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壊れてしまったもの
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「はぁ、あ、ごほっ、ごほっ」
藍は地面に手を付き、せき込む。不快な臭いが消えてくれたおかげで、何度も空気を吸ったり吐いたりを繰り返せた。
(あれは一体なんなんだ。私は何を見たんだ)
藍の脳裏にさきほどの光景がフラッシュバックする。
血で濡れた台、人体から飛び出した内臓、地面に転がった首。
「………っ!!」
再び心拍数が上昇する。フラッシュバックしたことで再度、恐怖心が藍を襲う。暗闇に包まれた空間が更に恐怖に拍車をかける。
怖い。逃げたい。何も考えたくない。思考がまとまらない。
ただただ逃げることしか考えられない。あれほど心に刻みつけていた雫の死に関する証拠集めという目的すら、意識できない。藍は足に力を入れて立ち上がり、暗闇から逃げるように走り出した。壁に何度も壁に打ち付けても、意に返す余裕がまったくない。がむしゃらに階段を駆け上がり、明るい地上に出る。
照明の明かりで目がくらみ、目を一瞬背ける。
「あ~あ、遅かったか」
地上に顔を出すと、頭を抱えた雫が立っていた。
「はぁ、あ………しず…………く」
息も絶え絶えな藍を雫は見る。
充血した瞳、震えが止まらない唇、恐怖におののいている表情。
「その様子だと見ちゃったみたいだね。もう、待っててっていったのに」
雫は苦笑交じりのため息を漏らす。
「しず………く、あ、ああ、あ」
藍は必死で言葉を紡ごうとする。しかし、上手く声を出すことができずにいた。
今でもあの光景が目に焼き付いて離れない。あの地下の空間には今まで目にしたことにない狂気と残虐が確かにあり、血生臭さが充満していた。
「大丈夫?そんなに怖かった?」
今にも倒れそうな藍に対し、雫は平然と声をかける。まるで、お化け屋敷にから出た直後に掛けるかのような気安さが含んだ口調だった。今まで味わったことのない恐怖から逃げてきた藍にとってそれはあまりにも似つかわしくないものだった。
「見たって………」
玖月は事情がまだ飲み込めていなかった。ただ、雫からは書斎部屋には一般人には決して知られてはいけない隠し部屋があるとしか知らされていなかった。しかし藍の尋常ではない怯え方から、異常なものがあるということだけは理解できた。
玖月は藍が今さっき出てきたばかりの地下階段を覗く。
「地下に何が?」
「見に行かないほうが良いよ。昨日の霞の“遊び”の痕跡がたくさん残っていると思うから」
「………………」
玖月には返す言葉が出てこなかった。それがどういう意味なのかわかってしまったから。
そして納得した。雫がなぜこれほどまでに怯えているのかを。
「しず………く………あれっ………って」
藍は声を掠れさせながらも必死で言葉を紡ごうとする。とにかく、この真っ黒に埋め尽くされている恐怖を取り除きたかった。感情の波を穏やかにさせる言葉が欲しかった。
―あれは何かの間違いだと言ってほしい。
―どうか、これ以上恐怖を煽る言葉を加えないで。
藍は縋る思いで雫の言葉を待つ。
雫はすっと目を細める。
「やっぱり幽霊よりも死体のほうが生々しいよね」
雫は可笑しそうに口角を上げながら藍を見下ろす。それはまるで狼狽している藍を嘲笑っているかのようにも思えるものだった。
「………………っ」
今の藍にはどうしてもそう思えてならなかった。
藍は雫の顔をじっと見つめる。雫の笑みはこんな風だったろうか?
藍がよく見る雫の笑みは不自然さもぎこちなさもない、柔らかなものだった。雫は他人とは一歩引いた態度で俯瞰した笑みを浮かべることもあったが、藍と会話をするときは張り付けたような笑みは見せず、楽しそうに年相応の無邪気な笑みを向けることが多い。だからこそ、藍自身も気を許した笑みを返していた。
でも、今は見慣れているはずの雫の笑みが恐ろしかった。まるで、初めて見たかのような錯覚さえしてしまう。
「………………あ~、ごめん。そうじゃないよね、今言うのは。あれはね、えっと………」
硬直したままの藍に対し、雫はどうしたものかと考えあぐねる。
「藍、大丈夫?………じゃないよね?とりあえず説明はここを出てからにしよ?」
雫はカタカタを小さく歯を鳴らす藍に手を伸ばす。
「っ!!」
その仕草にビクンと身体が反応してしまう。霊である雫が自身に害を及ぼせないと知っているはずなのに、身体の震えが止まらない。その伸ばされた手がまるで己を絡めとるおぞましいもののように思えてしまい、地下での光景が重なり合う。
「ひっ!?」
藍は小さな悲鳴を上げると大きく横に跳ね、二人に背を向けて駆け出した。それは反射的な、本能的なものだった。危険から身を守りたいという防御本能が無意識下で働いた。つまり、今の藍にとって雫は逃げ出さなくてはいけない、恐怖の対象でしかなかった。
「あっ?ちょっと」
己から身を翻す藍を引き留めようと雫は声を出す。しかし、藍は一切振り返ることはなかった。壁や物に体をぶつけながら藍は書斎を出て行ってしまった。あっという間に藍がいなくなってしまってので、呆気に取られながら藍は飛び出していった扉を数秒だけぼんやりと眺める。
「まぁ、そうなるよね」
地下のものを目にしてしまったのなら、逃げ出すのは当たり前。五月雨家は一般人から見たらいわば、凄惨な巣窟そのもの。そして雫自身もその一部。だからこそ、雫も未知の恐怖の対象に入ってしまったのだろう。
あれを見てしまった以上、ごまかすことも言い繕うこともできない。藍は片足の半分ほど裏社会の片鱗を覗いてしまった。
「追わないんですか?」
玖月は藍の取り乱し方を見ても、さほど取り乱さず冷静に雫をせっついた。
「う~ん」
雫は表情にこそ極端に現わさない内心、頭を抱える思いであった。この状況の可能性も予想はしていた。しかし、いざ目の当たりにするとこの後、どう対処すればいいのかと戸惑う。
しかし、それはほんの数秒ほどの間だけだった。
「とりあえず、後はここを出てからだね」
ドタバタと書斎からでも藍の足音が聞こえる。このままでは兄弟たちに気づかれる可能性が十分にある。その前に藍をこの家から脱出させるべきだろう。
二人は藍の足音を追うように急いで書斎から出た。
藍は地面に手を付き、せき込む。不快な臭いが消えてくれたおかげで、何度も空気を吸ったり吐いたりを繰り返せた。
(あれは一体なんなんだ。私は何を見たんだ)
藍の脳裏にさきほどの光景がフラッシュバックする。
血で濡れた台、人体から飛び出した内臓、地面に転がった首。
「………っ!!」
再び心拍数が上昇する。フラッシュバックしたことで再度、恐怖心が藍を襲う。暗闇に包まれた空間が更に恐怖に拍車をかける。
怖い。逃げたい。何も考えたくない。思考がまとまらない。
ただただ逃げることしか考えられない。あれほど心に刻みつけていた雫の死に関する証拠集めという目的すら、意識できない。藍は足に力を入れて立ち上がり、暗闇から逃げるように走り出した。壁に何度も壁に打ち付けても、意に返す余裕がまったくない。がむしゃらに階段を駆け上がり、明るい地上に出る。
照明の明かりで目がくらみ、目を一瞬背ける。
「あ~あ、遅かったか」
地上に顔を出すと、頭を抱えた雫が立っていた。
「はぁ、あ………しず…………く」
息も絶え絶えな藍を雫は見る。
充血した瞳、震えが止まらない唇、恐怖におののいている表情。
「その様子だと見ちゃったみたいだね。もう、待っててっていったのに」
雫は苦笑交じりのため息を漏らす。
「しず………く、あ、ああ、あ」
藍は必死で言葉を紡ごうとする。しかし、上手く声を出すことができずにいた。
今でもあの光景が目に焼き付いて離れない。あの地下の空間には今まで目にしたことにない狂気と残虐が確かにあり、血生臭さが充満していた。
「大丈夫?そんなに怖かった?」
今にも倒れそうな藍に対し、雫は平然と声をかける。まるで、お化け屋敷にから出た直後に掛けるかのような気安さが含んだ口調だった。今まで味わったことのない恐怖から逃げてきた藍にとってそれはあまりにも似つかわしくないものだった。
「見たって………」
玖月は事情がまだ飲み込めていなかった。ただ、雫からは書斎部屋には一般人には決して知られてはいけない隠し部屋があるとしか知らされていなかった。しかし藍の尋常ではない怯え方から、異常なものがあるということだけは理解できた。
玖月は藍が今さっき出てきたばかりの地下階段を覗く。
「地下に何が?」
「見に行かないほうが良いよ。昨日の霞の“遊び”の痕跡がたくさん残っていると思うから」
「………………」
玖月には返す言葉が出てこなかった。それがどういう意味なのかわかってしまったから。
そして納得した。雫がなぜこれほどまでに怯えているのかを。
「しず………く………あれっ………って」
藍は声を掠れさせながらも必死で言葉を紡ごうとする。とにかく、この真っ黒に埋め尽くされている恐怖を取り除きたかった。感情の波を穏やかにさせる言葉が欲しかった。
―あれは何かの間違いだと言ってほしい。
―どうか、これ以上恐怖を煽る言葉を加えないで。
藍は縋る思いで雫の言葉を待つ。
雫はすっと目を細める。
「やっぱり幽霊よりも死体のほうが生々しいよね」
雫は可笑しそうに口角を上げながら藍を見下ろす。それはまるで狼狽している藍を嘲笑っているかのようにも思えるものだった。
「………………っ」
今の藍にはどうしてもそう思えてならなかった。
藍は雫の顔をじっと見つめる。雫の笑みはこんな風だったろうか?
藍がよく見る雫の笑みは不自然さもぎこちなさもない、柔らかなものだった。雫は他人とは一歩引いた態度で俯瞰した笑みを浮かべることもあったが、藍と会話をするときは張り付けたような笑みは見せず、楽しそうに年相応の無邪気な笑みを向けることが多い。だからこそ、藍自身も気を許した笑みを返していた。
でも、今は見慣れているはずの雫の笑みが恐ろしかった。まるで、初めて見たかのような錯覚さえしてしまう。
「………………あ~、ごめん。そうじゃないよね、今言うのは。あれはね、えっと………」
硬直したままの藍に対し、雫はどうしたものかと考えあぐねる。
「藍、大丈夫?………じゃないよね?とりあえず説明はここを出てからにしよ?」
雫はカタカタを小さく歯を鳴らす藍に手を伸ばす。
「っ!!」
その仕草にビクンと身体が反応してしまう。霊である雫が自身に害を及ぼせないと知っているはずなのに、身体の震えが止まらない。その伸ばされた手がまるで己を絡めとるおぞましいもののように思えてしまい、地下での光景が重なり合う。
「ひっ!?」
藍は小さな悲鳴を上げると大きく横に跳ね、二人に背を向けて駆け出した。それは反射的な、本能的なものだった。危険から身を守りたいという防御本能が無意識下で働いた。つまり、今の藍にとって雫は逃げ出さなくてはいけない、恐怖の対象でしかなかった。
「あっ?ちょっと」
己から身を翻す藍を引き留めようと雫は声を出す。しかし、藍は一切振り返ることはなかった。壁や物に体をぶつけながら藍は書斎を出て行ってしまった。あっという間に藍がいなくなってしまってので、呆気に取られながら藍は飛び出していった扉を数秒だけぼんやりと眺める。
「まぁ、そうなるよね」
地下のものを目にしてしまったのなら、逃げ出すのは当たり前。五月雨家は一般人から見たらいわば、凄惨な巣窟そのもの。そして雫自身もその一部。だからこそ、雫も未知の恐怖の対象に入ってしまったのだろう。
あれを見てしまった以上、ごまかすことも言い繕うこともできない。藍は片足の半分ほど裏社会の片鱗を覗いてしまった。
「追わないんですか?」
玖月は藍の取り乱し方を見ても、さほど取り乱さず冷静に雫をせっついた。
「う~ん」
雫は表情にこそ極端に現わさない内心、頭を抱える思いであった。この状況の可能性も予想はしていた。しかし、いざ目の当たりにするとこの後、どう対処すればいいのかと戸惑う。
しかし、それはほんの数秒ほどの間だけだった。
「とりあえず、後はここを出てからだね」
ドタバタと書斎からでも藍の足音が聞こえる。このままでは兄弟たちに気づかれる可能性が十分にある。その前に藍をこの家から脱出させるべきだろう。
二人は藍の足音を追うように急いで書斎から出た。
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