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第三話 黒い小鳥の唄
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腹ごなしも兼ねて、食後はみんなで片付けをした。
思う存分食べたので、デザートまでの小休止として、今はのんびりとお茶を楽しんでいる。
「はぁー……この紅茶も美味しい……」
「ダージリンですね、翠さん。実に芳醇だ」
白石さんと亜嵐さんのゆったりとした姿に、翠さんは満足げな笑みを浮かべる。
琥珀色の水面を見つめて、白石さんは唇を尖らせた。
「ここで飲む紅茶、なんでこんなに美味しいんだろう。家で淹れても、絶対こんな味にならないんだよね」
うーんと首を捻る白石さんに、亜嵐さんは呆れ顔だ。
「君が飲んでいるのは、どうせティーバッグだろう?」
「ぶぶーっ、残念でした!紅茶専門店に行って、店員さんおすすめの茶葉とティーポットを買ってきたんです~!」
白石さんは、ふふん!と胸を張った。
すると亜嵐さんは、「ほう……」と言って顎に手を当てた。
「見上げた心掛けだな。――となるとやはり、腕の問題しかあるまい」
ふっと鼻を鳴らして、畳みかける。
「美緒が翠さん級になるには、一体何年かかるやら、だな」
「もう、亜嵐さんったら。子どもみたいな意地悪を言わないの!」
ぐっと言葉に詰まった白石さんを庇うように、翠さんは亜嵐さんを窘めた。
悔しそうに自分を睨む白石さんを見て、亜嵐さんも少々反省したのか、眉を下げた。
「……済まない。少し揶揄が過ぎた」
そう言って女性陣に降参する亜嵐さん。どうやっても、翠さんには頭が上がらないようだ。
それからいつもの『真理を追究する者』の表情になり、真面目な口調で分析を始めた。
「まあ、腕の問題は置いておくとして。他にも要素はあるだろうな。例えば――水とか」
「……え?水?」
意外な指摘に目を丸くする白石さん同様、俺も亜嵐さんの次の言葉を待った。
「紅茶を愛飲するイギリスの水は、ミネラルをたっぷり含んだ硬水だ。ミネラルは多すぎると茶葉の成分と反応し過ぎて、味を落としてしまう。だからイギリスで流通している茶葉は、硬水でも美味しく淹れることができるように調整されているのだ」
「でも師匠、私が行ったお店は輸入食材店じゃなくて、日本の紅茶専門店ですよ?」
白石さんの問いに、亜嵐さんは「うむ」と頷いた。
「イギリスとは違い、日本の水はそのほとんどが軟水だ。紅茶を淹れるのに元々適しているし、イギリスの会社が日本向けに売り出している茶葉も、軟水用にブレンディングがされている」
「じゃあ、白石さんも、水がよくないわけじゃない?」
白石さんと顔を見合わせて、首を捻る。
と、翠さんが亜嵐さんの言葉を継いだ。
「美緒ちゃん、お水はどんなものを使っているの?」
その質問に、白石さんはふふんと胸を張って答えた。
「美味しい紅茶を淹れたいから、水道水じゃなくてミネラルウォーターを使ってます!」
すると今度は西園寺さんと翠さんが顔を見合わせ、頷いた。
「それだな、原因は」
「そうね、それね」
「え?ミネラルウォーターはダメなんですか?美味しい水なのに」
そう問い返すと、翠さんは頬に手を当てて、ちょっと困ったような表情になった。
「そうね、美味しいお水ではあるけれど。茶葉の旨味を引き出すには、お水に含まれる空気の量も大切なの」
「つまりだ。ボトリングされて時間が経ったミネラルウォーターより、水道から汲んだばかりの水の方が空気の含有量が多く、紅茶を淹れるのに適しているのだよ」
「えーっ!?」
「そんな!?」
二人揃って驚きの声を上げる。
ミネラルウォーターより水道水――てっきり逆だと思っていた。
「もちろん、水道水が万能というわけではないわ。日本の水道水は高品質だけど、茶葉によってはミネラルがより少ないものが適していたり、少し硬いお水の方が良いものもある。だからうちでは茶葉を新しくするときは、お客様に出す前にどんなお水で淹れるのがいいか、必ず確かめているのよ」
「そうなんだ……」
そこまでの配慮をしているのか――さすがというか、頭が下がる思いだ。
「だから美緒ちゃんが用意したお茶も、お水を変えるだけで味が変わると思うわ。よかったら今度、ここに持ってきてちょうだいな。美味しい淹れ方を一緒に確かめましょう?」
「ふん。美緒、良かったな」
白石さんは手を組み、半分涙目になりながら「お願いします!」と感激している。
「師匠もすごいけど、翠さん……聖母だわ!」
「俺は前に妖精みたいだって思ったけど、その表現もピッタリだね!」
うんうんと頷くと、翠さんは恥ずかしそうに上着の端を掴んだ。
「いやだわ。やめてちょうだい、二人とも。おばさんをからかっちゃだめよ?」
「年齢なんて関係ないですよ!翠さんはすっごくチャーミングです!ね?藤宮くん!」
「そうですよ、おばさんなんて呼べません!」
「……さあ、そろそろデザートを準備しようかしら」
二人で褒めそやすと、翠さんは手で顔をあおぎながら立ち上がり、そそくさと厨房へ行ってしまった。
その顔は、耳まで赤く染まっていた。
***
しばらくすると、甘さを含んだバターの香りが、キッチンからふんわりと漂ってきた。
それだけで、胸の奥がそわそわと浮き立つ。
「ん~っ!絶対美味しいやつだよ、これ!」
「そうだね、すごくいい匂いだ」
「ねえ。藤宮くんは今日のデザートが何か、もう知ってるんでしょ?」
目を閉じて鼻をくんくんさせていた白石さんが、うれしそうにこちらを振り返る。
「それが知らないんだ。俺たちが来る前には、焼く直前まで作ってあったから。でも多分――パイじゃないかな」
「パイ!?うわぁ、楽しみ!翠さんのパイ、すごく美味しいんだもん」
何のパイかな?と笑い合う声が弾むなか、ふと亜嵐さんの表情が目に入った。
(……心ここにあらず?)
どこか遠い場所を見遣るような、その瞳。
カップをソーサーに置く小さな音が、ひどく儚く響く。
これまで感じたことのない焦燥が、ぞわりと俺の胸を駆り立てた。
まるで彼という存在が、この場からふっと消えてしまいそうで――。
「亜嵐さん!」
気付けば俺は、その腕を掴んでいた。
「……湊?」
「亜嵐さん!ここにいてください!どこにも行かないで!!」
声が震えた。――いや、違う。肩も手も、勝手に震えていた。
白石さんが慌てて近付き、俺の腕を押さえる。
「藤宮くん、どうしたの!?師匠はここにいるよ!」
「だって……!」
鼻の奥がつんとして、言葉が続かない。
(亜嵐さんが……どっかに行っちゃう……!)
亜嵐さんは突然俺がしがみ付いたものだから、唖然としていた。
けれどふっと目に温かさを宿すと、そっと手を俺の拳に重ねた。
「湊。私はここにいる」
低く、静かな声だった。
その響きが、指先までじんわりと沁みていく。
「ここにいるさ、湊」
重ねて言われ、やっと俺は緊張を解いた。掴んでいた手の力を、そっと緩める。
亜嵐さんと白石さんが、何かを言いたげに俺を見る――けれど二人とも、誰も何も言わなかった。
亜嵐さんも白石さんも、気付いたのだろう。
俺が言葉にできない想いを抱えていることに。
気まずい静けさが場を支配した――そのとき。
「はーい、みんな。お待ちかねのデザートよ!」
翠さんの明るい声が店内に響いて、張りつめていた空気はふわりと溶けた。
***
「……あら?どうかしたの?」
銀色の盆を持った翠さんが、小首を傾げる。
さきほどまでの空気の揺らぎを感じ取ったのだろう。
けれどその気配を振り払うように、白石さんは明るく声を弾ませた。
「なーんにもありませんよ!うわぁ、やっぱりパイだよ、藤宮くん!」
「……そう?うふふ。美緒ちゃんはパイが大好きよね」
「はいっ!それで、これは何パイですか?」
元気な声が響くたび、冷えていた指がじんと熱を取り戻していく。
(……俺も、しっかりしなくちゃ)
そう思いながら、俺は白石さんの隣に立ち、翠さんの手元に視線を向けた。
「今日はね、旬の桃を使ったのよ」
「……ん?」
「……え?」
にこやかに微笑みながら、皿をテーブルに置いた翠さん。
俺と白石さんは、驚いてそのパイを凝視した。
(何かが、パイを突き破ってる?)
パイの真ん中から、ひょっこりと顔を出していたのは――。
「黒い……小鳥、ですか?」
「ええ、そうよ。これはね、パイバードっていうの」
「パイ、バード?」
初めて聞く単語に、俺たちは顔を見合わせた。
すると後ろから、静かな声が重なった。
「パイバードは、汁気の多いパイを焼くときの必需品だ。内側の蒸気を逃がし、同時に生地を支えて形を保つ効果がある」
「おぉ、さすがは師匠!」
(なるほど……)
黄色いくちばしを上に向けた小鳥の喉には、小さな穴が開いている。
そこから蒸気を逃がす仕組みなのか。
「可愛いだけじゃなくて機能性も優れてるなんて。この小鳥ちゃん、なかなかやるわね」
白石さんがふふふと笑ってパイバードを指で弾く。
その肩越しに、亜嵐さんもパイを覗き込んだ――その瞬間。
「翠さん……これは……」
その顔色は、驚愕とも深い悲しみともつかない色に変わった。
「ええ、そうよ、亜嵐さん。大昔に――あなたのおばあ様から頂いたものよ」
「…………」
「もういいでしょう、亜嵐さん。また笑って、こんなふうに食卓を囲めるようになったんだもの。あのときだって誰も――もちろんあなたも、悪くなんてなかったのよ」
全てを許すような声は悲しげで、切なく胸に響く。
けれど――。
「……失礼します」
顔を背けた亜嵐さんは、勢いよく椅子を引くと、大股で店を横切っていった。
その姿が扉の向こうに消えるまで、誰も声を発することができなかった。
俺も白石さんも、何がどうなっているのか、まったくわからない。
さっきまで空気を満たしていた甘い湯気は、いつの間にか細く、頼りなくなっていた。
まるで――誰かの気配が薄れていくように。
パイの向こうで揺れる翠さんの横顔を、俺たちはただ見つめることしかできなかった。
思う存分食べたので、デザートまでの小休止として、今はのんびりとお茶を楽しんでいる。
「はぁー……この紅茶も美味しい……」
「ダージリンですね、翠さん。実に芳醇だ」
白石さんと亜嵐さんのゆったりとした姿に、翠さんは満足げな笑みを浮かべる。
琥珀色の水面を見つめて、白石さんは唇を尖らせた。
「ここで飲む紅茶、なんでこんなに美味しいんだろう。家で淹れても、絶対こんな味にならないんだよね」
うーんと首を捻る白石さんに、亜嵐さんは呆れ顔だ。
「君が飲んでいるのは、どうせティーバッグだろう?」
「ぶぶーっ、残念でした!紅茶専門店に行って、店員さんおすすめの茶葉とティーポットを買ってきたんです~!」
白石さんは、ふふん!と胸を張った。
すると亜嵐さんは、「ほう……」と言って顎に手を当てた。
「見上げた心掛けだな。――となるとやはり、腕の問題しかあるまい」
ふっと鼻を鳴らして、畳みかける。
「美緒が翠さん級になるには、一体何年かかるやら、だな」
「もう、亜嵐さんったら。子どもみたいな意地悪を言わないの!」
ぐっと言葉に詰まった白石さんを庇うように、翠さんは亜嵐さんを窘めた。
悔しそうに自分を睨む白石さんを見て、亜嵐さんも少々反省したのか、眉を下げた。
「……済まない。少し揶揄が過ぎた」
そう言って女性陣に降参する亜嵐さん。どうやっても、翠さんには頭が上がらないようだ。
それからいつもの『真理を追究する者』の表情になり、真面目な口調で分析を始めた。
「まあ、腕の問題は置いておくとして。他にも要素はあるだろうな。例えば――水とか」
「……え?水?」
意外な指摘に目を丸くする白石さん同様、俺も亜嵐さんの次の言葉を待った。
「紅茶を愛飲するイギリスの水は、ミネラルをたっぷり含んだ硬水だ。ミネラルは多すぎると茶葉の成分と反応し過ぎて、味を落としてしまう。だからイギリスで流通している茶葉は、硬水でも美味しく淹れることができるように調整されているのだ」
「でも師匠、私が行ったお店は輸入食材店じゃなくて、日本の紅茶専門店ですよ?」
白石さんの問いに、亜嵐さんは「うむ」と頷いた。
「イギリスとは違い、日本の水はそのほとんどが軟水だ。紅茶を淹れるのに元々適しているし、イギリスの会社が日本向けに売り出している茶葉も、軟水用にブレンディングがされている」
「じゃあ、白石さんも、水がよくないわけじゃない?」
白石さんと顔を見合わせて、首を捻る。
と、翠さんが亜嵐さんの言葉を継いだ。
「美緒ちゃん、お水はどんなものを使っているの?」
その質問に、白石さんはふふんと胸を張って答えた。
「美味しい紅茶を淹れたいから、水道水じゃなくてミネラルウォーターを使ってます!」
すると今度は西園寺さんと翠さんが顔を見合わせ、頷いた。
「それだな、原因は」
「そうね、それね」
「え?ミネラルウォーターはダメなんですか?美味しい水なのに」
そう問い返すと、翠さんは頬に手を当てて、ちょっと困ったような表情になった。
「そうね、美味しいお水ではあるけれど。茶葉の旨味を引き出すには、お水に含まれる空気の量も大切なの」
「つまりだ。ボトリングされて時間が経ったミネラルウォーターより、水道から汲んだばかりの水の方が空気の含有量が多く、紅茶を淹れるのに適しているのだよ」
「えーっ!?」
「そんな!?」
二人揃って驚きの声を上げる。
ミネラルウォーターより水道水――てっきり逆だと思っていた。
「もちろん、水道水が万能というわけではないわ。日本の水道水は高品質だけど、茶葉によってはミネラルがより少ないものが適していたり、少し硬いお水の方が良いものもある。だからうちでは茶葉を新しくするときは、お客様に出す前にどんなお水で淹れるのがいいか、必ず確かめているのよ」
「そうなんだ……」
そこまでの配慮をしているのか――さすがというか、頭が下がる思いだ。
「だから美緒ちゃんが用意したお茶も、お水を変えるだけで味が変わると思うわ。よかったら今度、ここに持ってきてちょうだいな。美味しい淹れ方を一緒に確かめましょう?」
「ふん。美緒、良かったな」
白石さんは手を組み、半分涙目になりながら「お願いします!」と感激している。
「師匠もすごいけど、翠さん……聖母だわ!」
「俺は前に妖精みたいだって思ったけど、その表現もピッタリだね!」
うんうんと頷くと、翠さんは恥ずかしそうに上着の端を掴んだ。
「いやだわ。やめてちょうだい、二人とも。おばさんをからかっちゃだめよ?」
「年齢なんて関係ないですよ!翠さんはすっごくチャーミングです!ね?藤宮くん!」
「そうですよ、おばさんなんて呼べません!」
「……さあ、そろそろデザートを準備しようかしら」
二人で褒めそやすと、翠さんは手で顔をあおぎながら立ち上がり、そそくさと厨房へ行ってしまった。
その顔は、耳まで赤く染まっていた。
***
しばらくすると、甘さを含んだバターの香りが、キッチンからふんわりと漂ってきた。
それだけで、胸の奥がそわそわと浮き立つ。
「ん~っ!絶対美味しいやつだよ、これ!」
「そうだね、すごくいい匂いだ」
「ねえ。藤宮くんは今日のデザートが何か、もう知ってるんでしょ?」
目を閉じて鼻をくんくんさせていた白石さんが、うれしそうにこちらを振り返る。
「それが知らないんだ。俺たちが来る前には、焼く直前まで作ってあったから。でも多分――パイじゃないかな」
「パイ!?うわぁ、楽しみ!翠さんのパイ、すごく美味しいんだもん」
何のパイかな?と笑い合う声が弾むなか、ふと亜嵐さんの表情が目に入った。
(……心ここにあらず?)
どこか遠い場所を見遣るような、その瞳。
カップをソーサーに置く小さな音が、ひどく儚く響く。
これまで感じたことのない焦燥が、ぞわりと俺の胸を駆り立てた。
まるで彼という存在が、この場からふっと消えてしまいそうで――。
「亜嵐さん!」
気付けば俺は、その腕を掴んでいた。
「……湊?」
「亜嵐さん!ここにいてください!どこにも行かないで!!」
声が震えた。――いや、違う。肩も手も、勝手に震えていた。
白石さんが慌てて近付き、俺の腕を押さえる。
「藤宮くん、どうしたの!?師匠はここにいるよ!」
「だって……!」
鼻の奥がつんとして、言葉が続かない。
(亜嵐さんが……どっかに行っちゃう……!)
亜嵐さんは突然俺がしがみ付いたものだから、唖然としていた。
けれどふっと目に温かさを宿すと、そっと手を俺の拳に重ねた。
「湊。私はここにいる」
低く、静かな声だった。
その響きが、指先までじんわりと沁みていく。
「ここにいるさ、湊」
重ねて言われ、やっと俺は緊張を解いた。掴んでいた手の力を、そっと緩める。
亜嵐さんと白石さんが、何かを言いたげに俺を見る――けれど二人とも、誰も何も言わなかった。
亜嵐さんも白石さんも、気付いたのだろう。
俺が言葉にできない想いを抱えていることに。
気まずい静けさが場を支配した――そのとき。
「はーい、みんな。お待ちかねのデザートよ!」
翠さんの明るい声が店内に響いて、張りつめていた空気はふわりと溶けた。
***
「……あら?どうかしたの?」
銀色の盆を持った翠さんが、小首を傾げる。
さきほどまでの空気の揺らぎを感じ取ったのだろう。
けれどその気配を振り払うように、白石さんは明るく声を弾ませた。
「なーんにもありませんよ!うわぁ、やっぱりパイだよ、藤宮くん!」
「……そう?うふふ。美緒ちゃんはパイが大好きよね」
「はいっ!それで、これは何パイですか?」
元気な声が響くたび、冷えていた指がじんと熱を取り戻していく。
(……俺も、しっかりしなくちゃ)
そう思いながら、俺は白石さんの隣に立ち、翠さんの手元に視線を向けた。
「今日はね、旬の桃を使ったのよ」
「……ん?」
「……え?」
にこやかに微笑みながら、皿をテーブルに置いた翠さん。
俺と白石さんは、驚いてそのパイを凝視した。
(何かが、パイを突き破ってる?)
パイの真ん中から、ひょっこりと顔を出していたのは――。
「黒い……小鳥、ですか?」
「ええ、そうよ。これはね、パイバードっていうの」
「パイ、バード?」
初めて聞く単語に、俺たちは顔を見合わせた。
すると後ろから、静かな声が重なった。
「パイバードは、汁気の多いパイを焼くときの必需品だ。内側の蒸気を逃がし、同時に生地を支えて形を保つ効果がある」
「おぉ、さすがは師匠!」
(なるほど……)
黄色いくちばしを上に向けた小鳥の喉には、小さな穴が開いている。
そこから蒸気を逃がす仕組みなのか。
「可愛いだけじゃなくて機能性も優れてるなんて。この小鳥ちゃん、なかなかやるわね」
白石さんがふふふと笑ってパイバードを指で弾く。
その肩越しに、亜嵐さんもパイを覗き込んだ――その瞬間。
「翠さん……これは……」
その顔色は、驚愕とも深い悲しみともつかない色に変わった。
「ええ、そうよ、亜嵐さん。大昔に――あなたのおばあ様から頂いたものよ」
「…………」
「もういいでしょう、亜嵐さん。また笑って、こんなふうに食卓を囲めるようになったんだもの。あのときだって誰も――もちろんあなたも、悪くなんてなかったのよ」
全てを許すような声は悲しげで、切なく胸に響く。
けれど――。
「……失礼します」
顔を背けた亜嵐さんは、勢いよく椅子を引くと、大股で店を横切っていった。
その姿が扉の向こうに消えるまで、誰も声を発することができなかった。
俺も白石さんも、何がどうなっているのか、まったくわからない。
さっきまで空気を満たしていた甘い湯気は、いつの間にか細く、頼りなくなっていた。
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