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悪意の彼岸:後編
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実の親に見られながらがいいか、ふたりきりでするの、どっちがいい?
教師はニタリと唇を歪めて憂璃に微笑む。
どちらも嫌だ、と睨みつけて拒否すれば、教師は笑みを貼り付けたまま手を振り上げ、憂璃の白い頬を力いっぱい平手で打つ。
「やっぱりあの男が囲ってるだけある。生意気で憎らしいよ」
アルファの高い身体能力はたかが頬を張るだけとはいえ、虚弱なオメガにとっては体が吹き飛ぶほどの勢いだ。
なおかつ側頭部まで叩かれ、脳が揺らされたのか頭がグラグラとし景色が歪んで見える。もしかして、軽い脳震盪を起こしているのかもしれない。
それよりも頬も痛いよりも熱くて辛い。
このような理不尽な暴力を受けたのは初めてで、体が恐怖に竦んでしまった。
憂璃の母は育児放棄という見えない虐待はいていたものの、実際に手をあげることはなかった。その後引き取られた椿にも壱岐にも玉之浦本家でも、誰ひとりとして憂璃を傷つける者はいなかった。
唯一が茶咲真矢で、あれも意識してというより逃げるために咄嗟に憂璃を投げてしまったと言ったほうがいいだろう。
だから明確な意図をもって振るわれた暴力を前に、憂璃の歯の根は噛み合わずカチカチと震える。こんな時になって初めて自分がこれまで置かれた場所はとても優しいところだったと知った。
「さて、まずは風呂が先かな。さっきから君の体から椿のフェロモンが臭って吐き気がする」
「え……」
「おや、知らなかったのかな。前は君のフェロモンしか感じなかったのに、三年になって登校して気づいたよ。君から椿の匂いがするようになったからね」
「……」
「春休みの間に椿と寝たのかな? まだプロテクターをしているし憂璃のフェロモンの匂いもするから、番ってないとは思うけども」
にしては内側から香るなんて面白いね、と教師が話すのを、わけが分からずに混乱するばかりだ。
憂璃は椿が好きだ。それは生涯、誰かに買われようとも変えることがない本心だ。
初めてのヒートがきてから半年。毎夜椿のベッドで寝起きして匂いに包まれていた。
だから表面上に匂いが移ることはあるかもしれないが、教師は内側と言った。
これは一体どういうことなのだろうか……
「まあどちらでもいいか。アレの匂いをまとったままの憂璃を犯したほうが、ヤツの絶望もより大きくなるかもしれないしね」
クツクツと嗤う教師は、もう人を教え導く存在ではなく、ただただ復讐の昏い炎に取り憑かれた妄執のアルファと化していた。
「やっ……やだっ」
「……おとなしくしていないと、今度は頬を叩くだけではすまないよ?」
「っ、」
教師は憂璃を軽々と抱き上げ、迷うことなく家具の陰に隠れていた扉に手をかける。開かれた隙間から教師のフェロモンが濃厚にあふれ出し、胃の中が吐き気で攪拌される。
気持ち悪い。どうしてこんなにも──椿以外の匂いに嫌悪するのだろう。
嘔気と戦う憂璃の体調に気遣うことなく教師は慣れた足取りで両側に扉がある廊下を歩く。
「ここはね、かつてはわたしの住んでいたマンションなんだよ。資金繰りで苦しくなった茶咲からわたしが買って、このフロア全部を改築したんだ」
「……」
「これでもう、茶咲にも誰にも母との思い出を汚されることはない。それに、あんなオメガを抱いたベッドで憂璃を抱くのも忍びないしね」
ワンルームだと思っていたのに、不思議な構造をしていると涙目で周囲を伺っていると、教師がおもむろにノブのひとつに手を伸ばし、扉を開いた。そこはワンルームの雑然とした場所と比べると人の気配がある寝室だった。
白い壁と床にキングサイズのベッド。ベージュのラグが敷かれ、紺色のファブリックとアジアンテイストなローチェストと照明が不安定なコントラストを築く。そして──
「百合の……匂い」
「ああ、そうだよ。君の……憂璃の匂いと同じだ」
至るところに花瓶が置かれ、そこには鉄砲百合にカサブランカ、ヤマユリにササユリ、オニユリ、むせ返るほどの芳香をまき散らしながら、部屋を埋め尽くしていた。
百合の香りに包まれながら憂璃は教師の椿に対する妄執を知り寒気で震えが走る。
同時に本気で憂璃を傷つけようとしているのが分かり、教師がこれからの行動をつぶさに観察していないと、本気で椿と今生の別れになると本能が告げていた。
「本当に君はいい香りがする。まるで母の匂いに包まれているかのようだ」
「……ひっ」
憂璃の痩躯をベッドにおろし、教師はうっとりと憂璃の首筋に顔をうずめ、濡れた舌で味わうように舐め上げる。気持ち悪さに喉が引き攣れたものの、教師は首をしゃぶりながらも右手を憂璃の背中から臀部のくぼみ、そしてあわいに隠れる蕾へとズボン越しに指を押し込んだ。
「ぃ……た」
グリグリと布ごと指が侵入しようとする。だが、敏感な蕾は痛みを訴えるだけで濡れるようすもない。
いくらオメガであろうと、このように恐怖に支配された状態では発情どころか、萎縮しかできない。
「ふう、やっぱりアレを使うしかないか……」
教師は溜息をこぼし、憂璃から離れていく。ギシリとスプリングが軋むなか、これから何が起ころうか予想ができるだけに、心臓が壊れそうなほど高鳴った。
ベッドの引き出しを開けなにやらゴソゴソと探す教師は憂璃に背を向けている。
隙を狙えば逃げれるかもしれない。だけど先ほど頬を叩かれた時の衝撃が残っている体は、恐怖に震えるだけで動けない。
逃げたい。でも、足がすくんでしまって、追いつかれたら今度はどうなるか分からない。
憂璃は心の中で椿の名を叫び続ける。自分にとって何もかもを捧げたい唯一の男の名を。
「あぁ……ありました」
喜悦の浮かぶ声が聞こえ、教師が振り返る。その手に銀色の小さな箱が握られていた。
お弁当にしては小さい、サイズにすれば文庫本サイズのなんの変哲もない箱は鈍く光を放ち、震える憂璃の姿を歪めて映している。
今にも泣き出しそうな怯えた自分の顔が──
「お待たせしました。これから倫理も概念もなにもかもを飛ばして、ただただ快楽に堕ちるキモチイイお注射をしましょうね」
「っ!」
「大丈夫ですよ。痛いのは一瞬だけです。効果が出るまでぐっすりお休みなさい」
話しながら淡々と準備を進める教師に、彼がコレを使用したのは初めてではないと察する。
いやだ、と体を右に左にとひねって抵抗する。足もジタバタと動かすけども。
「こら、暴れたら体の中に針が折れてしまうよ」
口調は穏やかに嗜めてくるものの、その双眸は怒りに眇められ、これ以上激しい抵抗をすれば彼は本気で注射針を憂璃の体内に残すつもりだ。それに両手を後ろで拘束されてるため、這いずって距離を取ることもできない。
だけど怪しい物を打たれるのも嫌だ。
おそらく発情誘発剤の類だとは思うものの、あれは量を間違えれば心臓すら止めてしまう劇薬でもあった。
故に通常医者が処方する誘発剤は調整のきく錠剤が多く、液体の物は効果が早くでるも心臓に負担がかかってしまい、最悪心停止の危険があるため通常では販売が禁止されているものだ。
(きっと、違法な方法で入手したのだろう)
まかり間違っても彼は茶咲組の子供だ。それに春の街出身でもある。
春の街でも薬は御法度ではあったが、陰ではファッショントラッグとして使っているのを、住んでいた憂璃は知っていた。
高級娼館では絶対に使用していなかった──使用してもお香などの比較的軽い効果があるものを使っていたそうだ──誘発剤は、ランクの低い店になればなるほど:春街総見(しゅんがいそうけん)時、緊張で固くなった初物が客を落胆させないように使用したりする。それも粗悪品を。
一般的に病院で処方される誘発剤は脳神経に作用し発情を促す。
しかし粗悪品は元の誘発剤に合法麻薬……果ては違法薬物で嵩増しし、ヘタをすれば脳だけでなく精神を壊す。
春の街を管理している玉之浦も桐龍も撲滅に四方八方しているようだが、見つけては新しい薬が生まれるというイタチごっこを繰り返していた。
小さい時に禿から入り、袖振新造を経て、呼び出しや昼三、付廻しとなり、頂点に立つのが花魁と呼ばれる高級娼婦となる。
その間にかかる教育費は目が飛び出る金額になるという。その金額も借金となるが、年季が明ければ彼らには教養という武器を手にして自由を得る。
反して程度の低い店は教育もせず入ったら売りに出すため、店の花たちはすぐに入れ替わる。客にとっては目新しいと楽しめるが、当の本人にすれば生きているだけで幸運という運ゲーム。
憂璃は春の街の明暗を眺め育った。
いつかは自分もその運命の輪に入るのだろうという諦念の眼差しで。
(少しだけ夢を見る時間が短くなっただけだ。好きな人に大事にされ愛されるという、優しい夢。椿さんが自分を誰かに売ったら、自分の命を握るのは主人となる人物。煮ろうが焼こうが壊れようが誰も止められない。……所有権のなくなった椿さんさえも)
「さぁ、お注射したら、わたしとセックスをしようね。お薬が効いてヤると、とってもキモチガイイよ。楽しみだねぇ」
うっとりとした教師の言葉に憂璃は抵抗して入れていた力を抜く。
どうせオメガはアルファの力にかなわない。どうせ……どうせ……オメガはアルファに蹂躙されてゴミのように捨てられる存在なのだ。
腕にツプリと皮膚を破って異物が侵入してくる。そして筋肉を割って液体が打たれた場所から広がっていく感覚に吐き気がしてくる。
(イヤダ……椿サン……)
かわいいと愛でながら、その実オメガを下に見て、ヒートに煽られたという建前でアルファはオメガをいいように胎内を犯す。
かわいそうと言いながら、オメガとの性交を予想して舌なめずりするベータにも辟易する。
(タスケテ……助けて……椿さん!)
オメガは優秀なアルファに見初められたいがために、つねに足の引っ張り合いをする。挫折した:オメガ(仲間)をかわいそうと言いながら踏み台にして、自分だけが極楽へ行こうとする盗人のような我欲で。
「椿さ……たすけ……て」
「またアイツの名を呼ぶのですか。困った生徒ですね、あなたは。ほら、お休みなさい。次に目が覚めた時には、あなたを天国へと連れて行ってあげますよ……っ!?」
教師はそれまでニタリと哂っていたのに、突然大きく目を見開き口を淡く開けたまま呆けた顔となる。
「憂璃に手を出すのは許さない」
かつて毎日聞いていた声が遠くから聞こえる。
教師はゆっくりと後ろに首を巡らせると「き……さまぁ」と怨嗟の声を絞り出し、そしてゴボッと血反吐をはいて崩れていく。
その向こうに揺らめいて見えるのは裸のまま血に染まった両手にナイフを握り締め微笑む憂璃の母の姿が。
「ごめん。もっと早く助けたかったんだけど……。でも、間一髪で実の親子が間違った道に進むのを止められたね……」
水の中で聞こえる音。大きくなったり小さくなったりする。
とても大事な話なのに。ちゃんとしっかりと聞かないといけないのに。
だけど……眼蓋がすごく……重い。
幸せになって、ボクの可愛い憂璃。こちらにきちゃダメだからね。
ユラユラと眠気に落ちていく合間に、願いを込めた母の声を聞いたような気がした──
教師はニタリと唇を歪めて憂璃に微笑む。
どちらも嫌だ、と睨みつけて拒否すれば、教師は笑みを貼り付けたまま手を振り上げ、憂璃の白い頬を力いっぱい平手で打つ。
「やっぱりあの男が囲ってるだけある。生意気で憎らしいよ」
アルファの高い身体能力はたかが頬を張るだけとはいえ、虚弱なオメガにとっては体が吹き飛ぶほどの勢いだ。
なおかつ側頭部まで叩かれ、脳が揺らされたのか頭がグラグラとし景色が歪んで見える。もしかして、軽い脳震盪を起こしているのかもしれない。
それよりも頬も痛いよりも熱くて辛い。
このような理不尽な暴力を受けたのは初めてで、体が恐怖に竦んでしまった。
憂璃の母は育児放棄という見えない虐待はいていたものの、実際に手をあげることはなかった。その後引き取られた椿にも壱岐にも玉之浦本家でも、誰ひとりとして憂璃を傷つける者はいなかった。
唯一が茶咲真矢で、あれも意識してというより逃げるために咄嗟に憂璃を投げてしまったと言ったほうがいいだろう。
だから明確な意図をもって振るわれた暴力を前に、憂璃の歯の根は噛み合わずカチカチと震える。こんな時になって初めて自分がこれまで置かれた場所はとても優しいところだったと知った。
「さて、まずは風呂が先かな。さっきから君の体から椿のフェロモンが臭って吐き気がする」
「え……」
「おや、知らなかったのかな。前は君のフェロモンしか感じなかったのに、三年になって登校して気づいたよ。君から椿の匂いがするようになったからね」
「……」
「春休みの間に椿と寝たのかな? まだプロテクターをしているし憂璃のフェロモンの匂いもするから、番ってないとは思うけども」
にしては内側から香るなんて面白いね、と教師が話すのを、わけが分からずに混乱するばかりだ。
憂璃は椿が好きだ。それは生涯、誰かに買われようとも変えることがない本心だ。
初めてのヒートがきてから半年。毎夜椿のベッドで寝起きして匂いに包まれていた。
だから表面上に匂いが移ることはあるかもしれないが、教師は内側と言った。
これは一体どういうことなのだろうか……
「まあどちらでもいいか。アレの匂いをまとったままの憂璃を犯したほうが、ヤツの絶望もより大きくなるかもしれないしね」
クツクツと嗤う教師は、もう人を教え導く存在ではなく、ただただ復讐の昏い炎に取り憑かれた妄執のアルファと化していた。
「やっ……やだっ」
「……おとなしくしていないと、今度は頬を叩くだけではすまないよ?」
「っ、」
教師は憂璃を軽々と抱き上げ、迷うことなく家具の陰に隠れていた扉に手をかける。開かれた隙間から教師のフェロモンが濃厚にあふれ出し、胃の中が吐き気で攪拌される。
気持ち悪い。どうしてこんなにも──椿以外の匂いに嫌悪するのだろう。
嘔気と戦う憂璃の体調に気遣うことなく教師は慣れた足取りで両側に扉がある廊下を歩く。
「ここはね、かつてはわたしの住んでいたマンションなんだよ。資金繰りで苦しくなった茶咲からわたしが買って、このフロア全部を改築したんだ」
「……」
「これでもう、茶咲にも誰にも母との思い出を汚されることはない。それに、あんなオメガを抱いたベッドで憂璃を抱くのも忍びないしね」
ワンルームだと思っていたのに、不思議な構造をしていると涙目で周囲を伺っていると、教師がおもむろにノブのひとつに手を伸ばし、扉を開いた。そこはワンルームの雑然とした場所と比べると人の気配がある寝室だった。
白い壁と床にキングサイズのベッド。ベージュのラグが敷かれ、紺色のファブリックとアジアンテイストなローチェストと照明が不安定なコントラストを築く。そして──
「百合の……匂い」
「ああ、そうだよ。君の……憂璃の匂いと同じだ」
至るところに花瓶が置かれ、そこには鉄砲百合にカサブランカ、ヤマユリにササユリ、オニユリ、むせ返るほどの芳香をまき散らしながら、部屋を埋め尽くしていた。
百合の香りに包まれながら憂璃は教師の椿に対する妄執を知り寒気で震えが走る。
同時に本気で憂璃を傷つけようとしているのが分かり、教師がこれからの行動をつぶさに観察していないと、本気で椿と今生の別れになると本能が告げていた。
「本当に君はいい香りがする。まるで母の匂いに包まれているかのようだ」
「……ひっ」
憂璃の痩躯をベッドにおろし、教師はうっとりと憂璃の首筋に顔をうずめ、濡れた舌で味わうように舐め上げる。気持ち悪さに喉が引き攣れたものの、教師は首をしゃぶりながらも右手を憂璃の背中から臀部のくぼみ、そしてあわいに隠れる蕾へとズボン越しに指を押し込んだ。
「ぃ……た」
グリグリと布ごと指が侵入しようとする。だが、敏感な蕾は痛みを訴えるだけで濡れるようすもない。
いくらオメガであろうと、このように恐怖に支配された状態では発情どころか、萎縮しかできない。
「ふう、やっぱりアレを使うしかないか……」
教師は溜息をこぼし、憂璃から離れていく。ギシリとスプリングが軋むなか、これから何が起ころうか予想ができるだけに、心臓が壊れそうなほど高鳴った。
ベッドの引き出しを開けなにやらゴソゴソと探す教師は憂璃に背を向けている。
隙を狙えば逃げれるかもしれない。だけど先ほど頬を叩かれた時の衝撃が残っている体は、恐怖に震えるだけで動けない。
逃げたい。でも、足がすくんでしまって、追いつかれたら今度はどうなるか分からない。
憂璃は心の中で椿の名を叫び続ける。自分にとって何もかもを捧げたい唯一の男の名を。
「あぁ……ありました」
喜悦の浮かぶ声が聞こえ、教師が振り返る。その手に銀色の小さな箱が握られていた。
お弁当にしては小さい、サイズにすれば文庫本サイズのなんの変哲もない箱は鈍く光を放ち、震える憂璃の姿を歪めて映している。
今にも泣き出しそうな怯えた自分の顔が──
「お待たせしました。これから倫理も概念もなにもかもを飛ばして、ただただ快楽に堕ちるキモチイイお注射をしましょうね」
「っ!」
「大丈夫ですよ。痛いのは一瞬だけです。効果が出るまでぐっすりお休みなさい」
話しながら淡々と準備を進める教師に、彼がコレを使用したのは初めてではないと察する。
いやだ、と体を右に左にとひねって抵抗する。足もジタバタと動かすけども。
「こら、暴れたら体の中に針が折れてしまうよ」
口調は穏やかに嗜めてくるものの、その双眸は怒りに眇められ、これ以上激しい抵抗をすれば彼は本気で注射針を憂璃の体内に残すつもりだ。それに両手を後ろで拘束されてるため、這いずって距離を取ることもできない。
だけど怪しい物を打たれるのも嫌だ。
おそらく発情誘発剤の類だとは思うものの、あれは量を間違えれば心臓すら止めてしまう劇薬でもあった。
故に通常医者が処方する誘発剤は調整のきく錠剤が多く、液体の物は効果が早くでるも心臓に負担がかかってしまい、最悪心停止の危険があるため通常では販売が禁止されているものだ。
(きっと、違法な方法で入手したのだろう)
まかり間違っても彼は茶咲組の子供だ。それに春の街出身でもある。
春の街でも薬は御法度ではあったが、陰ではファッショントラッグとして使っているのを、住んでいた憂璃は知っていた。
高級娼館では絶対に使用していなかった──使用してもお香などの比較的軽い効果があるものを使っていたそうだ──誘発剤は、ランクの低い店になればなるほど:春街総見(しゅんがいそうけん)時、緊張で固くなった初物が客を落胆させないように使用したりする。それも粗悪品を。
一般的に病院で処方される誘発剤は脳神経に作用し発情を促す。
しかし粗悪品は元の誘発剤に合法麻薬……果ては違法薬物で嵩増しし、ヘタをすれば脳だけでなく精神を壊す。
春の街を管理している玉之浦も桐龍も撲滅に四方八方しているようだが、見つけては新しい薬が生まれるというイタチごっこを繰り返していた。
小さい時に禿から入り、袖振新造を経て、呼び出しや昼三、付廻しとなり、頂点に立つのが花魁と呼ばれる高級娼婦となる。
その間にかかる教育費は目が飛び出る金額になるという。その金額も借金となるが、年季が明ければ彼らには教養という武器を手にして自由を得る。
反して程度の低い店は教育もせず入ったら売りに出すため、店の花たちはすぐに入れ替わる。客にとっては目新しいと楽しめるが、当の本人にすれば生きているだけで幸運という運ゲーム。
憂璃は春の街の明暗を眺め育った。
いつかは自分もその運命の輪に入るのだろうという諦念の眼差しで。
(少しだけ夢を見る時間が短くなっただけだ。好きな人に大事にされ愛されるという、優しい夢。椿さんが自分を誰かに売ったら、自分の命を握るのは主人となる人物。煮ろうが焼こうが壊れようが誰も止められない。……所有権のなくなった椿さんさえも)
「さぁ、お注射したら、わたしとセックスをしようね。お薬が効いてヤると、とってもキモチガイイよ。楽しみだねぇ」
うっとりとした教師の言葉に憂璃は抵抗して入れていた力を抜く。
どうせオメガはアルファの力にかなわない。どうせ……どうせ……オメガはアルファに蹂躙されてゴミのように捨てられる存在なのだ。
腕にツプリと皮膚を破って異物が侵入してくる。そして筋肉を割って液体が打たれた場所から広がっていく感覚に吐き気がしてくる。
(イヤダ……椿サン……)
かわいいと愛でながら、その実オメガを下に見て、ヒートに煽られたという建前でアルファはオメガをいいように胎内を犯す。
かわいそうと言いながら、オメガとの性交を予想して舌なめずりするベータにも辟易する。
(タスケテ……助けて……椿さん!)
オメガは優秀なアルファに見初められたいがために、つねに足の引っ張り合いをする。挫折した:オメガ(仲間)をかわいそうと言いながら踏み台にして、自分だけが極楽へ行こうとする盗人のような我欲で。
「椿さ……たすけ……て」
「またアイツの名を呼ぶのですか。困った生徒ですね、あなたは。ほら、お休みなさい。次に目が覚めた時には、あなたを天国へと連れて行ってあげますよ……っ!?」
教師はそれまでニタリと哂っていたのに、突然大きく目を見開き口を淡く開けたまま呆けた顔となる。
「憂璃に手を出すのは許さない」
かつて毎日聞いていた声が遠くから聞こえる。
教師はゆっくりと後ろに首を巡らせると「き……さまぁ」と怨嗟の声を絞り出し、そしてゴボッと血反吐をはいて崩れていく。
その向こうに揺らめいて見えるのは裸のまま血に染まった両手にナイフを握り締め微笑む憂璃の母の姿が。
「ごめん。もっと早く助けたかったんだけど……。でも、間一髪で実の親子が間違った道に進むのを止められたね……」
水の中で聞こえる音。大きくなったり小さくなったりする。
とても大事な話なのに。ちゃんとしっかりと聞かないといけないのに。
だけど……眼蓋がすごく……重い。
幸せになって、ボクの可愛い憂璃。こちらにきちゃダメだからね。
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