝福だと思って」  祝福、という言葉だけを、私はわざとゆっくり口にした。周囲の人たちは顔を見合わせ、個室には店のBGMだけが残った。私は蒼真を一瞥することもなく、扉を押して外へ出た。  すぐに彼から電話がかかってきた。 「美月、変な誤解をするなよ。俺が莉央と婚姻届を出したのは、芽衣を港区の名門小学校に入れるためなんだ」 「芽衣の入学資格が落ち着いたら、すぐ莉央とは離婚する。そのあと、ちゃんとお前と籍を入れるから」  あまりにも軽い声だった。まるで、どうでもいい世間話でもしているようだった。  私は深夜の銀座の通りに立ち、電話の向こうから聞こえるその声を聞いていた。胸の中は、驚くほど静かだった。  三時間前、私は港区役所を出たばかりだった。  蒼真と正式に婚姻届を出すために、半年かけて書類を準備していた。けれど窓口の職員が記録を確認したあと、彼は三年前にすでに別の女性と婚姻届を提出していると教えてくれた。戸籍上の配偶者として記載されていた名前は、佐伯莉央。  私が持っていた、いわゆる「婚姻届受理証明書」は偽物だった。  私は電話口で問い詰めることも、泣き叫ぶこともしなかった。ただ静かに言った。 「もういい。他人のお下がりなんて、気持ち悪くて無理」  電話を切ったあと、私はすぐに顧問弁護士へ連絡した。 「神宮寺ホールディングスに伝えて。篠原蒼真の全プロジェクトから、出資を引き上げて」 「それから、私名義の港区白金台のマンション。すぐに回収するわ」
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 七月の東京は、息をするだけで肺が焼けそうなほど暑かった。  けれど佐倉美緒は、婚約者の桐谷悠真に「世界は氷河期に入った」と信じ込まされ、偽りの終末の中へ閉じ込められた。  悠真は寝室を密閉し、偽の災害情報を作り、業務用エアコンとドライアイスで極寒の部屋を作り上げた。美緒は恐怖と信頼の中で、少しずつ凍えていく。死の直前、彼女はたった一着のダウンコートまで悠真に渡し、「私の代わりに生きて」と願った。  だが魂が身体を離れた瞬間、美緒が見たのは、扉の外に広がる真夏の陽射しだった。  終末など、どこにもなかった。悠真と親友の白石雪乃は隣の部屋で食べ、飲み、笑いながら、美緒の死を待っていた。彼女の預金と、文京区の分譲マンションを奪うために。  ゴミ箱に捨てられた美緒は、やがて怨霊となる。  彼らが氷河期を作ったというのなら、今度は美緒が、この真夏の部屋を本物の氷の牢獄に変える。  開かない玄関。暴走するエアコン。途切れた電波。目の前にあるのに越えられない生への出口。  裏切り者の二人は、少しずつ絶望の底へ引きずり込まれていく。  翌日、警察が扉を開けたとき、そこには東京で最も奇妙な密室冷凍事件の現場が広がっていた。
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 三日ぶりに家へ戻った日、埼玉県川口市にある田原家の前で、私は足を止めた。  玄関先には白い菊が二列に並べられ、門のそばには黒と白の葬儀案内が掲げられていた。庭には見知らぬ車が何台も停まり、近所の人や親戚たちが黒い喪服姿で、声を潜めながら出入りしている。  一瞬、家を間違えたのだと思った。  けれど表札には、はっきりと「田原」と書かれていた。  私は玄関の引き戸を開けた。中には線香の匂いが満ちていた。  客間の中央には白木の祭壇が組まれ、供花、白木の位牌、焼香台がそろえられている。黒い額に入った遺影が、その真ん中に置かれていた。  写真の中の女の子は、私が一番好きだったベージュのニットを着ていた。長い髪を肩に垂らし、穏やかに笑っている。  けれど、その顔は私ではなかった。  私は玄関で立ち尽くした。手足の先が冷たくなっていく。
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婚姻届を出す前日、久世景人はようやく、十年遅れの婚約指輪を私の指にはめた。  銀色の輪が薬指に滑り込んだ瞬間、私は照明の下で光るダイヤをぼんやり見つめた。長く続いた待ち時間が、やっと終わったような気がした。けれど次の瞬間、彼は私の手を見下ろし、まるで似合わない品物を評するように静かな声で言った。 「正直、澪の手ってあまりきれいじゃないよな」  私は言葉を失った。  景人はそのまま私の指先を取ると、さっきはめたばかりの指輪を抜き取った。十年待ち続けた指輪は、彼の手のひらの上で冷たく光っていた。 「この指輪、瑠奈の手にあったほうが似合うと思う」  私は手を引き戻し、信じられない思いで彼を見た。 「どういう意味? 瑠奈と結婚するつもりなの?」  景人は目を伏せ、指輪の縁を指先でなぞった。まるで、たいしたことではない問いを少し考えているだけのようだった。 「そこまでじゃない。ただ、会えない時間が長くなると、どうしても瑠奈のことを考えるんだ」  その瞬間、私は自分がどうやってあのタワーマンションを出たのかさえ覚えていない。
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 午前三時。港区の上流圏に、とんでもないゴシップが流れた。  見出しはやけに刺さるものだった――《神崎家の跡取り、六本木の会員制ラウンジでインフルエンサーの誕生日を祝う。正妻は深夜に避妊具を届けたか》。  私は画像を開き、そのまま靴を履いた。こんな大ネタを目の前にぶら下げられて、見に行かない理由がない。午前三時の東京に失礼というものだ。  写真の女は、たしかに目を引いた。オートクチュールのドレスをまとい、フロアの中央で水蛇みたいに身をくねらせている。周りでは二世の坊ちゃんたちがグラスを掲げ、面白がってはやし立てていた。  私はバーカウンターでロングアイランド・アイスティーを頼み、静かに見物するつもりで腰を下ろした。ところが彼女は赤ワインのグラスを手に、まっすぐこちらへ歩いてきた。 「あなたが佳奈さん? 藤堂家が地方から見つけ出した、本当の娘さんなんですってね。蓮司さんに頼まれて、あれを届けに来たんでしょう? 品物は? どうしてここでお酒なんか飲んでいるの?」  私は一瞬、反応が遅れた。人違いだと手を振ろうとした瞬間、彼女はいきなり私の手首をつかみ、そのまま自分から床へ崩れ落ちた。  がつん、と乾いた音がした。彼女の腕につけられていたパテックフィリップの文字盤がテーブルの角にぶつかり、見事にひび割れる。  顔を上げた彼女の目には、もう涙が浮かんでいた。ラウンジの照明より早い演技だった。 「佳奈さん……私のことが気に入らないのはわかっています。でも、どうして時計まで壊すんですか。蓮司さんが誕生日のために、わざわざスイスから取り寄せてくれたものなのに。どうしても私が邪魔なら、私が身を引きます」  あまりの展開に、私は言葉を失った。手元のグラスから酒がこぼれ、床に広がる。  深夜に避妊具を届けに来た、哀れな正妻?  冗談じゃない。  私は昨日、日本有数の財閥会長、神崎清隆と入籍したばかりだ。立場でいえば、神崎蓮司の継母である。
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