初めて、三年付き合った彼の実家へ挨拶に行くことになった。
私は出発前、拓海に何度も念を押した。長ねぎや生姜、にんにくは、体質的にどうしても受けつけない。少しでも口にすると、すぐに吐いてしまう。避けるのが難しいなら、自分だけ外で食事を済ませても構わない、と。
「玲奈のことなら、ちゃんと分かってる。母さんにも伝えておくから安心して」
食卓に並んだ鶏肉の煮物や魚の揚げ物、野菜の和え物には、ねぎも生姜も見当たらなかった。
私は、彼が本当に伝えてくれたのだと思った。
ところが美代子は、にんにくも生姜も細かく刻んで煮込んであるのだと、笑いながら明かした。そんなものはただの好き嫌いで、親に甘やかされて育っただけだとまで言われた直後、胃が激しく波打ち、私は洗面所の入口で吐いた。
口をすすいで戻ると、彼女は台所から酸っぱい臭いのする残り物を二皿持ってきて、私の前へ押し出した。
「女もスーパーの惣菜も同じよ。選んでもらえるうちが花なの。年を取ってからあれこれ条件をつけていたら、最後は売れ残るだけでしょう?」
三年付き合った恋人を見ると、拓海はスマートフォンを眺めたまま、顔も上げなかった。
私はポテトサラダを大きくすくい、そのまま彼の口へ押し込んだ。
「自分で食べさせられて、やっと分かった? こんなもの、人に出していい料理じゃないって」
あの日、私はようやく理解した。
彼らが欲しかったのは家族ではない。食卓で黙って頭を下げ、この家の生活まで支え、何をされても逆らわない女だったのだ。
けれど、選ぶ相手を間違えたのは、彼らのほうだった。
……
文字数 17,076
最終更新日 2026.07.26
登録日 2026.07.26
義母は、ドS社長が逃げた妻を追いかけるショートドラマに夢中になり、自分がそのヒロインだと思い込むようになった。そればかりか英会話まで習い始め、日常生活では日本語でのコミュニケーションを拒否するようになった。
食卓で義母は義父に英語でこう言い放った。
「私がいなくなったら、あなたは跪いて、私に戻ってこいと懇願するでしょうね」
彼女は気づいていない。彼女の訛りの強い英語など、誰一人として気にしていないことを。
私は夫と義父とともに、静かにグラスを打ち合わせた。その目は固く決意に満ちている。
なぜなら私たちは、本気で義父を連れて海外へ出る計画を進めているのだから。
文字数 17,603
最終更新日 2026.07.26
登録日 2026.07.26
結婚十周年の記念日、妻は突然、激しくえずき始めた。病院まで付き添うと言った俺に、彼女は海外支社への緊急出張が入ったのだと告げ、そのまま空港へ向かった。
三十分後、見覚えのないLINEアカウントから、一枚のエコー写真が送られてきた。
送り主は、妻の幼なじみだった。
俺は妻を問い詰めることも、病院へ押しかけることもしなかった。ただ不動産会社に連絡し、二人が長年「家」として使っていた、俺の婚前マンションを売りに出した。
妻は知らなかった。
俺がすでに、彼女と幼なじみが築いていた、もう一つの家庭について調べ終えていたことを。
そして今回、俺が手放すつもりなのは、マンションだけではなかった。
文字数 14,080
最終更新日 2026.07.25
登録日 2026.07.25
夫は、仕事一筋の人だった。
結婚して同じ家に暮らしているはずなのに、顔を合わせる回数は数えるほどしかない。結婚前に約束した新婚旅行さえ、出張を理由に何度も先延ばしにされた。
今回は、もう夫を待たなかった。私は一人で月白温泉郷へ向かった。
連れ立って歩く観光客の間を一人で歩きながら、何気なくインスタを開く。すると、夫の秘書である白石寧々が投稿したばかりの写真が目に入った。
写っているのは、まさに私がいる温泉街だった。
キャプションには、こう書かれていた。
「某氏が撮ってくれた今回の写真、前に海で撮ったものより上手かも。褒めてあげよう」
深く考える間もなく、聞き慣れた声がすぐ近くから聞こえてきた。
「もう少し角度を変えてよ。こっちからのほうがきれいに見えるから」
「嘘つけ。どの角度から撮ってもきれいだろ」
顔を上げると、出張中のはずの夫がカメラを構え、真剣な表情で寧々を撮影していた。
私はスマートフォンを取り出し、二人の姿を写真に収め、そのままインスタへ投稿した。
「旅先で偶然お会いしました。どうか末永くお幸せに」
すぐに夫から電話がかかってきた。
「寧々は写真を撮ってほしいと言っただけだ。どうしてわざわざ誤解を招くような投稿をするんだ?」
「今すぐ消せ。家に戻って待っていろ」
私は月白温泉郷を離れる特急列車の中で、小さく笑った。
「それは無理」
「どういう意味だ?」
「私が買ったのは、家に帰るための切符じゃないの」
……
文字数 13,565
最終更新日 2026.07.25
登録日 2026.07.25
昔から潔癖なところのあった夫が、突然、古い商店街の鮮魚店へ現場研修に行くと言い出した時点で、私は悟っていた。彼は、その店にいる女性に心を奪われている。泣きもしなかったし、騒ぎもしなかった。ただ、白石家と久世家の出資契約書を彼の前に置き、二つの選択肢を示した。
「今日の披露宴を中止して、すぐに離婚手続きを進める。そして、白石家から久世グループへの資金支援をすべて手放す」
「それとも、その女性を久世グループ傘下の商店街プロジェクトから外す」
久世祈人は、ベランダで一晩中煙草を吸っていた。翌朝、疲れ切った顔で、彼は答えを出した。
「披露宴は予定どおり行う」
赤くなった彼の目を見て、私は最後にもう一度だけ彼を信じた。
けれど指輪を交換する、その瞬間だった。一枚の招待状が披露宴会場に運び込まれ、彼の手に渡された。そこに書かれていた花嫁の名前は、私ではなかった。
魚住桃香。
私に指輪をはめようとしていた彼の手が大きく震え、リングは絨毯の上に落ちた。小さな音がして、彼はそのまま背を向けた。私は白石家と久世家が招いた客たちの前で、初めて声を乱した。
「祈人、今日ここで行くなら、私たちは本当に終わりよ」
彼の足が、一瞬だけ止まった。けれど次の瞬間、彼は振り返らずに会場を出ていった。
文字数 13,855
最終更新日 2026.07.24
登録日 2026.07.24
神崎モビリティデザインが一年がかりで進めてきた大型案件は、ようやく無事に納品を終えた。私はデザイン部と開発部に、案件が終わったら一人ひとりに特別慰労金を出すと約束していた。ところが支給当日、妻の神崎玲奈は私に断りもなく、全社員への慰労金をアメリカンヒーローの限定フィギュアセットに変えてしまった。理由は、ただひとつだった。新しく入った年下インターンの星野巧が、何気なく「これ、欲しいな」と言ったからだ。
その夜、巧はさっそくSNSにそのフィギュアセットを載せた。写真の中で、彼は玲奈の袖を軽くつかみ、甘やかされた子犬のように笑っていた。玲奈はその隣に立ち、耳を赤くしながら、私には一度も見せたことのないほど柔らかな目で彼を見ていた。添えられた文章は、さらに目障りだった。
【女王様にちょっと願いごとをしただけなのに、本当に全社員分のプレゼントまで僕の好きな限定フィギュアにしてくれた。感動しすぎて泣きそう。女王様のために、これからも頑張ります】
コメント欄はすぐに盛り上がった。
【甘すぎる。自然に彼へプレゼントするために、全社員分そろえたってことでしょ】
【年下の甘え上手なインターンと強気な女社長、この二人は推せる】
【正式な披露宴をやるときは、主賓席に呼んでください】
巧はさらに、自分のコメントを固定していた。
【皆さんの言葉を励みに、仕事も恋も頑張ります】
その一文を見た瞬間、私はようやく気づいた。腐った関係は、置いておくだけで悪臭を放つ。SNSを閉じた直後、数人の核心メンバーが私のオフィスの扉を開けた。彼らは一年間、徹夜を重ね、巧の尻拭いまで何度もさせられてきた。それなのに最後に渡されたのは、案件とは何の関係もないフィギュアだった。もう誰も、我慢するつもりはなかった。
文字数 14,290
最終更新日 2026.07.24
登録日 2026.07.24
「義理の姉・優奈が富豪の息子・神崎怜司と結婚すると宣言し、家族全員が呆然とした。
三日前まで彼女は恋人と駆け落ちすると泣いて訴え、足の不自由なその富豪の男には絶対に嫁ぐものかと息巻いていたのだ。
前世では、彼女が反抗したせいで縁談が私に回ってきた――私は車に押し込まれた。
一方彼女は門のところで、駆け落ちしたいと言っていた恋人と手を繋ぎ、満面の勝利の笑みを浮かべていた。
だが彼女が選んだ道は間違っていた。そして彼女は私を連れて川に飛び込んだ。
やり直しの今世、彼女は自分がその富を奪い取ったと思っている。
私はうつむいてスープを啜り、冷笑を隠す――あの“富”、今度は彼女に譲ってやろう。」
文字数 18,141
最終更新日 2026.07.24
登録日 2026.07.24
彩乃が山の中にもう一つの家庭を隠していると初めて知ったのは、会社から親子トレッキングツアーの受け入れに行くよう命じられた日だった。
ツアーの申込書が手元に届いたとき、正直、少しだけ期待していた。彩乃は三日前、白嶺山麓へトレッキング療養に行く、半月ほど戻らないと言っていた。今回の出張先は山あいの温泉旅館だ。もしかしたら、偶然会えるかもしれない。
同僚が名簿を私の前に置き、参加者情報を確認するよう促した。私は気のない様子でページをめくっていた。けれど、「藤宮彩乃」という名前を見つけた瞬間、視線が止まった。その後ろの続柄欄には、はっきりとこう書かれていた。
【同行者:夫・久我玲司/長男・蓮斗。希望客室:ファミリールーム】
私はその一行を見つめたまま、指先から少しずつ冷えていくのを感じていた。
結婚して八年。彩乃はずっと、自分は妊娠できないし、子どもも好きではないと言っていた。私たちはこの先もずっと、夫婦二人で気楽に生きていけばいい。彼女はそう笑っていた。けれど申込書に載っていた八歳の男の子は、彩乃と同じ目をしていた。
あとになって知った。その子は、私たちの結婚よりも数か月早く、この世界に生まれていた。
彩乃は子どもが欲しくなかったわけではない。
ただ、私に知られたくなかっただけだった。
文字数 14,203
最終更新日 2026.07.23
登録日 2026.07.23
妻の上場会見。私は最前列で彼女より緊張していた。晴香は全員に感謝した。協力企業、取締役、社員、清掃員まで――。ただ、私だけは除いて。
この会社は私がゼロから創った。彼女が「社長をやってみたい」と言うから、株を譲り、退いた。夫婦だから、彼女の成功は私の成功だ。
会見後、花束を抱えて楽屋へ向かうと、晴香が若い男のネクタイを直していた。幼なじみの水城湊だ。彼は勝者の笑みを浮かべた。
その瞬間、私は気づいた。三年の夫ではなく、ただの部外者だと。七年間、私は彼女の夜食であり、感情の逃げ場だった。でも彼女の目の光は、もうずっと私のために輝いてはいなかった。
文字数 18,553
最終更新日 2026.07.22
登録日 2026.07.22
夫の誕生日、私はケーキを抱えて彼の会社を訪れた。
社長室の扉はわずかに開いており、中から妹の星羅の声が聞こえてきた。
「次順位受益者の資格放棄書、どうしてまだ署名させていないの?」
直哉が苛立った声で答えた。
「あと数か月待て。子どもが生まれたあとで紫乃に事故が起きれば、父親の俺が子どもの信託財産を管理できる」
短い沈黙のあと、星羅の声が氷のように冷えた。
「でも、その子が生きている限り、私は九条家で唯一の後継者にはなれない」
扉の外に立ったまま、手の中のケーキが少しずつ傾いていった。あの二人が欲しがっていたのは、私の結婚も株式も、それだけではなかった。
私と、お腹の子の命まで奪うつもりだったのだ。
録音ボタンを押し、私は東華都の雨の中へ引き返した。
文字数 21,783
最終更新日 2026.07.22
登録日 2026.07.22
施工班に、高額の仕事が入った。
内容は、ごく普通の分譲マンションの一室に「葬祭用品サンプル保管室」を作ることだた。
責任者は、最初、住所の入力ミスだと思ったらしい。けれど工具を抱えて現場に来たとき、私が本気だとようやく理解した。
理由は単純だった。同じ階の斜め向かいに住む女が、靴箱、古い収納棚、ゴミ袋を共用廊下いっぱいに並べ、私の玄関前まで占拠していたからだ。扉を開けるたび、こちらが身を縮めなければならないほどだった。
私は、ここは火災時の避難経路だから私物を置かないでほしいと伝えた。
すると彼女は、目だけで人を踏みつけるような顔をした。
「管理費はうちも払ってるのよ。共用部分なら、私にも使う権利があるでしょ。賃貸暮らしの貧乏会社員が、何様のつもり?」
その後、私はその部屋を買った。
同時に、地下駐車場の平置き駐車区画の専用使用権も引き継いだ。
けれど彼女は、私が出張している間に、自分の赤いレクサスを私の区画へ停め、さらに黄色い車止めまで勝手に取り付けた。
家に車が多いから少し借りてあげているだけ。
彼女は、そう言った。
だから私は、施工班に頼んだ。
駐車区画の線の内側に、取り外し可能な鋼製フェンスをぐるりと立ててもらった。
ついでに、自分の部屋を葬祭用品サンプル保管室にした。
どちらのほうが気味悪いか、比べてみればいい。
文字数 14,225
最終更新日 2026.07.21
登録日 2026.07.21
柳司兄さんは、人間ではないのかもしれない。
私が初めてそう思ったのは、彼の日記をこっそり見つけてしまった日のことだった。指先が表紙に触れた瞬間、視界の端に、読者コメントみたいな文字が一行ずつ流れ始めた。
【かな、そろそろ気づいて。柳司は恋愛を邪魔してるんじゃなくて、嫉妬でおかしくなってるだけだから】
【でも、柳司があの日道端で出会った小さな黒蛇だって、かなはいつ気づくんだろう】
【気づかないほうがいいかも。あのとき、かなは棒で殴って、柳司を蛇神様のところへ送りかけたし】
【人の姿に戻った柳司、おでこに大きなたんこぶ作ってたのに、かなに鏡餅みたいって言われてたよね】
私はその文字を凝視したまま、日記帳に触れた指を動かせなくなった。
次の瞬間、扉が開いた。
本来なら地方へ出張しているはずの神代柳司が、戸口に立っていた。彼の視線は私を越え、机の上の日記帳へ落ちている。
「もう大学生なのに、まだ部屋を間違えるの?」
私は顔を上げ、乾いた笑みを浮かべた。
「すごい偶然だね、柳司兄さん。こんなところで会うなんて」
文字数 15,189
最終更新日 2026.07.21
登録日 2026.07.21
「トレーナー、もう少し優しくして」
「無理、もう無理……水城トレーナー、助けて……」
トレーニング動画から切り取られたその二言は、意味深な字幕まで添えられ、Xのトレンド「#一ノ瀬玲央の専属トレーナー」で一日中繰り返し再生された。
私は、今度こそ本当に終わったと思った。
相手は売れっ子俳優だ。所属事務所の法務が本気になれば、損害賠償に違約金、名誉毀損への対応――どれか一つだけでも、学生の私には払いきれない。
けれど騒動が決定的になったその夜、当の本人が私の部屋を訪ねてきた。
玲央は帽子を深くかぶり、マスクの上からでも分かるほど傷ついた目で私を見ていた。
「どうして返事をくれないの?」
「もう、俺とは関わりたくない?」
答えを探しているうちに、彼が一歩だけ距離を詰める。
「トレンドが何個増えたって、そんなのどうでもいい」
まっすぐな視線が私を捉えた。声は、ひどく優しかった。
「水城トレーナー。俺は命だって、あなたに預けたい」
文字数 18,353
最終更新日 2026.07.20
登録日 2026.07.20
妊娠八か月のとき、夫が急きょヨーロッパへ出張することになり、私は一週間だけ実家で過ごすことになった。
ところが帰ったその日の夜、婚姻届を出したばかりの弟の妻が食卓をひっくり返し、私の鼻先に指を突きつけた。
「結婚したくせに実家へ戻って、ただ飯を食べるなんて。もうこの家の人間でもないのに」
母は彼女の頬を叩き、父は出ていけと怒鳴った。弟も私をかばい、妻に謝れと迫った。
けれど翌日、私が弟の買ってきた白桃を一つ食べただけで、彼女は再び罵声を浴びせてきた。
今度は、弟の態度が違った。
「姉ちゃんのほうが年上なんだから、玲奈のことを少しくらい大目に見てやれないの?」
あのときの私は、まだ知らなかった。
弟を失うのに必要だったのは、たった一つの白桃だった。
文字数 20,633
最終更新日 2026.07.20
登録日 2026.07.20
会議が終わった直後、桐生玲奈のスマホが鳴った。会議室を出たばかりで、腕にはノートパソコンを抱えたままだった。画面には次の資金調達審査に使う資料が開いたままになっている。着信表示は、白金台にある美容クリニックの番号だった。
「桐生玲奈様でいらっしゃいますか。こちら、白金台美容クリニックでございます。先日、小宮山心愛様が桐生様名義の家族カードでお支払いになった施術の件で、次回のご予約も高橋様のご連絡先でよろしいか、確認のお電話を差し上げました」
玲奈は足を止めた。廊下の突き当たりにあるガラス窓に、自分の顔が映っている。化粧は崩れていないのに、表情だけが少しずつ冷えていった。
「……どなたの予約ですか?」
「小宮山心愛様でございます。桐生様と高橋悠真様もご存じだとうかがっておりますので、費用は追加カードで、と」
高橋悠真は、玲奈と三年同居している事実婚の相手だった。婚姻届こそ出していないが、周囲には婚約者として紹介していた。起業当初、資金繰りに苦しんでいた悠真のために、玲奈は自分名義のクレジットカードに追加カードを発行し、彼に持たせていた。接待や会社の急な支払いに使えるようにするためだった。
あのカードは、もう形だけのものだと思っていた。
それが今も、別の女のために使われていたなんて。
「予約はキャンセルしてください。その追加カードも、本日中に利用停止にします」
電話の向こうでスタッフが一瞬言葉に詰まり、慌てて謝罪した。玲奈は最後まで聞かずに通話を切った。二分もしないうちに、今度は別の番号から着信が入った。
「桐生様でいらっしゃいますか。こちら、星見丘別荘地管理事務所でございます。九号棟につきまして、本日夜、誕生日パーティー用のケータリング車両と花束配送の入場申請が出ております。申請者は小宮山心愛様です。九号棟の所有者様のご連絡先が桐生様のままですので、規定により確認のお電話を差し上げました」
「誕生日パーティー?」
文字数 15,381
最終更新日 2026.07.19
登録日 2026.07.19
ショート動画アプリで「三杯の告白」という企画が流行っていた頃、私も一本の動画を投稿した。
画面の中の私は念入りに化粧をし、グラスを手に、カメラへ向かって微笑んでいた。
「一杯目は、義母に。迎え盆の前夜、義母は若い女の墓を暴きました」
「二杯目は、私自身に。義母はその女の身体から取り出したものを煮込み、一か月もの間、私に飲ませ続けました」
「三杯目は、毎晩私のもとへ現れる女の霊に。命を奪うなら義母のところへ行ってください。私も被害者なんです」
文字数 12,620
最終更新日 2026.07.19
登録日 2026.07.19
悲劇ヒロインものの恋愛小説に入り込んで、まだ五分も経っていなかった。
私はもう、この物語に出てくる旧財閥系の御曹司が、どれほど理不尽な男なのかを思い知らされていた。
彼の幼なじみである白鳥唯花が、ほんの小さく咳をしただけで、彼は冷たい顔で私を見た。さっき私がくしゃみをしたせいで風が起き、唯花が冷えたのだと言うのだ。
そして警備員に命じ、私を旧館の地下倉庫へ連れて行かせた。そこで一晩、鼠と一緒に反省しろ、ということらしい。
けれど扉が閉まった瞬間、私はその場で固まった。
地下倉庫には湿気も寒さも、もちろん鼠もいなかった。床には厚い絨毯が敷かれ、暖房は温泉旅館みたいに効いていて、隅には新品のパジャマとホットココアまで置かれていた。
翌日、唯花が何もない床で転んだ。
すると今度は、私がそこに立っていたせいで彼女の邪魔になったと言われた。部屋へ連れて行き、自分の手で罰を与える、と彼は言った。
私は本気で疑い始めた。
この原作の男主人公、精神的に大丈夫なのだろうか。
けれど部屋の扉が閉まった途端、彼は私を腕の中へ引き寄せた。耳元で低く笑う声は、ひどく聞き覚えがあった。
「寧々、大丈夫」
「これは、あいつらに見せるための芝居だ」
「あいつらが自分で掘った穴に落ちるところを、俺が見せてやる」
文字数 15,877
最終更新日 2026.07.18
登録日 2026.07.18
佐倉帆夏は、婚前のクルーズ旅行を一日早く切り上げただけだった。
それなのに、婚約者の黒瀬悠真は彼女に別れを切り出した。
沖縄航路のクルーズ旅行、最後の夜だった。窓の外の海は夕日に染まり、レストランには静かなピアノの音が流れていた。周囲の席には、寄り添う恋人や夫婦ばかりが座っている。帆夏は窓際の席で、グラスの氷を無意味にかき回す悠真を見つめながら、不思議なくらい心が冷めていくのを感じていた。
「帆夏、別れよう」
彼女は唇の端を少しだけ上げた。
まるで、その言葉をずっと待っていたかのように。
「西園寺莉央のせい?」
「莉央は関係ない。俺が、帆夏にふさわしくないだけで……」
「佐倉先生と呼んでください」
帆夏は彼の言葉を遮った。声は静かだったが、逃げ道を残すつもりはなかった。
「ほかの女と甘いことを言い合った口で、私の名前を呼ばないでください。気持ち悪いので」
悠真は固まった。
しばらくして、彼は何も言わなくなった。きっと、長く引きずってきた関係が、こんなにあっさり終わるとは思っていなかったのだろう。
帆夏は荷物を引いて部屋を出た。そのまま一人でレストランへ向かう。恋は終わった。けれど、夕食まで台無しにするつもりはない。彼女は皿いっぱいに料理を取り、胸の中に溜まった悔しさをすべて食欲に変えることにした。
食事の途中、少し離れた席に背の高い若い男がいることに気づいた。サングラスにマスク、深くかぶったキャップ。顔を隠しているつもりなのだろうが、逆に目立っていた。帆夏はフォークをくわえたまま二秒ほど見て、たぶん顔がいいのだろうと判断した。
そして、どこかの女性を見すぎて、席を間違えたのだろうとも思った。
「お兄さん、席、違いますよ」
相手は答えなかった。
そのまま、テーブルのカトラリーに手を伸ばす。帆夏は目を細め、少しだけ声を大きくした。
「すみません。ここ、人がいます」
男がようやく顔を上げた。
サングラス越しで目元は見えない。それでも、その一瞬の視線に、どこか奇妙な既視感があった。男は何も言わず、すぐに席を立った。まるで、短く吹き抜けた風のようだった。
帆夏はまた料理に目を戻した。
翌日になって、彼女はようやく知ることになる。
あの奇妙な男が、神崎遥斗だったことを。
今、日本で最も注目されている若手シンガーだったことを。
文字数 17,062
最終更新日 2026.07.18
登録日 2026.07.18
東都白汐区の財界では、家柄、血筋、後継ぎ、そして一族の体面が何よりも重んじられる。
三年前、篠原怜司は、何の後ろ盾もない私を妻にするために、すでに一度、篠原家と激しく衝突していた。あの時、誰もが彼は恋に目が眩んだのだと言った。けれど結婚式は挙げられ、婚姻届も受理され、篠原家がどれほど不本意であっても、外では私を「篠原夫人」として扱うしかなかった。
だからこそ、怜司が今度は九条湊のために離婚を切り出した時、周囲の人間は皆、呆れた。
彼らにとって、男のために三年間どうにか保ってきた結婚を壊すことは、篠原家が三年前の選択そのものを失敗だったと認めるのと同じだった。しかも九条湊は、九条グループの人間でもある。
彼らには理解できなかった。
けれど、私にはわかっていた。
この結婚は、ずっと前から、体面という薄い殻だけでできていたから。
だから私は引き延ばさなかった。すぐに離婚に応じた。財産分与や慰謝料についても、その場では争うそぶりを見せなかった。少なくとも表面上は、私は夫に捨てられてもなお、最後の品位を守ろうとする女に見えたはずだ。
離婚届が区役所の戸籍課で正式に受理された瞬間、私はようやく息をついた。
私は九条湊のもとへ歩いていき、その胸に飛び込んだ。
「やっと、自由になれた」
湊は私を抱きしめた。目元は赤かったのに、その声には笑みが混じっていた。
「やっと、君の隣に立てた」
怜司はその場に立ち尽くし、顔から少しずつ血の気を失っていった。
彼はようやく気づいたのだ。
自分が手に入れたつもりでいた人は、最初から彼のものではなかったのだと。
文字数 16,082
最終更新日 2026.07.17
登録日 2026.07.17
恋人が消えた。
三日前、私はまた感情を抑えきれなくなり、電話越しに別れを告げた。それきり、彼は私のLINEをブロックし、何度電話をかけても出なかった。彼が借りていた1DKのマンションまで行ってみると、管理会社から、二日前に退去手続きを済ませ、荷物もすべて運び出したと聞かされた。
自分の狭いアパートで二日間、何も手につかないまま過ごした末に、ようやく一つの場所を思い出した。会員制婚活サロン「エテルナ」。私たちが出会った場所だ。
ほとんど本能に導かれるように、受付と廊下を抜け、従業員用のオフィスへ向かった。朝倉怜司はパーティションで区切られたデスクに座り、パソコンで会員管理シートを更新していた。画面には、女性会員の情報がびっしりと並んでいる。
その中に、自分の名前を見つけた。
文字数 17,545
最終更新日 2026.07.16
登録日 2026.07.16