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 どの季節になってもそうだが、金曜日というのは人の心は多少なりとも浮き足立つらしい。
 電車から吐き出された人の波の中で、香月桔梗こうづきききょうは昨夜に自身を襲った出来事のせいで体のあちこちは痛みを訴え、寝不足で生欠伸が止まらない為、陰鬱な溜息が出てくる。押し出されるように改札を通り、駅ビルと共通に使われる表口から出ると、磨かれたウインドウに映る自分の姿が目に止まる。

 錆色さびいろの髪は少し長めで、毛先が緩やかに波打っている。瞳は室内では明るい茶色に見えるものの、光の加減鴬茶うぐいすちゃになる為か、時々外国の人間かと尋ねられる事もある。
 眉間に皺を寄せ、目には力もなく、寝不足で疲れて微熱が出ているのか、いつもより赤い唇が薄く開いている。細い顎は女性的で、正直体の華奢さと合わせて気に入らない。理由は簡単だ。今年二十六歳だというのに、私服でいると幼く見えるのか、頻繁に学生に間違われてしまうからだ。
 細い首に国から支給された黒のネックガードが襟元からちらりと覗く。

(……何度見ても違和感しかないな)

 目線だけを周囲に向ければ、時折桔梗と同じように首元を飾る者が人波の中で散見する。これは桔梗だけでなく、彼らにとっても命綱だ。
 たまにこんな体に生まれてしまった事に憤りを感じるも、今更どうしようもないと諦念の感情に包まれる。
 ないものを求めてもどうしようもない。桔梗は深々と溜息を漏らし、見えない足かせを付けられたかのような重い足取りで、会社へと向かうのだった。

 この世界には男女の性の他に三つの性が存在する。
 優秀で体格の良い、王者たるアルファ。
 世界の大半を占め、平凡とされるベータ。
 それから、男女関係なくアルファの子を孕む事ができ、かつては性奴隷のような扱いをされていたオメガ。
比率はベータ、アルファ、オメガで7:2:1だ。
 オメガの地位は二十年以上前に比べれば、はるかに向上したものの、やはりアルファやベータからすれば地を這う程に低い。
 とはいえ、アルファ、ベータ、オメガそれぞれに名家と呼ばれる家格が存在し、彼らが国を統べるのを桔梗は知っていた。

主要駅から徒歩十分。薄汚れた低階層ビルの一角に、朝でありながら疲れた顔をした会社員が吸い込まれていく。微かに振動するエレベーターを降りた途端、開放感と気鬱が同時に桔梗の体を包む。

 桔梗の勤めるY商事は中小企業としては社員数はそう多くはないものの、業務内容は多岐に渡っている。社員は大半がベータで、ついでアルファ、オメガはお飾り程度だった。
 新入研修の際、大手医療企業の下請けをしてるとの事で、どの部署も人不足も重なり多忙を極めているそうだ。実際のところ悋気な社長がギリギリの雇用数しか取らないのが一因のようだが。

 ざわり。

 ずるずると足を引きずり所属している営業部のオフィスに入った桔梗は思わず首を傾げる。休み前のどこかそわそわした空気ではなく、緊張が波紋のように広がっていく嫌な雰囲気を感じ、不思議に思いながらも自身のデスクへと向かう。

「……」

 綺麗に片付けられた机に視線を落とし、じっと見つめる。それから床を眺め何もない事を確認した桔梗は、周囲からの舐めるような視線を感じなにごとかと首を巡らす。すると視線はぱっと散るように消え、ただでさえ皺を刻む眉間が更に溝の影を強くした。

(……一体なんなんだ? まさか、昨日の事が誰かに目撃されて、朝から吹聴されてるオチはないよね)

 首を傾げながら、やけにギシギシ鳴く椅子へと腰掛けようとした所で、不意に動きが止まる。数回鼻をヒクつかせて不快な臭いを感じないのを確かめ腰を下ろす。座面からギシリと悲鳴が聞こえ、そろそろ交換時期かなと思案しつつ、始業がすぐに出来るようにとパソコンを立ち上げた。昨日やりたくても出来なかった見積もりを早急に作成して、他にも細々とした発注書の作成や雑務が沢山ある。
 会社はオメガであろうがアルファと同じ仕事量を当たり前のように投げてくる。本来なら営業事務というのが存在するが、この会社にはいても常に忙殺されてるために頼むのを躊躇われた。他の営業職の者たちもそうで、なんだかんだで時間を縫って事務作業までしているのだ。
 たまに親切な同僚たちが手伝ってくれる事もあるが、皆それぞれ仕事を抱えているため、甘えきるのは正直悪い気持ちになる。
 さりげなく持参した除菌シートで机やキーボードを拭いていると、廊下の方がやけに賑やかしい。一際、声の小波が大きくなった気がしたが、桔梗はソフトの入れ過ぎでまだ立ち上がらないパソコンに気を取られていたせいで、周囲の目が桔梗に集中しているのに気付かなかった。

「香月!」
「え?」

 桔梗の位置から机を挟んで立っていたのは、小太りの脂ぎった顔を真っ赤にした、桔梗が大学卒業後から現在まで働いている中小企業の会社社長である葛川くずかわを先頭に、社長の息子で桔梗の上司でもあるどこか社長に似た粘ついた笑みを浮かべる男が、青ざめた社長秘書を伴って姿を見せた。
 桔梗はねっとりと絡みつく上司の視線と目が合い、不快に整った顔を歪める。昨日の出来事が浮かんできそうで、吐き気すらこみ上げてくる。

「社長。如何されましたか?」

 吊しのビジネススーツではあるものの、スッキリと着こなした桔梗は、上司から社長へと視線を移して立ち上がる。何かされた・・・・・覚えはあるも、社長に激昂される程失態を犯したつもりはないからだ。

「如何だと? よくもまあ、ぬけぬけと言えたものだな!」

 憤怒で顔を赤黒く変色させた社長は、周囲のデスクや椅子を蹴飛ばす勢いでこちらへと近づいてくる。彼は一体、何故こうも桔梗に敵意むき出しにして怒り狂っているのか。仕事上ではなんら失態をおかした記憶がない。
 理由もわからず不思議な思いで眺めていると、太い指と手が大切に着ているスーツの胸元を掴み、あっと言う間もなく頬に強い衝撃が桔梗を襲う。
 女性社員の悲鳴とガタガタと椅子やファイルがなぎ倒される音がオフィス内に響き渡る。
 一瞬、自分に何が起こったのか把握できなかった桔梗は、リノリウムの床に倒れたまま、呆然と憤怒の社長を見上げる事しかできなかった。

「貴様! わしの息子に何をした!?」
「……なに、とは……」

 じんじんと痛みが広がる頬に手を当て、呆然とした言葉が零れる。
 何をされた、なら分かるものの、何をした、なんて記憶にない。社長が何を言っているのか、桔梗には全く心当たりがないのだ。

「意味が……分かりません……」

 ポツリ、と疑問を落とせば、貧弱な秘書に背後から抑えられている社長は、唾を飛ばしながら怒声を上げた。

「貴様は昨夜、わしの息子をオメガのフェロモンで誘惑しただろう! 結婚間近で婚約者がいるアルファの息子に、愛人になるから抱いてくれと誘ったそうじゃないか!」

 怒りからか全身を震わせ叫ぶ社長の叱責内容に、桔梗は「え?」と殴られた時に腫れたのか、脈動して痛みを訴える唇から疑問の声が漏れる。
 昨夜はどちらかといえば自分が被害者になりかけたのだ。
 誘惑などしていない。むしろ、自分は強姦されそうになったのだ、と訴えようと、口を開くも、

「仕方ないですよ、とうさ……いえ、社長。所詮オメガはアルファの寄生虫たる淫売なんですから」

 カツリ、と無駄に贅を凝らしたカッティングの靴を鳴らし、未だ怒り心頭の父親の肩に手を置いて桔梗の言葉を遮ったのは、件の息子で桔梗の上司である男だった。
 口元の片側だけをニヤリと歪め、男女の性別の他に第二の性と呼ばれる、性種内で最下層とも言われるオメガを蔑む言葉で、桔梗を貶める。

 淫売だと?
 まともに仕事もせず、パワハラとセクハラしか能のない奴がなにを……!
 激高し頭に血が昇った桔梗は立ち上がろうとするものの、殴られた衝撃で脳が揺れたのか目眩がして立ち上がることができない。

「ああ、本当にオメガはクズだな。だから国の政策とはいえ、オメガを受け入れなくてはならなかったのだが。こんな不愉快な事が起こるのなら、厚生省のブラックリストに載っても構わないから、オメガなんて入社させなければ良かったんだ!」

 社長は唾を周囲に撒き散らしながら、社員に向けて同意を求めるように言葉を放つ。元々アルファ至上主義の社長が採用する人口の八割を占めるベータは別にしても次に多いアルファ達は、桔梗に憐憫な眼差しを投げるものの、その内には卑下の色がちらつく。一部の女性アルファは、桔梗の顔が腫れていくさまを、心配そうにうかがっていたが。
 目の端では桔梗と同じ微々たる数のオメガが、巻き込まれないよう身を小さくして桔梗を咎めるようにこちらを見ていた。オメガとしては正しい対応だろう。雇用均等と叫ばれてはいるものの、世間はまだオメガに優しくはない。
 オメガというだけで父に捨てられた桔梗は身を持って知っていた。

「これ以上、我社にお前みたいなアルファを色仕掛けで誘うオメガなんぞいらん! 今すぐ荷物を持ってここから出て行け! 貴様はクビだ!」
「うっ!」
「「きゃあ!」」

 その叫びと同時に、青い物が桔梗へと投げつけられ、ガツンとこめかみに新たな痛みが走る。頬を殴られ物を投げられ、しまいにはオメガである事を侮辱された桔梗はゆらりと立ち上がり、首に通した社員証を机に叩きつけ通勤鞄を手にすると逃げるようにオフィスを飛び出していた。
 もうこんな場所に一秒たりともいたくない。
 そもそも私物はあの上司が着任してからというもの、ことごとく盗まれていたために持ち込まないようにしていたから、残っていたとしても勝手に処分してくれればいいものばかりだ。

 オメガというだけでいわれもない罪を被せられ、こちらの話も聞かずクビを宣告してくるとは。
 本当にアルファは自己勝手な連中ばかりだと、桔梗は唇をキツく噛んだ。

 無人に近い廊下を早足でエレベーターホールへ進めていると、「香月君っ」と涼やかな女性の声に呼び止められる。振り返った先には、桔梗が入社してからずっと教育係を務めてくれた先輩社員である紫村  しむらだった。

「紫村さん」
「大丈夫? 血が出てるわ」

 アルファであるからか、美貌なのは確かだがうなじでひとつに纏めた黒髪を持つ紫村は、どちらかといえば凛としていて気品のある人だ。何故、この小さな会社に勤めているかが疑問であるものの、彼女の口からは一度として答えはなかったと桔梗は思い浮かべる。

(そういえば間もなく寿退社するって噂で聞いたけど)

 ぼんやりと別の事を考えていた桔梗は指摘された場所に指を這わせると、ぬるりとした温かい感触を感じてそっと視界に収める。指先にはべっとりと赤い液体が絡み、鈍い光を放っていた。

「多分、ファイルの角で切ったかと」
「良かったらこれ使って」

 彼女はスーツのポケットから取り出したハンカチを桔梗へと差し出す。真っ白なハンカチは糊付けされたように皺ひとつなく、ほのかに甘い香りが鼻腔に届く。アルファのフェロモンだろうか。百合のような凛とした彼女に相応しい香り。

「いいえ、大丈夫ですから」

 感情の揺らぐ今、アルファのフェロモンに当てられる訳にはいかず、さりげなく受け取りを拒んだ桔梗は、申し訳ないと苦笑を浮かべる。彼女は自分と桔梗のオメガ性を思い出したのだろう。「ごめんなさい」と長い睫毛を伏せて、ハンカチをぎゅっと握り締めた。
 番のいない桔梗にとって、アルファの匂いは毒にも等しい。

「先輩、今までありがとうございました。オメガの俺にも嫌な顔もせず、教えてくださって、本当に嬉しかったです」

 基本オメガを営業担当にしない会社が一般的にも拘らず、このY商事は当たり前のようにオメガである桔梗をその場所に放り込んだ。たまたま桔梗の体質がこの仕事に就いても支障がなかったのは僥倖だったが。
 右も左も分からない桔梗を指導してくれたのが、この凛とした年上のアルファ女性だった。

「ううん。香月君はとても優秀だったもの。私も指導できて楽しかったわ」

 眦にうっすらと涙を浮かべ、アルファの彼女がオメガである自分との別れを惜しんでくれるのが嬉しい。

「優秀だなんて……」

 だが、今更持ち上げられても、と口にしそうになるも、ぐっと唇を噛み締めて飲み込む。紫村にあたっても仕方がない。オメガである以上、いつかこうなる事は、心のどこかでいつも感じていたのだから。
 それが、今日、この時になっただけの事だ。

 桔梗は先輩社員に見送られ、もう二度とくぐる事はないだろう出入り口から外へと出る。状況を理解できていない受付嬢達は、頬を腫らし始業早々退社する桔梗を、心配する中にも不可解さを滲ませていた。正直、説明する気力も削がれてしまった。
 自動ドアが開き外に出ると、もう暦の上では秋になるというのに、空気はねっとりと重く、微かに雨の匂いがした。
 のろりと遅出出勤の会社員達とは逆流して駅へと向かう。時折、不躾な視線を投げられるのは、頬の腫れとこめかみの傷のせいだろう。気になり出すと、どちらもズキズキ、ジクジクと痛みが酷くなる。

「昨日から踏んだり蹴ったりだ」

 俯きふらつく足元をぼんやり眺め、桔梗は呟く。

◇◆◇

 昨夜、飛び込みで新規契約を取ってから直帰の予定を覆して会社に戻ったのは、急ぎ契約書を作成しなくてはならなかったからだ。競争社会において契約は迅速に、が会社の方針であり、先方はそこまで急ぎでなくてもいいよ、と言ってくれた。しかし桔梗はオメガ性ではなく自身の力でもぎ取った契約を早々に締結させようと、残業になると分かっていてもオフィスに戻る事にしたのだ。

 夜も随分更け、誰も居ないと思っていたオフィスに、当たり前のように上司の葛川が桔梗の席に座っていた。それだけなら不快感はあっても黙殺できるが、彼のしていた行動を理解した途端、ゾワリと鳥肌が立ち吐き気がこみ上げた。
 上司は上半身を折って机に伏せ、盤面をベロベロと舐めながら自慰をしていた。はあはあと息を乱しながら桔梗の名を呟き、愛撫するように机を舐め、先走りで濡れたグロテスクな陰茎をゴシゴシと扱いて、うっとりとしている上司の姿に怖気が走り、入り口で身を強ばらせる。
 グチャグチャと濡れた音を立てて扱く早さを高めた上司は、桔梗の名を叫んで先端から吐き出した汚い液体を足元にボタボタと落とす。普段はコーヒーの匂いや紙の匂いに包まれた室内に、淫靡な青臭い精液のにおいが広がる。
 もしかして普段からこのような事をしていたのかもしれないという恐怖に、胃液がせり上がり喉を焼く。
 怖い。気持ち悪い。このまま帰りたい。
 嫌悪に生理的な涙を浮かべた桔梗が佇んでいるのに気づいたらしい上司が、達して荒い息のまま立ち上がり、震える桔梗へと近づく。

『おお、どうしたんだ。こんな時間に』

 スラックスの中心を寛がせたまま、ダラリと赤黒い陰茎を晒して上司が距離を縮める。普段は縁故採用でろくに仕事もできない上司で、セクハラにパワハラが常なイヤらしい双眸は、桔梗に対する情欲にけぶり、萎えた先端からは残滓の白濁が点々と床を汚す。

『どうして、俺の席に……』

 震える声で問いただせば、上司はニタリと笑みを深め、凍りついた桔梗の腕を掴む。

『愛しい番がなかなか帰らなくて寂しかったからさぁ。なあ、帰ってきたんなら、恋人のコレをお前の可愛い口で掃除してくれよ。そしたら、俺のコレでお前のやらしい尻穴を塞いでやるからさ』

 万力のような痛みに眉をしかめる桔梗の耳に、意味の分からない卑猥な言葉が次々とねじ込まれる。
 上司曰く。
 よく桔梗と目が合う。その時誘うような視線を寄越してきた、と。
 言葉の端々に色気を滲ませた声で話しかけてきた、と。
 自分の為に私物を与えてくれた、と。
 だから、自分達はアルファとオメガという『運命の番』の立場であるからして、両思いなら番になる事が当然だ、と。
 しかし、アルファ女性との結婚が決まっているから、立場は愛人となるが、心の底から愛しているのは桔梗だけだ、と。

(こんな不快極まりない男に運命なんて感じたことなんてない!)

 何を妄言を吐いているのだ、と桔梗は眉を歪め嫌悪を露わにする。自身がオメガだと診断されてからというもの色々不快な経験はあったが、こういった頭のネジが緩んだ男にアプローチされるのは初めてだ。

 気持ち悪い。こんな人間が居るのなら、もっと早く会社を変わるべきだった。

 本来であれば、比較的オメガの対応が緩い会社へ入社希望していたのだ。実際書類選考もいくつか通っていた。
 それなのに、オメガ枠で内定が決まったのはアルファ至上のこの会社。桔梗はここに履歴書を送った記憶はない。内定を取り消したかったものの、実家が名家であり成績優秀だった桔梗を、会社が離そうとしなかった。あわよくば実家の恩恵に与れたらと捕らぬ狸の皮算用をしていたようだ。
 何度も実家から離れている為、就職に関しては両親も知らないと申告したものの、社長も総務も聞く耳をもってくれなかった。
 のちに大学の事務のひとりが社長から賄賂を貰っていたことが発覚。改めて就職活動をするには遅く、就職浪人もできない環境のせいで、残された道はひとつしかなかった。
 事情により家を出て一人暮らしをしていた桔梗にとっては、日々残高が減っていく通帳が脳裏をよぎり、気が乗らないままでも仕事に関しては真面目に取り組んだ筈だった。
 オメガだからという理由で仕事ができないと思われたくなくて、目の前で汚物をぶら下げてニヤついてる上司でも、必死に頑張ってきた結果がコレとは。
 自分はことごとく不運に見舞われてるらしい、と桔梗は溜息をつき、請求書は明日の朝一番で処理しようと、踵を返したつもり──だった。

『おいおい、折角の逢瀬なんだ。お前も欲しいだろう、ん?』
『離してください!』

 手首を掴まれたかと思えば、上半身を机の上に縫い付けられ身動きが取れない。
 知能は別にしても身体能力についてはオメガに比べれば雲泥の差があるアルファに拘束されて、非力で華奢なオメガは安易に抜け出す事もできない。
 唯一の安心材料は桔梗の方が家格が上だったことだろう。上司が強制的にフェロモンで桔梗を発情ヒートを引き出そうとしても不可能だからだ。それを置いても、この状況は受け入れがたいものがある。

『ああ、いい匂いだなぁ。甘くて、楚々とした香りが、お前の名前の花みたいだ』

 首筋に寄せられた男の鼻がクンクンと鳴り、途端にゾワリと桔梗の全身に嫌悪の震えが走る。
 気持ち悪い。吐き気がする。
 桔梗は少しずつ開いていくシャツの隙間から入り込んでくる男の息の気持ち悪さに、渾身の力を足に込め、男の少しずつ頭をもたげる逸物へと膝蹴りを仕掛ける。
 ぐにゅり、と肉の潰れる感触に目を背けたかったけど、今はこの状況から逃げる事が先決だ。

『ぁっ、ぐぅ。き、きさま……!』

 かなりの衝撃を受けたらしい上司の男は、逸物に両手を添えて崩れるのを横目で確認し、気崩れた格好のままオフィスを飛び出したのだった。

 自宅に帰ってすぐにユニットバスで肌が赤くなる程全身の隅々まで洗い、膝にシミのついたスーツは、買ってまだ数回しか着ていなかったけども、クリーニングに出す気にもなれずにゴミ袋へと直行した。
 怒りと不快感で食事する気分にもなれなくて、早々にベッドへと潜り込んだものの、目を閉じれば起こったばかりの出来事が反芻されてしまい、寝不足のまま出勤すればクビを言い渡される始末。
 これを踏んだり蹴ったりと言わずして、何と言えばいいのだ。

「少し早いけどご飯食べて、帰って寝よう」

 ついでに駅にある薬局で消毒液とか買って、簡単に手当もしなくは。
 深い溜息が再び落ち、ふらつく足取りで駅へと向かったのだった。
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