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本編

君は恋人だと思っていた相手に裏切られたんでしょ?

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 室内が無音のせいで、余計な事を考えてないと無駄口叩いてしまいそうだったから、ポットの有能さを脳内で褒め讃えながら、カップにお湯を注ぐ。ふんわりと珈琲の香ばしい香りが立ち上り、ちょっと幸せ気分になる。
 プラスティクの小さなスプーンでかき回せば、カップのひとつをソファに腰掛ける専務へと差し出す。おっと、砂糖とポーションも渡さなくては。

「ありがとう」

 女性社員が見たら卒倒しそうな蕩ける笑みでカップを受け取った専務は、私なんぞが淹れたインスタント珈琲を嬉しそうに口にする。
 よほど体が冷えて辛かったのだろうか。それなら、専務に先にお風呂入ってもらわなくては。上役が風邪とか洒落にならん。

「月宮君、そんな所で立って飲んでないで、こちらにおいで」
「いや、でも」

 そうなのだ。専務がソファに腰掛けてるから、必然的に私は立ったまま珈琲を飲んでいる。だって、会社の上から数えた方が早い人と並んで珈琲とか飲んじゃあかんでしょ!

 何度も固辞したら、すっと立ち上がった専務が私の手からカップを取り上げてしまい、意識がカップに向かったせいで、専務の手が私の肩に回され引き寄せられたままソファに倒れ込んでしまったのだ。それも専務の上に。

「わわっ! すみません!」
「大丈夫? どこかぶつけた所はない?」
「それは……はい」
「そう。それなら良かった」

 慌てて起き上がろうとしたら、ぐっと頭を引き寄せられ、すっぽりと専務の首筋に収まってしまう。雨のせいで薄まったハーブの香りが近くなる。更にほっと息つく専務の吐息が耳を掠め、ゾクリとした悪寒が体を震わせた。

 ヤバイ。マズイ。これアカンやつや。

 雨宿り目的の筈なのに、ラブホという非日常な雰囲気に流されそうになる。

「千賀専務……お願いですから、離してください」
「やだ」

 懇願したら「やだ」とか言われちゃったよ。というか、齢三十七の男が駄々っ子のように「やだ」って。

「駄目です、専務。こんな事がバレたら、会社の女子社員に苛められちゃいますから」

 私は安寧な社員生活を送りたいんです。下手に波風立てないでくださいよ。
 こっちは必死だというのに、専務は何か思案しているのか、視線を私に固定したまま口を開く。

「うーん。それなら、俺の専属秘書にしようか? それなら、常に俺が傍にいるから、そうそう困る事にはならないだろう?」
「は?」
「そうしよう。うん、ナイスアイデア」
「ちょ、ちょっと待って!」

 何なの! なんなの! もしかして、雨に濡れて熱でも出ちゃってるから、こんな能天気な提案しちゃってんの!? ちょっとやめてよぉ!
 というか、人事ってそんなに簡単に決めちゃったら駄目です! 困るの平の私達!

 でも、頬に触れる首筋は熱いとも感じない。至って平熱ぽい。接待だったと言ってたけど、これだけ近くにいてもアルコールの臭いなんてしない。ただただ香るのはハーブの優しい薫り。

「それはそうと」

 力強く抱き締められてるせいで、ジタバタ暴れても逃げ出せずにいると、やけに冷静な専務の声が言葉を紡ぐ。

「月宮君は、今はフリーなんだよね?」
「……はい?」
「君は恋人だと思っていた相手に裏切られたんでしょ?」
「……っ」

 まだ血が滲む心にザックリと塩を塗りたくる専務。ええ、ええ、フラレたばかりですが何か!?
 くっそう、自分が引く手あまただからって、失恋したばかりの部下の心を抉らなくてもいいじゃないですか!
 こっちだって好きで失恋した訳じゃないもん。悪いのあっちじゃないか!
 なんで、上司に傷口グリグリされないといけないんだよ。

 カッ、と怒りの塊が喉で詰まって言葉が出ない。それなのに拘束する腕は緩む事なく専務は艶然と微笑んでいる。

「離してください」
「……月宮君?」
「離してください、と言っているんです千賀専務。確かに恋人に二股されて裏切られました。正直、そんな男はこちらから願い下げです。だからと言って、すぐに新しい人に乗り換えられる程、心は簡単には出来ていないので、雨宿り目的でこの場に居る千賀務とどうこうなりたいとは思ってません。なので、お願いします離して、くださ……んっ」

 叫びたい程の怒りが湧き上がっているのに、心はひんやりと冷たくなっていた。
 それは凍りつく言葉となり専務へ口撃を浴びせるものの、最後の言葉は彼の唇によって塞がれ、一瞬で天地が反転していた。

「んうっ? ぅんんっ」

 話す為に開かれた口のあわいに、ぬるりと肉厚な何かが意思を持って侵入してくる。すぐにそれが専務の舌だというのには気づいた。
 絡んでこようとする舌先から咄嗟に逃げると、専務の舌は揶揄うように口蓋を擽り、舌小帯をねっとりと愛撫してくる。その下に唾液の溢れる場所があるせいか、専務のと自分の唾液がチュプチュプと淫音を奏でる。

「ふぁっ……せ、……む、ぅ」

 こんな場所が性感帯なんて知らなかった。丁寧に情欲を開くような官能的なキス。
 今、このホテルのどこかで自分以外の女性と交わってるだろう元恋人とするセックスは、荒々しく彼の欲だけを満たすようなもので、キスもお粗末だったなとぼんやりと思い出す。
 だからこそ、脳まで溶けそうな甘いキスを自然と受け入れてしまっていた。



 前戯と呼べそうな蕩けるようなキスに、次第に抵抗する力は抜け落ち、押し返す手は専務に縋るようにシャツを握り締めていた。

「……ん、はぁ……ぅんっ……あぁ」

 音楽も流れない静かな室内で、唾液で舌が泳ぐ音と、私の苦しさに喘ぐ吐息が響く。専務の手は私の髪を梳き、地肌を滑る心地よさに溜まっていた唾液をコクリと嚥下する。トロリと喉を通るそれは普通に考えれば汚い筈なのに、どうしてこうも甘く感じるのか。
 元恋人とも数え切れない位キスしたのに、こんな感覚に陥るのは初めてで、戸惑いしかなかった。

「離すつもりなんてないんだよ、月宮くん……いや、真唯」

 小鳥が啄むようなキスを唇音と共に仕掛けた専務は、低くドロリとした甘い声で囁く。

「君があのクズと別れる瞬間を今か今かと待っていたんだ。真唯が泣いたのは確かに胸が痛んだけど、同時にチャンスだと思った」
「ちゃんす……?」

 執拗なキスで酸欠状態なのか、喘ぐように私の口から出てくる言葉はたどたどしく、幼子のよう。だけど、恥ずかしさはほぼなくて、途中で止まってしまった事にお腹の奥がキュウっと疼く。

「そう。真唯と出会った時にはフリーだったのに、今の会社に入った時には既にアイツと付き合ってただろう? 幸せそうな真唯を泣かせたくなかったから静観してたけど、結局泣いちゃってるし」

 専務はそう言って、私のまなじりに纏わりついている涙を、そっと唇で吸い上げる。

 確かに元恋人と付き合い始めたのは、専務が会社に就任する少し前の話だ。

「こんな事なら、引き継ぎなんてあっさり放り出して真唯にアプローチすれば良かった」
「……へ?」

 思わず素っ頓狂な声を出してもおかしくないだろう。
 えーと、専務は元恋人と出会う前から私を知っていたって事? っていうか、あっさり引き継ぎ放り出さないでくださいよ。困るの後任の人なんですよ。
 その前に、なにげに私の名前を呼び捨てにしてますが。ああもう、どこに突っ込んだらいいのやら。

「多分、真唯は憶えてないと思うけど、三年位前に俺たち会ってるんだよね」

 実は、とどこか懐かしむような笑みを滲ませる専務の言葉に、状況も忘れ見上げるに留まる。美形はどんな表情しても美形だよなぁ。しかも色気ダダ漏れな専務を見るなんて初めてで、ドキドキと心臓が痛い位。

 専務曰く、私と初めて会ったのは三年前に行われた総合セミナーだったそうだ。
 言われてみれば、当時は仕事の糧になればと、会社が参加するセミナーに割と多く参加していた。会社が費用補助出してくれたし。
 出席した分だけ身にも心も成長できるのが楽しかった。

「あれは俺の前の会社主催のセミナーだったんだけど、突然刃物を持ったヤツが会場に押し入ったの、真唯は憶えてる?」
「……あ、はい」

 専務は私の頭を優しく撫でながら、そっと私の額に唇を落とす。

 あの日の事は私もしっかり憶えてる。
 騒然となる会場。目をギラギラと獣のように光らせた男の姿は無精ひげを生やし、ワイシャツも皺だらけで、見た目にもみすぼらしい容姿に、すぐに何か恨みを抱えた人なんだと気付く。
 その人は脇目も振らずまっすぐに壇上に居る人へと弾丸の速さで駆けてくる。それなのに、壇上の人はただただ男を見ているだけで、逃げようとかそういったアクションを起こさず、本当にまっすぐ男の動きだけを見つめていた。

 誰かが「危ない!」と叫んでたのが聞こえた。
 だけど声ばかりで誰も壇上の人を助ける為に動けなかった。同じく私もだけど。

 情けない話なんだけど、腰が抜けてしまってたのだ。へたりこんだ私へと、咆哮あげながら凶刃を持った男が駆けてくる。
 もし、あれが私に刺さったら? あんな猛然と駆け寄ってくる勢いの鋭い刃は容易く私の肉体に沈んでいく事だろう。脳裏に恐怖が映像となって浮かんだせいで、逃げるとかどうしようとか考えは真っ白になって、ギラリと照明に光る刃物だけを目に映していた。

 が。

 余程座り込む私を全く気づいてなかったのか、目標相手にしか目に入ってなかったのか分からないんだけど、奇襲者は私に足を取られ転んだのだ。それも面白い位盛大に。コントか。
 ちょっとオマヌケとか思ったものの、私以外誰も怪我する事なく犯人は警備員によって捕縛された後、警察に逮捕されたそうだ。

 ちなみに私は犯人の男に派手に蹴られたせいで、脇腹に大きな痣を作ったものの内臓には問題なく、しばらくは鈍痛で悶絶したけど湿布で何とか完治。
 たまーに雨が降ったりすると、えっちの時に鈍く痛む事はあるけどね。主に男性が好みそうな赤ちゃんのおむつ換えポーズとか、松葉崩しとか。
 ちょっとあの人変態プレイ好きだったのかも。別れて正解だったわ。

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