君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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凄辰の薄月

3

 毎朝、紅龍の運転する車で送ってもらい、保育園近くで降ろしてくれる。

 『くれぐれも一人で行動するなよ』と口癖のように慧斗に言って、彼は撮影場所である今では許可がないと近寄ることもできない旧校舎へと、車を走らせるのを見送り保育園へ行く。
 峯浦がいなくなり、紅音は寂しがるかと慧斗は内心心配していたが、どうやら杞憂だった。
 子供の記憶は日々塗り替えられていく。
 すぐに仲の良い友達と元気に遊び、時には紅龍の撮影を見学したり、慧斗が遅くなる時などはふたりで玲司の店で食事をしているようだ。
 おかげで紅音の舌が肥えつつある。あまり贅沢を覚えてしまって、元の生活に戻ってしまったら、紅音は納得できるのだろうかと心配になってしまう。
 一度紅龍に苦言を呈したことがある。
 あまり紅音を甘やかしすぎないで、と。紅龍が本国に帰って誰かと婚姻することになったら、紅龍に懐いていた紅音が絶対悲しむ、と。
 慧斗自身は紅龍の事も紅音の事も考えての発言だった。
 それなのに紅龍は慧斗の言葉に眉と目を逆立てて憤怒の空気を漂わせた。アルファの威嚇だった。

『俺は紅音に気軽な気持ちで父親だと告げた訳じゃない。それに番契約までした慧斗をこのままにしておくつもりもない。そもそも弐本に来たのも、慧斗を迎えに来たのもあったんだ』

 迎えに、という言葉に一瞬心臓が高鳴った。赤い瞳がまっすぐに慧斗を射抜くように見つめ、彼の言葉に偽りがないと分かる。
 だけど、紅龍は話してくれないが、彼は本国でもかなり上位のアルファなのだろう。そんな男の番が自分のような何の後ろ盾のない人間でいいのだろうかと戸惑う。
 もしかして、番にしてしまった責任?
 それなら自分と紅音を放っておいてくれたらいいのに。
 やっぱり自分の血を継いだ紅音は別だから?

「おかーさん?」
「っ!」

 小さな力で手を引かれ、慧斗は思考の海深く潜っていたのを現実に一瞬にして戻す。

「紅音」
「ぼんやりしてたらだめなんだよ。おかーさんかわいーから、わるいひとにさらわれちゃう」

 紅龍と同じ赤い瞳が凛々しく目尻を上げて慧斗を窘める。慧斗の小さな騎士は、ことあるごとに自分を「かわいー」と称する。子どもの欲目なのだろう。

「ごめんね、紅音」
「もう、ほんとーにだいじょーぶ? おかーさんげんきないと、ぼくかなしいんだよ。おかーさんにはいつもにこにこしてほしいもん」

 にぱ、と満面の笑みで話す紅音を、慧斗は目線の高さになるようしゃがみ込むと、その小さな体をぎゅっと抱きしめる。
 もし紅龍の目的が紅音だったとしたら、慧斗は紅龍の前から逃げるだろう。どこか彼の手の及ばない場所まで逃げて、誰にも干渉されずふたりで生きていけばいい。
 今はまだ突発的な発情期しか訪れていないが、これから先必ず番不在による狂ったようなヒートが戻ってくる。それでも紅音のために体に鞭を打っても生きるしかない。

「ごめんね。紅音に心配かけて……ごめん」
「おかーさん、ないちゃだめだよ」
「大丈夫、紅音が優しい子だから、嬉しくて涙が出ただけだから」

 だけど、紅龍が真実を告げるまではこの幻の家族を続けていきたいと思っているのも、慧斗の本当の気持ちだった。

「お詫びに、今日は紅龍に内緒で、美味しい物食べようっか」
「それじゃあ、いつもよりおむかえはやいの?」
「うん、あとで先生に今日はお仕事の都合で早く迎えに行きますって言っておくね」

 そう紅音の円い頭を撫でて告げると、愛おしい息子はきゃあとはしゃぐ声をあげて、慧斗に抱きついた。


 元気に登園した紅音を迎えた峯浦の後任になった保育士に、いつもより一時間ほど早く迎えに行くと告げ、ぶんぶん手を振る紅音に見送られ職場に向かった。

 山の形状を利用した学園は、今は紅葉の見頃だ。
 目の覚めるような朱に空の青に映える黄色。夏の名残を塗り替えるようなグラデーションに、慧斗は教授棟に向かう短い時間を目で楽しんでいる。
 大学部にある図書館まで続く道には、短いながらも立派な銀杏の木が両側に植えてあり、それは銀杏が鈴なりに実っていた。
 また山の中には食用になるヤマボウシやマタタビなどが自生していて、たまに職員が摘んではお酒に漬けると話しているのを聞く。この学園は外から入る者には厳しいが、内側で働く人間についてはかなり寛容な職場だ。
 前に紅音と木苺を見つけて摘んで、玲司にレアチーズケーキのソースにしてもらったことがあった。
 滑らかなチーズケーキに甘酸っぱい木苺ソースは、普通の店では食べられない程の贅沢品だったのは言うまでもない。その旨さに虜になった紅音が、木苺の季節になると慧斗に摘みに行こうと強請るようになったほど。
 その時の光景を思い出し、さっきまでの憂鬱な気持ちもすっかり消えてしまった。
 これ以上紅音に心配させるような思いをさせてはいけない。
 下手に生真面目すぎる自分の性格も考えものだな、と教授棟の入口に差し掛かった頃、入口にひとりの女性が立っているのに気づいた。

(今頃レポートの提出にでも来たのだろうか)

 そんな考えになったのも、女性の腕には茶色い封筒が抱えられていたからだ。
 教授棟には職員用のカードか、大学院の生徒のカード、または学園が許可し発行したカードでないと入ることができない。
 以前峯浦にアルファの威圧で襲われた時、玲司や桔梗が教授棟に入ることができたのは、秋槻理事が発行した特別なカードだったからだ。
 だから一般学生が屋内にいる教授と会いたい時は、入口にあるインターフォンで警備の人と連絡を取り、警備から各教授に伝わるといった遠まわしな方法が取られている。
 というのも、秋槻学園の教授はそれぞれ著名な人物が多く、保管している資料なども価値が高いとされているため、厳重な対処となっていた。

「あの……どこのゼミの生徒さんですか?」

 ゼミの生徒であれば、こんな朝早くに来ることはたまにあるので、慧斗は思わず女性に声をかける。ただ、目的の教授が出勤していなければ無駄足になってしまうけども。

「えっと、白糸教授の秘書さんにお渡しするよう頼まれまして……」
「俺に?」

 もごもご口の中で話しているせいか聞き取れない部分もあったが、白糸教授の秘書は現在ひとり……つまり慧斗しか当てはまる人物はおらず、首を傾げながらも女性との距離を縮めた。
 平均的な体躯に栗色の髪と、綺麗にメイクされた女性は、きっとベータだろう。この秋槻学園ではアルファやオメガの生徒数が多いことから、ベータの生徒といえば優秀だと認められている。
 彼女は何やらブツブツ言ったあと、意を決したように顔を上げると「これっ」と茶色の封筒を慧斗の胸に押し付けて、逃げるように去っていった。
 まるで嵐のような出来事に慧斗は封筒をかかえたまま呆けていたが、硬い感触を手の中に感じて封筒を矯めつ眇めつしてみる。
 二重封筒なのか、陽に透かしてもよく分からない。おぼろげに四角いものが浮かび上がっている程度だ。表を見ても裏を見ても、誰が慧斗に送ったのか分からない。
 怪訝に思いながらも女性が慧斗に渡すまで抱えていたことから、そこまでの危険はないだろうと、封筒を開けてみる。二重封筒の中に一回り小さい封筒があり、やけに厳重だなと感じつつも中の封筒を改めた。
 中に入っている物をみた瞬間、よくぞ悲鳴をあげなかったと自分を褒めたくなった。

「ど……して」

 震える手を封筒の中に入れ、恐る恐る引き出したそれは、今のマンションに引っ越してから見ることのなかったあの隠し撮りの写真だった。それも紅音の細い首に赤いマーカーが横に雑に塗られ、それは紅音の首を切るぞと言わんばかりの悪意を感じた。
 なぜ紅音が。人に悪意を向けられるほどあの子が何をしたというのか。
 前はただの隠し撮りの写真だった。それが引越しをし、平穏な時間を過ごしていたせいで、すっかり事件の事を忘れてしまっていた。それほど紅龍と紅音の三人の生活は穏やかだったから。
 それが以前よりも過激になって慧斗の目に映るとは……想像もしていなかった。

「どう……して、くおんが……」

 慧斗の膝はガクガクと震え、今にも倒れそうになる。
 ガンガンと頭が痛く、吐き気が止まらない。
 落ち着け、と呪文のように自分に何度も言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。秋の冷えた空気を肺に取り込めば、頭もゆっくりと落ち着きを戻していく。
 考えよう。誰が、どうして、こんな物を自分に渡してきたのか。

「まさか、さっきの女生徒がこれまでの犯人だった?」

 いや、そうじゃないとすぐに自分の疑問を否定する。彼女は慧斗のことを知らない様子だった。慧斗が白糸教授の秘書をしているのを知っているのはゼミの生徒位なものだ。それなら、彼女のことを慧斗が知らないのはおかしい。
 つまりは、彼女は慧斗に渡すよう誰かに頼まれたと思うのが妥当だ。そう確信したのは、慧斗に封筒を渡した時の女生徒の表情が、何かに怯えていたように感じたからである。

 慧斗は逃げた女生徒を追うか、戻って紅音の安全を確認したほうがいいか迷う。
 見たことがないということは、少なくとも白糸の講義に出たことがないか、あっても基礎講座だけの可能性もある。
 多分事務局に行けば何かしらの情報を得ることはできるだろう。大学部のベータの在籍数はそう多くはない。そこから白糸の受講者を差し引けば、慧斗でもピックアップできるだろう。

「それなら、先に紅音の無事を確認したほうがいいか」

 呟き、一度通った道を引き戻そうとした慧斗の耳に、手の中の封筒から耳障りな電子音が響いている。それは明らかに携帯電話の音だと分かったが、取るべきか逡巡する。
 このタイミングで掛けてくるということは、これまで慧斗の生活を脅かし、あの家を傷つけた人間であると脳が直結する。

 一瞬、脳裏に紅龍の姿が浮かんだ。
 彼に相談すれば、この不安に覆われた心も晴れるのに時間は掛からないだろう。
 だけど紅龍は仕事でこの場にいる。遅延はないとは聞いているが、個人的理由で彼の邪魔をするのは気が引けた。
 慧斗は何度も自分の鞄と封筒に視線を往復させる。そうして、彼の手は自分の鞄にではなく、封筒へと伸ばされた。
 掌の中で存在を主張する小さな端末はまるで警告音のようだと感じながら、慧斗は通話アイコンをタップして耳に当てると、もしもしと声が震えないように意識して静かに告げた。
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